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第6巻【近世・近代・現代編】- 第8章:女性の活動

第1節:婦人会

茜雲(あかね雲)

スクラム組んで
   ともしつづけよう
      ともろう会の灯

 59年(1984)度、ともろう会の運営方法は変わりましたが、創立以来の会の趣旨・目的は新役員に引き継がれ、着実にあゆみ始めています。整備のできたコースをすすむのは、たやすいことですが、会員の現状に合わせて、活動を取捨選択するのは、勇気のいることと思われます。
 今年度の新しい取りくみに努力されている、新会長・企画委員長に、抱負の一端を記していただきました。


私と婦人会との出逢い

               会長 関根マサ

 会長という大任を引き受けて早や二ヶ月が過ぎました。
 スポーツレク、リーダー研修と盛会に終了することが出来ましたこと、ホッとしているところです。これもここまで育てて下さった前役員さんたちの御苦労のお陰と感謝しております。
 この二ヶ月は、私にとって貴重な月日だったようです。物の見方、考え方を、今までにない側面から多少なりとも見つめられるようになったことです。
 また、役員の方々をはじめとして、各会員が、頼りない会長ゆえ、ハラハラ、ドキドキしながらも応援し、励まし見守って下さる姿に感謝しております。
 さて、私の婦人会との出逢いといいますが、物心のついた時がそうだったように思われます。
 私の田舎は、純農村地帯です(現在は変わりました)。その中で農協婦人部の活躍が素晴らしかったように記憶しております。
 たまたま近所のおばさんが、全国の会長さんだった関係で、村で何か目新しいことがあると、県内や他県から視察に見えて、台所改善、食生活改善と家々を訪問していたようです。玄関の板戸をガラス戸に替えただけでも生活改善だった時代です。また「五十路学級」「若妻学級」といった公民館活動も活発でした。昔の封建的な農村では、一人二人の力ではどうにもならなかったことも、婦人部という大きな組織で、一歩ずつ改善して来たのです。
 故郷の婦人会も、大部変わりましたが、夏の夜などキューリ、トマトの出荷に忙しい合い間をぬって、体育館でのバレーの練習に汗を流している姿を見ていると、私など時間的に恵まれた生活に本当に感謝せねばと、いつも家路につきます。
 ともろう会の会員もお勤めの方がふえて来ました。そのため退会する方も少なくありません。何かとても残念でならないのです。無職、有職に関係なく、住みよい環境、人間味等、婦人の力が必要だと思うのです。
 「ともろう会は私てもっているんだ。」と会員一人一人が自覚し、協力を惜しまないでほしいと思います。不慣れな役員ですが、よろしく御指導下さるようお願い申し上げます。


新しいシステムで出発

               企画委員長 井上睦美

 ともろう会の祭典のひとつと云われているスポーツ・レクリェーションも、またたく間に終わりました。
 新しい会長を中心に、新しいシステムで動きはじめて二ヶ月余り、企画委員会を手さぐりながら、ひとつひとつ行事をこなしています。
 今年度は、各部(広報部を省く)が廃止されたために、今までの各部の行事の全て含んだものを計画しなければなりません。
 企画委員8名、顔を合わせて考えだしたのが、会員の手元に届きました行事予定表です。
 特徴としては、参加しやすいもの、そして参加すれば、なんらかの形で会費を還元できるようにと考えてあります。
 少し、親切すぎるかなとも思いますが、しっかり参加して、楽しんでもらいたいと云うのが企画委員の気持ちです。
 もと、ともろう会の会員だった方の話によれば、こんなにユニークな婦人会はあまりないのではないかという声も聞きました。
 ともろう会を盛りたてるためにもおおいに参加し、意見を聞かせて下さい。

ともろう会広報部『あかね雲』19号 1984年(昭和59)6月30日

着実な一歩を!!

 ともろう会の中で活動してきたボランティアグループが、今年度から、新たに「一歩の会」として、独立しました。一歩、一歩着実に前進したいとの願いがこめられているのです。自分に出来ることで手伝わせていただける喜びを感じながら、現在13名のメンバーで静かな歩みを続けています。
 皆さん、私たちの仲間になりませんか。

ともろう会広報部『あかね雲』19号 1984年(昭和59)6月30日

自然を大切に

               菅原輝代

 軍手をはめて帽子を深くかぶり、トレーパン姿で玄関を出たとたん「ゲートボールへゆくの」とお隣の奥さんの声、ええっショック、「自治会館と市野川の大掃除よ」と強く吹聴して勇んで? 出かけました。
 四月に完成したばかりの新会館は、汚れている所は少いけれど、みんな一生懸命、窓ガラスや床みがきに汗を流しました。
 つぎは市野川の掃除です。土手の草むらを、四、五人でゴミを拾いながら歩いて行くと、ギャアー、天にもとどろく奇声を発してしまいました。この世で一番嫌いなヘビに出くわしたのです。こんな目前でヘビとの対面は初めてのこと。もう前へ進むことができなくなりました。
 河原へ下りてくると、空缶やビンの破片、生ゴミまでが捨てられていて汚れが目立ちます。
 私の子供の頃、遊んだ故郷の川の水はすきとおり、河原の小石はキラキラお陽さまに輝いていたっけ……そんな思いをめぐらせながら、年々自然が荒廃する現状を、どうしたらいいのか考えてしまいました。今せめて私達に出来ることは、地域の川や公園、空地などを清掃し、自然を守る心がけが大切だと思いました。
 ひとりの力は小さくとも、大勢の力はすごいもの、一時間ほどで河原はすっかりきれいになりました。
 心までも、すっきりして帰ってきました。

ともろう会広報部『あかね雲』19号 1984年(昭和59)6月30日

歴史と自然の里

               小島徳子

 新宿から中央線に乗り、約二時間ほどで、山梨県の中心地、甲府市につきます。ここが私のふるさとです。甲府盆地は、西に白根三山、甲斐駒ヶ岳などの南アルプス、南に日本一の富士山、北に八ヶ岳がそびえ素晴しい緑の山々に囲まれています。日本屈指の美しい渓谷として知られる昇仙峡や、石和、湯村温泉郷、秋の紅葉シーズンには、甲州ブドウ狩りにと、観光客でにぎわっています。
 また、甲斐国の歴史の檜舞台に登場した。戦国時代の名将武田信玄が居館を築いたのもこの盆地で、周辺には、多くの古社寺があります。
 この恵まれた、美しい自然豊かな地は、幼い頃から、青春時代の思い出がいっぱいです。
 ところが、昔遊んだ荒川*1も今は、サイクリングロードとして、アスファルト舗装されてしまい、田畑は住宅、道路にと変わり、ただ山々だけが昔のままです。
 嵐山に住んですぐ、母が亡くなり、ふるさとへの足も遠くなりました。やがて子ども達の帰るふるさとのために、いつまでも元気でいたいと思います。

*1:山梨県甲府市の富士川水系の荒川(あらかわ)。

ともろう会広報部『あかね雲』19号 1984年(昭和59)6月30日
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