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第6巻【近世・近代・現代編】- 第7章:文芸・学術・スポーツ

第2節:和算

郷土の和算学者 内田往延

和算学者として活躍

 内田往延(ゆきのぶ)は本名を内田祐五郎といい、天保14年(1843)3月23日に、杉山村字川袋で内田嘉右衛門の次男として生まれた。それは江戸時代の末期、江戸幕府滅亡の25年前の頃であった。往延はやがて熊谷宿(現・熊谷市)の利根木与衛門(とねぎよえもん)(格斎)のもとで関流(せきりゅう)の和算(わさん)を学んだ。
 和算というのは、中国から伝わった数学を基礎にして江戸時代に日本独自に発達した数学のことであるが、幕末から明治にかけてアメリカやヨーロッパから伝えられた数学(洋算)と区別して後に和算といわれるようになった。
 この和算を確立した学者が上野国(こうずけのくに)藤岡(現・群馬県藤岡市)で生まれたという関孝和(せきたかかず)である。彼の生年は不明であるが、推定して寛永17年(1640)といわれている。彼は若くして関家の養子になる。やがて甲斐国(かいのくに)甲府藩(現・山梨県甲府市)の徳川綱重・綱豊に仕えて勘定吟味役(かんじょうぎんみやく)になる。やがて綱豊が徳川の6代将軍となると直参として江戸詰めとなり御納戸組頭(ごなんどくみがしら)になった。
 彼は学問的には暦学と和算を深く研究していたが、彼の名を後世に残したのは和算の学者としてであった。没年は宝永5年(1708)であるから江戸時代の前期から中期に活躍した人で、彼の数学の水準は高度なものであったという。関孝和と同時代のイギリスにはあの有名なニュートンがいた。彼はリンゴが木から落ちるのを見て、やがて「万有引力の法則」を発見したということで有名な世界的な物理学者、数学者であるが、関孝和の数学も世界的な水準のものであったという。関孝和の和算はやがて弟子たちに受け継がれ、江戸時代の有力な和算家はほとんど関流に属するようになっていった。
 内田往延は、この関孝和の流れを受け継ぐ利根木のもとで学んでから、さらにその師であった群馬の剣持章行のもとで暦数も究めた。そして時代が代わって、明治政府が新しく財政の基礎を築くために1873年(明治6)に地租改正条例を公布して、全国の土地の調査を始めると、多くの和算学者が測量に従事したが、内田往延も特別編輯総図(とくべつへんしゅうそうず)と杉山村検地担当人に選ばれ、正確な土地の測量を行ったといわれている。往延は1884年(明治17)に志賀の根岸彦九郎家に入り、近郷の子弟の教育にあたった。

岩殿観音正法寺に算額を奉納

 内田往延は、1878年(明治11)に東松山市岩殿の岩殿山正法寺(真言宗)に算額を奉納している。正法寺は、坂東三十三札所の第10番札所岩殿観音として知られている比企地方の名刹である。奉納したのは33歳のころという。算額には、「奉懸御寶前算術問」と題して、上に二つの図形を記し、その下に、それぞれの図形についての問題と解法が記されている。この額は1974年(昭和49)7月10日に東松山市の指定文化財になっている。

岩殿観音に奉納された内田往延の算額|写真
岩殿観音に奉納された内田往延の算額

内田往延の頌徳碑

 往延に和算を学んだ門弟たちは、1933年(昭和8)に師の功績をたたえる頌徳碑「内田往延先生之碑」を建立した。碑は滑川町月輪の根岸啓男家の庭の入口に建てられている。根岸啓男氏の祖父根岸文助は内田往延の高弟であった。

内田往延の頌徳碑|写真
内田往延の頌徳碑

頌徳碑の表面

 碑の表面には、[算法]、[幾何の図形]、その両脇に [問題]と[解法]、その下に「内田往延先生之碑」と刻まれている。
碑の表面|図
 この解法は県立小川高等学校の数学科教諭で和算の研究者である松本登志雄氏の読み下しによると、次のようになる。
「術に曰く、二個を置き平方に開き,天と名づく。之を十六し二十四個に加え、平方に開き、天三段および三個を加え、小径の半を乗じ、之直長を得て問に合す。」
 この文通りに式を立てれば、次のようになる。

頌徳碑の裏面

 碑の裏面には、内田往延の功績を述べた漢文が、次に「拠資芳名」が刻まれている。「拠資芳名」には、碑の建立に賛同して資金を出した102名の大字、氏名、金額が記されており、彼らは門弟と思われる。現在の地域で見ると、嵐山町44名(杉山14名、吉田2名、広野9名、越畑7名、勝田4名、太郎丸2名、菅谷1名、平沢1名、根岸1名、志賀1名、川島1名、古里1名)、滑川町43名(月輪31名、羽尾7名、水房2名、福田1名、伊古2名)、東松山市7名(下唐子1名、唐子1名、神戸3名、松山1名、野田1名)、大字名解読不能8名。
 これを見ると内田往延の門弟が嵐山町、滑川町、東松山市の地域に広がっていたことが分かる。
 次に嵐山町分を大字別に氏名を記す。
杉山 金子財助、伊藤重太郎、金子忠良、内田陽造、早川永吉、新井忠三、早川寅吉、伊藤亀吉、水島住太郎、同 忠三、同 市太郎、同 久作、内田千代松、金子喜代造
吉田 小林喜太郎、小林国三郎
広野 内田金三郎、井上万吉、権田畠太郎、同 冨五郎、同 徳治、栗原佐三郎、同 重太、同 平吉、同 権造
越畑 船戸平左エ門、田島滝蔵、同 竜吉、青木五三郎、同 平馬、強瀬埼三郎、市川鉄次郎
勝田 杉田忠五郎、田中億次郎、田幡信次郎、同 喜一郎
太郎丸 中村茂十郎、大沢賢司
菅谷 山岸章祐
平沢 内田傳兵衛
根岸 小澤與四郎
志賀 根岸勝蔵
川島 島崎和一郎
古里 安藤文右エ門

建設委員 大塚宗治 金井栄助 宮島梅吉 島田為助 井上茂重 小林国三郎 内田金三郎 青木五三郎 金子忠良
発起人  篠崎善太郎 篠崎藤次郎 金子喜代造 武井茂次郎 武井松五郎 内田千代松 大塚誉田
後見   篠崎熊三郎 篠崎千松
    根岸文助
    根岸信行

 和算のその後であるが、明治政府が1872年(明治5)に学制を定めて近代的な義務教育を始めたときに、学校で学ぶ数学として西洋の数学を採用することになった。以後江戸時代から培われてきた和算は次第に衰退していった。

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