第6巻【近世・近代・現代編】- 第7章:文芸・学術・スポーツ
武蔵比企郡の諸算者(五)
二十一、岡田軍治郎は比企郡高坂村【現・東松山市】本宿の内の悪戸(あくど)の人である。此人の名も亦正代観音算額の客席に列せられて居る。高坂の故老の談に、小堤と岡田とが此辺での算者であったと云ふ。悪戸の住宅の付近に墓があり、
雅窓韻運居士
慈芳妙黄大婦
雅、大正十五年三月十一日岡田軍治郎、行年八十六歳。
慈、本郡龜井村竹本坂本伊平長女、明治二十八年一月廿一日、同きみ、行年五十三歳。
昭和二年三月建 施主 岡田安五郎と、正面並に両側に刻する。
軍治郎の家は裕福であったが、家事に勉めず、教授や他の事ばかりする人で、身代をも減らせたし、後に他の婦人を容れで幾人も子があり。家を別けて隠居したので、本分家共に豊でなかったと云ふ。本家は一人娘へ安五郎を迎え、今は孫の代となる。隠居は男健吉氏(昭和十三年五十歳)が嗣いで居る。健吉氏夫妻、本家の遺族、及び軍治郎の妹から色々と談話を聞く。
軍治郎は初め比企郡七郷村広野の広正寺寛山和尚に師事した。遺族の談では十露盤も亦此人に学んだのであろうと云ふのであるが、其師宮崎隆齋は固より別人である。軍治郎は書にも巧みであり習字と十露盤を教えた。現に家訓の一軸が遺り、大正壬戌孟夏上解日、録一茶翁勸農之詞。
八十二歳 岡田鷗村書。とある。没前には児童を集めて千字文遊びをした事もある。書を人に頼まれて絹本を用意しながら永眠したので、其儘になった事もある。
比企郡唐子村上唐子新井順一郎氏祖母(昭和十三年九十一歳)は、軍治郎の妹で談話も珍らしく明瞭であるが、先づ此老夫人の談を録して置く。軍治郎の十露盤の先生は、大附(おおつき)【現・ときがわ町】の人で、大附蜜柑を産する所である。悪戸の実家へ迎えで来て、教わった。先生々々と計り言って居たので、名前をば知らぬ。其先生は元と大工であったが、十露盤の先生になって、大盡の家々を教えてあるいた。先生が来て居れば、他から習いに来るものもあるし、二月も三月も逗留して居た。余程よい所まで教わったようである。それは老夫人が十二三から十■くらい迄の事で、毎年百姓の暇の時に来て居た。其頃に六十くらいの先生であった。其先生は迚も好い人であった。元は大工だが、先生をしてあるき出してからは、大工をばしなかった。先生が兄の所へ来て居ると、方々から多い時には七八人も習いに来て居るものがあった。其人達へ食事をも出して居た。費用も懸かったが、そんな事には御構いなしであった。大附の先生の忰の嫁が神戸から行って居た。玉川に大盡があって、大附の先生は其家へもショッチュウ行って居た。其大盡も習った。
此新井老夫人の記憶に依って、岡田軍治郎が算法を学んだ時の事情が斯くまでに判然したのは嬉しい。然るにも拘らず、悪戸の遺族の方では、全然忘れられて居るのであるから、算術指南の人物が如何に忘れられ勝ちであるかも亦思われる。
軍治郎が従学した広野の和尚と云ふのは、菅谷村川島の鬼鎮神社に碑が立って居る。其文に拠れば、前広正寺寛山老和尚。初視篆于東昌。後移化於廣正。慶應乙丑秋七月解印矣。其两刹住山之日。應化利生之餘。攝耳門弟子。其巖如父。其愛如母。噉淡節昌。行持皎潔。終始如一矣。……弟子數百人。其入室昇堂者。以十算之。可謂得人也。弟子相議曰。……
老和尚の使った筆を埋めて碑を立てる云々と云ふのである。そうして慶應二(1866)壬寅年春三月と見える。台石に筆弟子の連名があるが、神戸村と岩殿村の二人の次に、悪戸岡田軍治郎、大黒部本田濶造の名があり、それから多くの人名が出て居る。悪戸に於て此和尚の事は記憶せられ、十露盤の先生の方は忘れられて居ると云ふのも、宮前村【現・滑川町】月輪に於ける内田祐五郎の碑文の所載と照応するものが思われる。
