第6巻【近世・近代・現代編】- 第8章:女性の活動
嵐山町母子愛育会昭和48年度合同研修会(1973年度)
愛育班活動に思う
千手堂支部・瀬山つね
若い青春時代もなく、銃後の女性として、町の軍需工場で働くことだけに心をこめてまいりました。
嵐山町母子愛育会『昭和48年度合同研修会資料』
運命の夕暮、汗と油で育てた我が職場は、一夜の火にたちまち消え失せてしまいました。戦後、昭和22年(1947)、品物不足と食糧事情の困難な時でした。こんな人生のどんぞこから家族の協力のもとに、やっと芽ばえた私です。
今住んでいる私の所は、町とはいいながら、大自然の山にかこまれた、静かな農村地帯です。旧農家は51戸で、その暮しは養蚕と務めが主体です。水道の入らない当時は、水汲みは女の仕事です。平地ではありませんが、公害もない環境に恵まれた所です。
昭和23年(1948)長男が生れました。当時おじいさんとおばあさんもおりました。子供は家族の愛情から成長するものではないでしょうか。その当時は愛育班活動はありませんでした。家庭生活の中には色々の心配事もあります。若いお嫁さんだといって無理すると、しばしば体に変調がおきることもあります。私も何度か苦い経験を味わいました。又家族調整も考えなければなりません。そんな時には町の産科の先生と相談し、そして毎日の生活が楽しく働けるようにいたします。思えばこの愛育班の活動が実施されたのは昭和34年(1959)の頃でした。粉ミルクの配給が始まりです。役員は当番になると、仕事の合間を利用して、妊婦さんにミルクを届けます。私も何度かいただきました。先ずお年寄に一寸味を見ていただき、それから自分でいただきます。角のない日常生活をするには、一寸の心使いが大事なことだと思います。明るい、住みよい嵐山町にそえて保健婦さん助産婦さんも、愛情のある方なので、一生懸命ご指導して下さいます。
血圧測定、乳児健診も時々行います。又会長さんは朗らかな方なので、役員も楽しく活動ができます。乳児健診の時役員はお母さんに前もって検診の日をお知らせいたします。当日の役員は身長、体重の測定を、脱臼の調べは助産婦さん、相談は保健婦さん2人の行き届いた注意に若いお母さんは真剣に聞いています。
私が訪問する生後2ヵ月赤ちゃん、今では色々と物まねをいたします。本当に可愛いいではありませんか。又母親は私を喜んで待ち受けてくれます。そして子供さんが色々と知恵のついたことを語ります。
親と子の間の、目には見えない、糸のようなつながりは、切っても切れるものではありません。
愛育班活動は社会奉仕事業の一つです。そのねらいは丈夫な母親が丈夫な赤ちゃんを生み育てることです。1月に行われた癌検診についてですが、近所の皆さんと話し合い検診を受けるようすすめましたところ、喜んで賛成し、人数に限りがありますので、早く申込みました。早期発見により尊い命を取りとめることもできます。
昨年11月大宮商工会館に於て、県総会並びに表彰式が行われました。嵐山町でも保健婦さんを始め、数名参加いたし、私もその一員として同行しました。
母子愛育会県支部長黒木先生より、私達の会長さんが表彰を受けられました。私達一同喜びにたえません。これも日頃愛育班活動にたずさわる努力がここに実り会長の手にしっかりと握られたものだと思います。
昭和49年(1974)の春をうかえました。お年寄りを交えての話し合いの場を持ちたいと考えております。いかがでしょうか。家族の中心となっている、若いお母さん、新たに「ハンドル」を持ち変えていただき、毎年町でやって下さる敬老会にお招きされるお年寄りをおよびして、何か喜んでもらえるようなことができたらと思います。せめて晴着の一枚でもかけて上げたならば喜ぶことではないでしょうか。私はとても喜ばれた想い出があります。楽しく過した、敬老の土産話を持ち帰り、夜の茶の間に咲く花。この活動はお母さんや子供さんのことばかりでなく、お年寄りのことも考えて仲良くすることです。
「ほのお」を灯したこの会に根強くのびようどこまでも、以上です。