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第6巻【近世・近代・現代編】- 第8章:女性の活動

第1節:婦人会

菅谷地区婦人会『つどい』創刊号1958

にがいことば

            遠山 山下藤

 先日夕飯の時四才の子が、「母ちゃん今日ね、どこかのおじさんに嵐山へ行く道を聞かれたんだけど皆が黙って居たらね、やっぱり遠山の子は駄目だなあ、って云ったよ、今度は教えるんだい」と、ほほをふくらませ乍ら、いくらか恥かしそうに私に話しかけた。
 「それじゃあ馬鹿みたいね、今度は教えてあげなさいね」と子供に云いながら、私自身も一寸恥かしい思いがした。その場には小学二年の姉の方も居たと云うし、もっと高学年の子供も数人いたらしかった。私はその晩床に就いてから、夕飯の時の子供の話を思い出していろいろ考えさせられた。知りながら教えなかった子供もさる事ながら、「やっぱり遠山の子は駄目だなあ」と云って立去ったと云う大人の言葉に一矢報いたい気持が動いた。幸い子供心にも今度は教えてやろうと云う気持が起きた事は多少でも進歩した事である。それを思えば、にがい言葉も薬になるが、若しそれが大人の言葉に対する反抗であるとすれば、にがい言葉も薬と云うわけにはゆかなくなる。
 問はれて答うるは人の情であり大人の社会では常識である。又云はずに済む事は云はずに通す事も人情ではないだろうか。大人だからと云って重宝な言葉の濫用(らんよう)は子供でなくも御免蒙(こうむ)りたいだろう。二十年前小学校の先生に三匹の猿の話しを聞かされた。世相の移り変りのはげしい現在、みざる、いはざる、きかざるの戒(いましめ)はそのものずばりで受入れる事はできないだろうが、その教えも又忘れてはならないと思う。いろいろ考えて、昔の人は修身科なるものから道徳教育を受け、今の子供達も社会科などで、さりげなく正しい道を教えられて居ると云うのに、どうして一寸した道徳が守れないのだろうか。結局大人も子供も共に教科書の上だけでない日常の身近なそして庶民的な道徳を少しづつでも身につけてゆかなければ、すべての社会の矛盾はなくならないのではないか、と思う。

菅谷地区婦人会『つどい』創刊号 1958年(昭和33)11月
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