更に続いて新井老夫人の談を記るして置く。鬼鎮さんに碑のある先生は、十露盤をば教えない。えらい人であった。其碑の立ったのは、老夫人十八の時であった。軍治郎は十七の時まで寛山に習う。それから家へ引込んで、手習の師匠をした。学校の始まった時にも、第一に先生になった。本庄へ行って試験を受ける。よい加減の身代であったのを無くして、慾のない人で、丹念な事では驚くほどであった。役場へも二十八年も出た。占などをもした。自分の事は構わないで、人の事なら何でもした。登記の時にも高坂村の十三字の測量を引受けてした。測量も上手であった。役場を引いてからも、土地の事などで人が頼みに来た。土地台帳でもちゃんと写して居った。人の恨みや憎しみを受ける事は少しもなかった。
岡田健吉氏夫妻の談に、軍治郎は村会の初めに議員になり、それから役場へ出たのであり、役場を止めてから再び議員になった事もある。登記と云ふのは、松山の登記所で代書をしたのである。八十歳の時にも登記へ通うて居り、此方も随分長らくやって居た。隠居したのは高坂村川袋であり、明治四十三年(1910)の洪水の時には書物なども浸水して、無くしたのが多い。丹念な人であったから反故のようなものまでも、悉く取って置いてあったが。凡て駄目になった。現に残って居るのは、算木と地租改正の時に使った三寸五分の磁針の小方儀などである。其時には大字西本宿の丈量をした。弟子が碑を建てるとも、言って居たが、身代が悪くなったので、建てないでしまった。酒は好きであったが、茶も煙草も嫌いであった。温和な人で人と争うような事はなかった。没前二ヶ年位は本家へ帰って居って亡くなった。別に病気はなく眠るが如くに他界した。親切をすると、岡田先生のようだと言われる程であった。
遺子健吉氏も亦測量などする人で、境堺の問題などあると頼まれる事もあり、東上線開通の時には鉄道敷地の丈量などにつき、役場から頼まれてやった事もある。
岡田軍治郎遺品の算書などを見る事が出来なかったのは、残念であるが、比較的に其経歴を詳かにし得たのは仕合せである。※本文にあるように、岡田軍治郎は広野村広正寺の寛山和尚の弟子であった。唐子村の新井順一郎は、菅谷小学校で教鞭を執ったこともある。
二十二、宮崎萬治郎武貞は比企郡明覚村【現・ときがわ町】大附の人で、悪戸の岡田軍治郎の師宮崎隆齋は即ち此人である。今は孫孝平氏の代になって居る。其墓は居宅に近く畑の間にあるが、其墓誌は次の通りである。
宮崎萬治郎武貞老翁墓。
翁師宮崎。名萬治郎。初名柳吉。號隆齋。本郡大附村人。父曰辰右衛門。母岡野氏。以文化五年正月五日生。性温厚。幼好學。從賴戸僧石祐受業。及長益進。博通天文暦法醫易。尤熟數理而極其蘊奧。名聲聞遠邇。執贄者甚衆。終以明治十六年十月七日。病没於家。享年七十六。以神式葬先塋之次。翁娶郡之大橋村岡野氏女古登。生一男一女。長林貞嗣家。越遺族及門弟等相謀建墓碑。以弔翁之幽魂。噫。于時明治三十六年五月。宮崎萬治郎は大工が本職であったのだけれども其事は墓誌には見えない。遺族の談に依れば、算法を何処で習ったかは判らない。大工で東京の方をあるいた事もある。慾を知らない人であったそうで、方々の大盡の家を数えてあるいた。現に八十歳くらいの人が、鎌形(菅谷村)【現・嵐山町】から墓参した事もある。お米を持って来て供えた。明治四十五年(1912)五月九日に火災に会ったので、色々の事が判らなくなったが、易や数学の書物が倉に入れてあったのは、火災を免れた。額の奉納など云ふ事は聞かないし、十露盤の先生云々と云ふ談話が出た事もないと云ふ。
墓の台石には大字本宿岡田軍治郎を筆頭に、大谷、長瀬、岩川、小山、小杉、西本、大豆戸、五明、腰越、桃木、田中、志賀、日影、其の他の人々が多く姓名を列して居るが、甚だ読み易くない。そうして「門人計三百人」と記るす。然らば岡田軍治郎は一の弟子であったのであろうが、其他にも亦十露盤の指南に当った人は必ずあろう。而も未だ之を詳かにせぬ。軍治郎の妹、新井老夫人の談は、軍治郎伝中に録して置いた通り、萬治郎の経歴を示す為めに大切である。
墓誌に萬治郎の師として、瀬戸僧石祐とあるが瀬戸は明覚村に属し、大附と隣る。瀬戸に皎圓寺(こうえんじ)あり、其墓地に参拝するに、霊山三十六世當山二十世闡宗碩猷大和尚
