第6巻【近世・近代・現代編】- 第8章:女性の活動
菅谷地区・七郷地区母子愛育班合同体験発表会(1965年)
母性愛の尊さ(心の交流と更生)
勝田支部 関口つや
過日、支部長さんから体験発表をと云う依頼をうけましたが、私は5年前班長として2児の家庭を訪問いたしました。まだ愛育班発足当時で日も浅く、それに私の担当は短期間でしたので、これと言う体験とか研究する間もなく終ってしまいました。
菅谷地区・七郷地区『母子愛育班合同体験発表会』資料 1965年2月15日
未熟者の私は途方にくれ辞退いたしましたが、素朴のためかとうとう辞退し切れずに支部長さんの責任感をも痛感いたしましてお受けすることにいたしました。
ここに嫁いでからの人間観、あらゆる生物にタイするいきさつをお話しして見たいと思います。私は昭和21年(1946)敗戦直後に嫁いで参りました。23年(1948)に長女が生れましたが種々物品も少なく、幸せ遠い将来でしたので苦難と戦って参りました。特に長女出生後は生命の維持に根強く、抵抗力の激しい母性愛が生じたのですが、母乳の少ない私には最大の悩みがありました。
現在では母子愛育会が出来、若いお母さん方、いや万民にとっても大変喜こばしい事と存じます。保健所、役場、役員の皆さん方のお骨折には厚く感謝申上げる次第でございます。
当時家では大家族をひかえ、人権の尊重さえも敗戦国にふさわしい家庭だったのです。家族内の人間関係は悪化するばかり、事業の関係もありましたので父母は他町村へ別れて行きました。母として、妻として良い人間関係を作る為に激しい苦痛に耐えて生きて行く覚悟でしたが、食糧難の時代でもあり、希望もなくなったある日、搾乳牛をかうことを計画いたしました。幼い我が子にも与えられ、小規模の農家にとっては収入の面でも好都合だったのです。然し其の乳牛は神経質で手に負えなくなっていたのです。私はふと思いつき動物にも愛情が必要ではないかと、生ある限り愛情と信念に燃え、我が子に飲ませるためにも搾乳児には笑顔で牛の鼻づらをなでながら飼料でだまし、休む暇もなく、さする。こするの努力をはらいました。病の時には一緒に一夜を明かしたこともありました。すると動物でも私の気持が通じるのか、ゆるやかな面もちで調整した気持を伝えるのかのように鼻づらで合図するのです。そしてあの何百キログラムもある体を、私にすり寄せて何となく搾乳させるのです。その時は何とも言えぬ嬉しさに目頭が熱くなり、汗と涙にぬれてしまいました。私は、人間にかぎらずあらゆる生物は愛情によって心の交流は出来るものだと不思議に、いや恐ろしいくらいの体験をいたしました。これも母性愛の持主なればこそと強く深く愛の尊さを考えさせられました。あんな巨大な動物までが愛情によって左右されるとは人間精神の発達には、もっともっと暖かい良い環境が必要なのだと思いました。間もなく母が一片の翼をもぎ取られた白鳥のように身も心もつかれ果て、我が家に帰って参りました。過ぎし苦しさを追想し家族は悲しむばかり、愛情にうえて帰って来たのかも知れない母に、私は思う存分愛情に一層の迫力をかけて、何事も気軽に話し合える親娘でありたいという気持で接しました。するとあの激しかった翼は何時のまにか優しい蝶々にもたとえようか、心のきずなはすっかりとれて今では遠い2人の想出となって、笑い話に花が咲くのです。思想、賢実、品行ともに又、知識といいどれも満点の母は神秘のような人間だったのです。若い者よりはるかに勝る母性愛の持主なのです。母は農業のすきには私の洗濯までしてくれたのです。「おばあちゃんありがとうね」と私が云うと、母は笑顔で「これは自分の洗濯物と同じで今に世話になるから」と苦労にもめげず、気持良くやってくれるのです。そして現在では農家最大の収入である養蚕に、或いは学費予算の計画にも細心の努力をはらってくれます。こうした母の近代的な行動に感謝で一杯です。
何時かか長女が進学の際に親子とも神社にお参り行き、無事ここまできた喜びを誓いました帰りに、長女が私達二人の手をとって「おばあちゃん、お母さんありがとう。皆んなこの手が立派に育ててくれたのね」と進学の幸福を告げるのでした。
二女の炊いた赤飯の湯気は、昇る朝日に照らされて私達一家の幸福をとり巻いてくれるかのようにも感じました。今では4人の母親ですが、複雑な環境からはすっかり開放され、家族全員平等の光にしたっています。こうして我が家もお互いの個性、心の交流によって更生され、現在では生き甲斐のある生活を送っています。
人権擁護週間が成立して17年とか、過日有線放送で耳にしましたが、少年犯罪は大問題となっております。私達はもっと我が子を観察し重視できるような母親になりたいと思います。
以上、誠にとりとめもないことを申上げましたが、私の体験発表にかえさせて頂きたいと思います。