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第6巻【近世・近代・現代編】- 第9章:戦争

第1節:戦争体験記

私の昭和史

            越畑 福島和

 一つのものを見るのにも、人それぞれ見方感じ方が違ってくる。有史以来、色々の出来事の多い昭和の年代も、明治、大正生れの人々の綴った記録は現在、数多く見うけられるが、昭和初期を一番感じやすい、そして大事な成長期として過して来た人々の記録は、余りにも少ないと思われる。あらゆることが統制の名のもとに受動的になってしまっているからかも知れない。ここに昭和三年(1928)生れ、この年代の一人として私の見た、そして歩んで来た昭和史の一部を綴って見ることにします。

昭和初期不況時代 幼なき日々への郷愁

 私の生れた昭和三年(1928)頃は世の中は大変不況だったようである。人々は今の陛下即位のご大典などを契機に不況の回復を非常に期待していたという。私の父の事業も大正末期から昭和初期にかけての金融恐慌のあおりをまともに受けて、何ら手の下しょうもなく、倒産の憂き目を見てしまった。
 夜、トタン屋根の上をミシミシと渡り歩く音を聞くと、次の朝は必ず長いサーベルを下げ、口髭を生やした巡査に手錠を掛けられ、連れ去られて行く風呂敷包みを背にした泥棒君の姿が見られたような世相であった。そしてドイツの飛行船「ツエッペリン号」がゆったりとした巨体を現わし、人々を驚かせたのもこの頃、昭和四年八月のことで今でも瞼に焼きついている。
 この頃の人々の楽しみは春の花見、何となく哀愁の漂うテントなど、熊谷に住んでいた私達子供にとって嬉しいのはうちわ祭である。ぶっかき氷をかじりながら、ミコシを担いだり、足が棒のようになるまで山車を引廻すことだった。
 昭和十一年(1936)二月二十六日、大雪の降り積った十字路で銃剣を人々に突きつけ、異様な雰囲気の中で検問する光景を見たことがあった二・二六事件の地方での出来事だったのである。
 時に八歳。私の通った熊谷西小学校は高域神社の裏の方で、欅と桜の老木に囲まれた古い校舎である。広い表庭のほかに井戸のある中庭、そして木の太い根が地面を這っている裏庭など、遊びを工夫するのに好都合の環境にあった。庭の東方に古びた尼寺があり黒夜を纒った可愛らしい尼さんが出入りしていた。夕暮になるとグオーンと云う鐘の音が聞こえ、遊びに夢中になっている時でも、急に家が恋しくなり夕焼け空に浮き出されたカラスと共に家路に急いだものである。
 この頃の人々は戦争や政治のことからかけ離れた無難な話題を求める傾向が強かったと云う。相撲の双葉山が七十連勝を安岐の海に阻まれ大騒ぎをしたのが昭和十四年(1939)一月のことであった。小学六年男女別六クラス。中等学校進学者は私のクラスで十五名程度で、入試は口頭試問位だったが何人か落ちたようだ。中学迄の距離は約四粁国防色の制服で足に脚絆を巻いた実戦形の服装で歩いて通った。

太平洋戦争へ突入 勤労奉仕の日々

 昭和十六年(1941)十二月八日、この日は軍事教練の査閲の日であった。午前六時、足も大地に凍りつくような寒い校庭に銃剣を持ち、査閲官の来るのを待つこと一時間、ようやく乗馬姿の陸軍少佐なる人物が来て「今朝未明米英両国と戦闘状態に入った。諸君も前線の兵士に負けぬよう頑張れ」旨の訓示があり異常な興奮を覚え、これに刺激されて皆一生懸命やったのか最後の選評で「本日の成績は優秀なり」の言葉でしめくくって去って行った最も忘れ得ぬ日の一つとなった。
 この頃から、町の中にもミリタリズムの昂揚を物語る数多くの軍人が見うけられ、総てが軍最優先の時代に突入していったのだ。一、二年の頃はどうにか平常の勉強に勤しむことが出来たが、日曜、夏休み中は農家の手伝い、或は三ヶ尻の陸軍飛行場へ草刈りに行き、家に居た記憶は思い出せない。それが当り前だと思っていたのである。
 地球の丸いのがわかるようなだだっ広い飛行場に各中等学校生徒が二、三米間隔に一列に並び、焼けつくような暑さの中で草刈りを始める。遥か彼方には上官に怒鳴られながら二枚羽根の赤トンボで操縦の猛訓練に励む十五、六歳の少年飛行兵の姿が見受けられた。文字通り総力をあげての戦時態勢に変りつつあった。
 教科の中にも支那語が取り入れられ満州人の先生に教わった。又英語は敵国語なるが故に排除される処であったが校長先生の信念によりよりいっそう勉強したものである。
 昭和十八年(1943)十月学徒出陣壮行会が神宮外苑競技場で行われ、ペンを銃に変え戦場にかり出されて行った。「きけわだつみの声」などの遺稿集にある学徒の悲壮な姿なのである。
 そして昭和十九年(1944)三月学徒通年勤労動員令が実施され、私達も学校を離れ軍需工場に働くことになる。時に三年に進級したばかり。最初は鉢形の駅前を一粁登るとまわりを山で囲まれた処に軍の弾薬庫がありここに動員された。兵隊が数人と、私達と同年配位の、お下げ髪に戦闘帽をかぶり、モンペ姿に防空頭巾を下げた可憐な女子挺身隊員の姿も身うけられた。
 仕事は山の中復にある倉庫へ弾薬箱を台車で運ぶきつい仕事である。汗を異常に流すので配給された食塩のつぶを嘗め、水を飲みながらの作業なのだ。六十粁爆弾を担ぎ、腰をふらふらさせながら、貨車に積み込む級友の姿が目に浮かぶ。ある時は兵隊の目を盗み、空腹のため山へ入り、まだほんの小さい栗などを取って来て、友とわけ合ってり、又体の不調な友を皆でかばい合い、昼寝をさせてやったり、殺伐とした中にもほのぼのとした友情をもやしたものである。
 こうした異常な中でも折にふれ度々巡回して来られては私達の健康を気遣う担任の先生の温かい言葉に、どの位慰められ勇気づけられたか。後に私の母校に長女が進学したことがあったが、今は後援会長の立場にあるこの恩師が或る時全校生徒を前にして、「戦時中、学徒動員された生徒には勉強もろくに教えることが出来ず私の力では何もやってやれず不憫で不憫でならなかった。教師として、大人として、ほんとうに申し訳ないと思っている。」と沈痛な面持ちで語ったと云う。批判力も奪われ、素直に戦時体制の流れるままに従って来た当時の中等学校生徒と教師の姿である。
 このような中で、上級生は陸士へ、そして級友の中からはぼつぼつ少年飛行兵や海軍の甲種予科練などへ志願し、入隊するものが出始め壮行会などが盛んに行われていた。私達在学生の心のうちも何時かは必ず、志願するのだという気概がみなぎっていた。

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