と刻せる一基がある。台石に「大月村、賴戸村、筆子中營之」とあり、又「天保十四年(1843)九月、法嗣碩諦建之、當山二十一世……」及び「當山二十二世……文久二壬戌年(1862)五月廿二日、法嗣碩、詔建之」と云ふのもある。此の二十世碩猷と云ふのは墓誌の石祐と同じ人であろう。現住職桑山桃禅師の談に此人は比企郡平村【現・ときがわ町】の霊山院(りょうぜんいん)から転住した人であるが、未だ其伝記の委細は知られぬようである。萬治郎は此人から暦算の学をまでも学んだであろうか何うか。碩猷の石塔の建てられた天保十四年(1843)には、萬治郎は二十六歳であった筈である。
萬治郎の没した明治十六年(1883)に、孫の當主孝平氏は僅かに三歳であったので、伝聞の乏しいのも当然であろう。孝平氏父子は、今も大工を營んで居る。
家に萬治郎の作った薬種箪笥一棹があり、今は種子入用になって居る。器用な作品である。※本文にあるように嵐山町域では、鎌形、志賀に弟子がいたようである。
二十三、大澤權三郎は菅谷村(現・嵐山町)大蔵の人、其家は源義賢の館趾と墓所に近い所にある。墓誌に拠れば「双林權榮居士、大澤權三郎」とあるが、没年月日は誌るしてない。位牌に「昭和九年(1934)三月六日没、八十三歳」とある。權三郎は算術測量に通じたと云ふが、未だ多くを知らぬ。其子大澤右平氏(昭和十三年六十歳)も同じく十露盤や測量に関係のある人で、道路工事などに出る事が多いと云ふ。未だ此人の談話を聴く機会を持たぬ。
二十四。細井長次郎は比企郡(八和田村)【現・小川町】中爪の人、今は数代を経て居るが、一通の文書が遺って居る。「舌換」と題して
予多年此道に心を寄せ翫(もてあそぶ)といえとも、其功を爲せし事もなく、只獨樂として光陰を送りし爾、爰に此道に心ある友の云ふに算木算盤は普く人の爲す處、十露盤をもて四五人乘方を爲し見せよと、親友の需によりて愚なる意を着し復賢の嘲啁たるべしといえども、初心の望みに任せ記之、若し高才乃一覽にあづからば、笑興をなし候へど爾云(しかいう)。
と説き、さて問題を挙げ、十露盤に数を置いた所を描く。それは何乗方かの開き方を十露盤でやると云ふ表示であるが、運用の実際は説いてない。即ち高次開方を十露盤で行うと云ふのを、重宝がって示めして居るのである。其中間に「奉献」の二字を現わし、下方には沙門惠長、本多良輔以下三十二人の姓名が有り、且つ
嘉永五年歳在壬子二月良辰
細井長次郎
沙門惠長書と見える。其形式から言っても、算額として奉納したものと思われる。記載の門人中には鎌形(菅谷村)、下小川(小川町)、下里、高見(八和田村)等の地名を冠したものもある。
現に付近の天台宗普光寺本堂の正面の左方に算額が有り、風雨にさらされて文字は読み難いが、図の様子などから推しても、右の書類と同じもののように思われる。長次郎の墓には法算心綿信士、安政七庚申星正月廿八日、行年六十一才、施主細井宗七
と刻し、裏面に細井長次郎門派として門人若干名の姓名を列してある。細井氏に昭和十年(1935)八十二歳の老母が居られ、同部落の生れであるが、長次郎に弟子のあったと云ふ事くらいしか伝えがなく、中爪には他に十露盤を教えた人はないと云ふ事である。中爪には文令舎可久、松本榮次郎と云って発句の先生が有り、有名なものであったが、長次郎は同じ道嗜みはなかった。又算法の師伝にも伝えがない。
※本文にあるように嵐山町域では、鎌形に門人がいたようである。
二十五。高橋和重郎は比企郡八和田村【現・小川町】高見の人で、前述の細井長次郎の一番弟子であった。細井氏の老夫人は高橋氏外孫であり、十八歳の頃に高橋氏に寓した事もあって、和重郎が十露盤を教えて居た事を実地に知って居る。中爪からも一里を距てて習いに行くものがあったのである。和重郎の墓には正面と右側に
實算悟道居士、明治三十一年(1898)四月三十日没、俗名和重郎、行年六十四歳、明治四十二年(1909)一月建之、施主高橋桂助
とあり、他面に次の碑文がある。
君ハ天保六年(1835)正月廿五日高橋家ニ生ル。父ハ太郎丸ノ産【現・嵐山町】重次郎氏、母ハまつ子、妻ゆき子ハ上横田中島氏ノ産ナリ。君幼ヨリ才智アリ嘉永元年(1848)正月中爪村關流算師細井長次郎氏ニ就キ算術ノ秘法ヲ受ケ歸村シ、有志ヲ募リテ算術研究會ヲ起シ、選マレテ長トナリ、日夜其蘊奧ヲ極メ、數多ノ弟子ヲ敎授セリ。元治元年(1864)十一月地頭十一代目田付顯政殿ヨリ組頭役仰付ラル明治七年(1874)十月廿三日熊谷縣ヨリ副戸長申付ラル同元【?】年ヨリ九年迄地券改正ノ圖面專務ヲ掌リ、同十年(1877)五月地主總代トナル。同十三年(1880)四月比企横見郡長鈴木庸行殿ヨリ衞生委員申付ラレ、十八年(1885)五月迄勤續セリ。同十七年(1884)七月上横田村聯合會議員ニ選マレ、更ニ村會議員トナル。同十八年(1885)五月比企郡第十一學區内市野川學校會議員ニ選マル。同廿年(1887)三月社寺總代トナル。同廿二年(1889)二月大字高見地價修正委員トナル。同年(1889)四月八和田村會議員ニ選マル。同三十年(1897)三月文明學校舎新築委員ニ選マル。斯ク村治及弟子ノ教育ニ盡力セシガ、同三十一年(1898)四月三十日終に逝ケリ、行年六十四歳ナリ、君ニ二男二女アリ、嗣子桂助氏ハ農蠶ニ熱心シ、資産ヲ增セリ。……爰ニ嗣子ノ建碑ニ際シ、余ニ略傳ヲ乞フ、余、弟子トシテ不肖ヲ顧ミズ、喜ンデ之ヲ選ミ以テ不朽ニ傳フ。
明治四十二年一月 門弟關口源次郎誌此碑文は全く履歴書とも云ふようなものであるが、此れも亦珍らしい。地方の算者が明治時代に於て如何に行動したかを見る為には、好い例証となろう。
「算法遺術五百題」の撰があり、明治三十一年(1898)十二月十五日と表紙に記るす。同村能増(ノウマス)石川巖が次の序文を付して居る。蓋し數學ノ用タル大ナリ、大ニシテハ天地ノ廣ヲ籌リ、小ニシテハ毫末ノ微ヲ算フ。人世限リナキノ業務、亦此數ヲ減ルヽモノナシ、然レバ、則チ數ハ一日モ無カルヘカラス、一事モ缺ク能ハサルナリ。是ヲ以テ嘗テ六藝ノ一ニ位シテ、百般科學ノ兼修ニ備フ。而シテ其法式亦一ナラス、曰ク點竄、曰ク筆算、曰ク珠算、點竄ハ高尚ニ失シ、筆算ハ字ヲ記スルノ不便アリ。最モ日用ニ便スルモノヲ珠算トス。然モ其法式ヲ知悉セサレハ其用ヲ爲ス能ハス。世ノ數學ヲ以テ任スル者、高尚複雜ノ數ヲ計ルニ至リテハ之ヲ點竄筆算ニ讓リ、珠算ノ及ハサル者ト爲スナリ。故ニ世亦其法式ノ著述ナシ。老兄高橋君嘗テ之ヲ遺憾トシ曰ク、數ノ高尚複雜ナル者ト雖モ、寔ニ珠算ニ上ラサルノ理アランヤ。凡ソ人事ハ日ニ高尚ニ向ヒ、月ニ複雜ニ進ム。然リ而テ珠算特ク單純ニシテ己ムヘケンヤ。且ツ日用ニ便セスシテ可ナランヤ。乃チ古來點竄筆算ヲ借ラサレハ能ハサル法式五百題ヲ撰拔シ、悉ク珠算法式ニ變換シ、高尚複雜ノ數ニ當ルモ立トコロニ算盤ニ上セ以テ日用ニ便セントス。今ヤ印行以テ後進ニ頌ントシ、序ヲ余ニ需ム。余其篤學ヲ喜ヒ、不敏ヲ辭セス、一言ヲ卷首ニ署ス。
此序文に依って刊行を欲したものであることが知られるが、其遊(すさ)びにはならなかった。序文の意を簡単に云えば、計算には珠算が最も便利なのであるから、代数的の問題でも珠算で出来るように試みたいそうして珠算を普及したいと云ふのである。其当時に於ける和算指南者の心境をも示して居る。
序文の撰者【石川巌】は書家であり、えらい人であったが算者ではないと云ふ。
開平開立から十乗法までの開き方を説いた秘書もある。巻物になって人には見せないものであったと、当主桂蔵氏の談である。此れは師細井の趣旨を伝えて居ること、普光寺(ふこうじ)算額からでも知られる。
又「古今算筆ノ世ニ至テ、和算ヲ施スコト大ナル誤ト見ヒタリ、併シ農民ハ從來ノ珠算ヲ難忘、便利ヲ要トス。然ル處予カ通常ノ賣買早割略法ヲ集撰シテ初學ノ士稽古之爲、和算百題ヲ設ケ、婦人小子ニモ解易ク、彼ト是レ指ス如ク文字述テ天地間ニ遺ス遍ク此之書ニヨラスンハ有ヘカラス、委シク乘除ヲ試ミ明カニ其記礎ヲ化ス。是ニ引合シテ能ハ考エ分別シテ敎レ之、若シ此之書ニ誤アル時ハ、有名上手ノ考ヲ俟ツヘシ」と云ふ一枚もある。和算百題とあるから、上述の序文のあるものを指すのかと見える。
遺蔵の算書中には剰一術など使用した問題も見える。
弟子は随分多かったらしい。病没の頃までも習いに来るものがあった。習いに来るものは、開平開立くらいまでで、其以上のものは殆んど無かった。又農家の子弟に必要もないのであった。額を上げた事はなく、免状もない。和重郎は地租改正の時に高見だけのに出たが、其時の地図や小方儀は現存する。
一つの書類には高橋倭十郎和重と書いたのがあるから、墓誌には和重郎とあるが、和十郎の方が本統であったらしい。書中に和重と署して和歌の記るされたものもある。
和重郎は用土に友人があって、其人は算法に達して居たらしく、多少は其人から伝えられたのではなかろうかとも云われる。嗣子桂助翁(昭和十年七十五、六)は農事に勉励し、其事を叙した献穀碑が庭前に建てられて居る。算法は学んだ事がないとは云われるが、明治十二、三年の頃に其用土の算者を訪うて剰一明一術を習いたいと思ったが、留守であったので尋ねずに帰った事も語られるのである。然らば少壮時代には或る程度の算法を心掛けて居られたのであろう。其人は高見に親類があって、時折り来るので、和重郎とも交ったのである。用土は大里郡で、寄居の東北に当り付近の猪俣に上州の齋藤宜義門中のものも居ったから、或は其関係の算者ではなかったかとも思われるが、未だ之を詳かにせぬ。※本文から、高橋和十郎の父高橋重次郎は太郎丸村【現・嵐山町】出身であったことがわかる。
二十六、船戸悟兵衛は比企郡七郷村越畑(ヲッパタ)【現・嵐山町】の旧家で、算法に達し、明治九年(1876)の地租改正の時にも余程働いたと言われる(高橋桂助氏談)。家の付近に墓があるが、
乘悟院圓宗自覺居士
明治三十七年七月十五日建 男 船戸熊吉と刻したのみであったが、位牌には「明治三十六癸卯年(1903)七月十五日」とあり、三十三回忌に際して碑文を刻すると云ふ事であった。其後次の如く刻入された。
翁諱氏住。稱悟兵衞。考紀道。妣内田氏。文政元年(1818)六月一日生。年甫十八爲里正。資性實直。公私克勗。幕府末造。公武合體之議起。和宮東下也。翁隨領主酒井侯上京。掌驛站事。明治維新廢藩置縣。命入間縣地理掛及戸籍掛。次發布大小區制也。選爲副區長。督區内各村戸長。從地租改正有功績矣。稱船戸家中興 祖。嵩古香師有題影詩。能悉翁生涯。因掲代銘云。
生於文政戊寅暦。没於明治卅六年。閲歴八十六凉燠。踐履大道太坦然。心田畊稼見餘地。花中大醫橘中仙。尤欽家庭訓海美。三男七女聯芳妍。嗚呼七月十五日是何日。溘焉謝世就永眠。先妻の墓には
蓮臺松泉大姉、船戸氏住室、俗名喜代、産地比企郡腰越村森田磯右衞門長女、明治二十年(1887)八月八日病没、享年六十有七。
とあり。後妻の墓には
晴光軒松岸貞月大姉、大姉名滿壽、福井縣遠敷郡(おにゅうぐん)小濱浦士宇多利右衛門第五女也、天保八年(1837)四月廿二日生、爲二氏住翁後妻一。明治四十二年(1909)四月九日病没、享年七十三。大正五年(1916)十二月九日男船戸熊吉建。
とある。悟兵衛は曽て酒井侯に勤仕した事があるので、其関係から若狭の人を後室に納れたのであろうか何うか。酒井侯とは若狭小濱侯が否やをも詳かにせぬ。
悟兵衛の父治兵衛紀道の墓には、嘉永五年壬子(1852)没、享年七十二、施主船戸悟兵衛氏任とあり、悟兵衛の長男萬平求玄が、嘉永四年辛亥(1851)、十四歳で没した、墓にも「船戸悟兵衞氏任長男」と刻する。此二つの墓に於ける氏任は初めの名乗で。後に氏住と改めたものか、それとも誤刻であろうか。
船戸氏遺族の家では悟兵衛の算法の経歴に就いては多くを聞く事は出来ないが、遠方から習いに来た事もあったと云ふ位のものである。孫に当る市川德治氏夫人の談では、悟兵衛は十露盤が達者で、教えたか何うかは知らぬか、酒井様へ仕え、御勘定役で、和宮御降嫁の時に、婿の房吉が其時の勘定に当ったと言い伝えて居る。地租改正の時には測量などをした。算法を何処で習ったかも判らない。
船戸家墓地に天保十有三年歳在壬寅冬十一月建之、
格齋木貞一書と云ふ一基があり湯殿山、月山、羽黒山、西国坂束秩父順礼の供養塔で、越畑村船戸悟兵衛、施主治兵衛とあるが、此れは悟兵衛が順礼した事があり、父の治兵衛が之を記念して建てたのであろうが、其書は明らかに熊谷の算者戸根木興右衛門貞一号格齋であるから、場合に依っては悟兵衛は戸根木から算法を学んだかも知れない。或は親戚関係が有るかも知れないと云ふような話しもある。
同じ七郷村杉山川袋の内田祐五郎が戸根木に学んだのは、悟兵衛の紹介に依ったとは、祐五郎の甥、金子清蔵翁の談である。※内田祐五郎往延が戸根木貞一に学んだのは、船戸悟兵衛氏住の紹介であった。
二十七、比企郡平村【現・ときがわ町】西平(にしだいら)の慈光寺は坂東九番の観音で、上州の算家市川行英門人の算額の奉納があった事は、「算法雜爼」に見える。即ち文政十三年庚寅三月と記るされて居る。向って右方の廊下の上にあり、堂前からはっきり認められるが、文字は剥落し、且つ高いので、判然とは讀めないが同年九月とあるのが異なる。「雜爼」には原稿に拠って記るしたのであろう。且つ首に八字くらいづゝ二行の文があるが、此れも書物には録してない。私も録取する事が出来なかった。三ヶ條の題術が有り、
關流市川玉五良行英門人
下古寺邑 田中與八良信□
腰越村 馬場與右衞門安信
同所 久田善八良儀□の三人の名前になって居る。
此中にて田中の諱は信直のように見受けたけれども「雜俎」の信道の方が正しいのかも知れぬ。額面を熟覧した上でないと確言は出来ぬ。
比企郡大河村下古寺に田中姓あり、田中與右衞門と云ふ家に就いて取調べたが、何も判らなかった。「北武の古算士」第八節に於ても、「菩提寺の過去帳にも見えず、田中一族の墓地にも夫らしい墓はない」と見える。場合に依っては、家の当主が相続人でなく、他郷へ出た人であるかも知れない。二十八、馬場與右衛門安信は大河村【現・小川町】腰越小字根古屋馬場重吉氏の曽祖父であり、「北武の古算士」には「馬場重吉氏の家から出たと言ひ傳へるのみで、之も同家に何者も殘らない」とあるが、昭和十年(1935)重吉氏の談では、曽祖父が数学をしたと云ふ事は聞いて居らぬし、明治八、九年(1875、1876)頃であったか、火災に会った事もあって、旧記も残って居ないと云ふ事である。位牌に
關山惠通居士位、弘化二乙巳年(1845)七月念有八日、馬場友八忰、俗名與右衞右門行年四十一歳
とある。此人である事は明らかであろう。父の友八は墓誌に拠り、嘉永五年(1852)壬子六月五日七十九歳で没して居る。
二十九、久田善八郎の事も、「北武の諸算士」には、遺族が他家に寄食して居る始末で、何も調べる事が出来ないとあるが、其家は大河村腰越小貝戸であり、墓に
見譽淨巖居士、嘉永四亥年(1851)四月廿四日、俗名久田善八郎儀知、施主同苗頂太郎
とある。享年は刻してない。夫人の戒名を刻すべき余地は明けてあるが、之れも刻してない。此墓誌には明らかに儀知となって居る。他の墓に居士、大姉と並べて、天保十四年(1843)と嘉永五子年(1852)とあり、久田善八郎建とあるのは、父母であろうし、母の忌日は後に刻したのであろうが、母は善八郎よりも後れて没し、父は八年を先きだったのみであるから、多くも六十歳前後以上ではあるまい。或はもっと年少であろう。善八郎の婿が善次郎。其子が幾太郎翁(昭和十年七十一、二)で、此人の談を聞くに、善八郎が十露盤を教えた事は聞いて居るし、慈光寺観音堂へ額を上げた事も亦聞いて居るが、他に聞く所はない。唯、荒川付近の人とか荒川姓の人とかに習ったと云ふ事である。家は四十年前に火災に罹り、書類など何も残って居らぬ。
荒川と云ふのは、市川玉五郎の名を誤り伝えて居るのであろう。三十、山口三四郎は大河村赤木の人で、其家は山間に分け入って、高い所にある。墓地に碑が立って居り、正面には順挙義山居士とあり、碑文がある。長文であるから、抄出して置く。
山口順山、幼ノ名ハ友三郎、字ハ和重、通稱ハ三四郎、……文化十癸酉年七月三日生、……八歳字ヲ喜三、丹下常次ニ草隷算ヲ習フコト三年、常次ハ入間郡上野ノ人也、次テ久永山ニ往テ釋天榮ニ師事シ、國史漢典ヲ學ブ七年而シテ家ニ在リ、父ノ業ヲ受ケ、稼織ヲ勵ム。天保元年歳十八、奮然トシテ……是ヨリ山川ヲ跋渉シ、……卒ニ名四方ニ聞ユ、既ニシテ歸省シ、弟子益々進ム、私學舎ヲ設ケ郷黨ヲ訓誨シ、傍ラ商事ヲ盛ンニス、嘉永年間德望尤高シ、部内ノ擢用スル所トナル。地頭細井氏ノ組頭タリ、遂ニ意ヲ果タサス、退隱シ、唯タ歌詠ヲ以テ樂ミトナス、諸子詞壇ニ陪遊ス、弟子蓋シ三百人焉、一科或ハ數科ニ通ズル者一百有五十餘、一日嗣子ヲ召テ曰、……吾レ一週間後他界ノ客トナル可シ、汝ニ家書數百編ヲ授ク、……將來謹テ放逸スルコト勿レ、果シテ言ノ如ク七十七ニシテ終ル、實ニ明治二十二丁丑ノ四月廿二日也。……
箕法の教授用に作った二寸厚さの本があると云ふ事であるが、探りても一寸出て来なかった。非常に覚えが良く食事中でも書見して居ると云ふ風であった。普通には赤木の友さんの名で知られて居た。十露盤では倉の錠前でも開けると言われたとの話しもある。此人に就いても算法の師伝は判らぬ。
三十一、田端德次郎、同じく大河村赤木の人、友さんの弟子である。友さんは文学もあったが、此人は十露盤だけであった。教えもしたが、近所のものが習い に来ると云ふ程度に過ぎなかった。明治三十年(1897)二月三日、五十歳で没し、戒名を潤叟自德禪定門と云ふ。昭和四年(1929)正月「算法子弟」が 其墓を建てた。隣の谷合で炭焼をして居た双生の兄弟などが、晝には働いて、夜分に習いに来たものもある。(遺族及び其他の談、墓誌に拠る)
三十二、豊田喜太郎は秩父郡大河原村【現・東秩父村】安戸の人で、松本寅右衛門の門人であった。秩父郡ではあるけれども、小川町から大河村を経て隣接し、地理的には比企郡への関係が多い土地である。松本の居村竹沢村木呂子へは山越しに隣って居る。安戸から十町餘の同村御堂の淨蓮寺に、豊田の算額がある。
關流松本寅右衛門門人
豊田喜太郎
明治三十四年(1901)一月吉辰とありて、三問題を記るす。墓に
得應量仙信士、明治三十七年(1904)九月十九日死、俗名豊田喜太郎、享年六十三
と刻する。屋号を小松屋と称し、当主英輔氏は曾孫であるが、算木はあったが今は無く、十露盤をしたと云ふ話しも餘り出ないし、誰から習ったかも家には伝えがない。弟子には宮崎大九、宮崎與十郎などあったと云ふ丈けが記憶に残る。
宮崎大九氏は医師にして娯山堂医院主であり、他の門人松澤義敎の子康三郎氏は昭和十年(1935)に同村々長であった。私は両人の談話を聞く。
地租改正の時には十露盤が必要であった。義敎が村長の時に喜太郎は役場へ出て居った。喜太郎の弟子は百人もあったろう。宮崎氏は一の弟子であった。十露盤の秘法を授けると言われて居た。十露盤は嫌いだけれども、一生懸命に敎えて呉れた。筆算では真の法ではない。宜しくない。自分の方から頼んで、覚えて置いて貰わなければならぬと言って弟子に引入れられたのである。先づ天元の一を定めると言った。其訳はと聞くと、師匠から教わった通りにするのだと答える。何だか知らないが、本があった。四五寸厚さのものであった。それを寄こす訳であったが、貰わなかった。喜太郎は十露盤で倉の錠をあけたとか、乗馬の人をはぢき落したとか云ふ話しがあった。十露盤は甚だ達者であった。とても調宝がられて居た。地租改正の時には、宮崎氏父元育が安戸の戸長であり、自宅を役場にして居たが、喜太郎は筆生で来て居た。其時の測量などは喜太郎がやった。地図なども作る。宮崎氏は十代も医者をした家柄であり、祖父通泰は長崎に遊学して、和蘭語の辞典をも作って居る。其碑文も写してあるが、今は関係がないから省いて置く。元育は医者で戸長をするのは出来ないが、喜太郎が居るから、戸長も勤まったのである。三十三、宮澤彦太郎翁は大河村【現・小川町】增尾の人で、昭和十二年(1937)二月に年七十餘、前記杉田久右衛門家の分家杉田槌氏の向いに住み、足袋屋あして居る。竹沢村勝呂の吉田源兵衛に算法を学び、源兵衛から授けられた書類をも蔵する。翁の談に拠れば、源兵衛は教えに来たもので、寝泊りして教えたのである。源兵衛から伝えられた書類には
算法序曰…… 吉田勝品謹白
……
九章……
明治十三年辰第八月廿七日
關孝知先生九傳
武陽男衾郡勝呂村
吉田源兵衞平勝品
七秩有三才頓首敬白
右和歌二首
右諸術勉強中八算見一等迄に 吉田勝品識之
凡三百四十二術
明治十三年辰九月大吉日、
八算見一相除諸術合三百五十五術
算法指南實誌大尾。 宮澤彦太良。
算法秘術諸約翦管術五十問。
……
明治十四年巳十二月三日終、……
右秘傳不殘致傳授候也。
秘術不レ可レ致二他見一候事。
比企郡增尾村 宮澤彦太郎此伝授書は吉田氏の遺品中のものと略々同じである。源兵衛が諸門人へ授けた事も、此れから知られる。
『埼玉史談』12巻3号 1941年(昭和16)1月
三十四、比企郡の数学に就いて、調査した所は右の如きものであるが。松山には川越藩の源屋もあった事だし、数学に就いても事蹟があらうと思はれる。吉見地方、元の横見郡に於ても江和井の田邊倉治郎一人は知り得られたが、他に人名をだも確かめ得ないのも、物足りない。大串の毘沙門堂に算額があったと聞いた事もあり、参拝したけれども、見出す事は出来なかったが、既に失はれたのか、場所の違ひか、あの地方にも算者の若干人はあっても宜いやうに思はれる。其他の地方にも見聞に觸なかったのが、幾らもあらう。
『埼玉史談』12巻3号 1941年(昭和16)1月
古い時代に就いて知る事が出来ないのは、何れの地でも同様ではあるが、此れも残念である。上述の記事からでも、如何に過去の算者が忘れられて居るかを思ふとき、時代のやや古いものは凡て忘却の中に落入って、知り得られないのであらう。
明治初年の地租改正の時に、地方の諸算者が丈量などに活躍したのは、全国一般の事情であったが、比企郡に於ても同じく其事情を見る。一般に実用の方面に関係の多かった事も、相当に認められる。諸算者の教授は大部分が其であった。実用以上のものになると、教授を受けるものが、殆んど稀なのが常である。而も其実用的と云はれる教授もずっと古い時代からの事情を継承したのが多く、比企郡でも同様であったやうである。
算額奉納の風も亦た比企郡でも見られるのであり、知られて居って既に亡失して、存在した事の有無すらも再び世に知られる事の無いものも、幾らもあったであらう。
現在の算額では、平村【現・ときがわ町】慈光寺のものが最も内容の優れたものであるが、其れは師匠たる市川行英が有力者であった賜ものである。之れに名を署した三人の門弟が、殆んど事蹟の知られないのは惜しい。行英は武州に於て川越、忍の両藩に関係があり、入間郡原市場【現・飯能市】の山間にも門人があったが、竹澤の松本寅右衛門が武州での其門下の最も優れたものと云ふ事が出来やう。諸算額の現存のものの中では、武州各地で見受けた約三十面の中に就き、慈光寺のものが最も優なるものだと謂はねばならぬ。
比企郡の諸算家は、此市川系統と、江戸の古河氏清の系と熊谷の戸根木並に二州劍持に師事したものと、此三者を除けば、他は単に関流と称したものはあるが、如何なる師傅に基づいて居るかを知られないもの計りである。
比企郡の諸算者中には、他へ出掛けて巡廻教授したものもあるが、余り遠く出掛けたやうでもなし、又一人の市川行英を除いては、他鄕から来て遊歴教授したものも、知られて居らぬ。松枝誠齋の如きは、大里郡吉見村小八林【現・熊谷市】に寓して、其門人は今の北埼玉地方に多かったが、元との横見郡地方は直ちに隣接しながら、此人の関係も未だ見聞に触れない。
此の如き事情で、凡て地方的に局限されては居るが、此一郡に於て三十余人の算者の事蹟が曲がりなりにも見出されたのは多とすべきであらう。