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第6巻【近世・近代・現代編】- 第7章:文芸・学術・スポーツ

第2節:和算

武蔵比企郡の諸算者(四)

 十、大里郡小原村野原文殊寺の算額の事は、内田祐五郎、及び門人吉野米三郎の奉納があったこと、前言う通りである。此両者は別々の奉納であるが、夫れとも同一の額面を指すものか、判然せぬ。今は焼失して見ることが出来ない。写しも亦無いようである。
 内田千代松、宮崎貞吉両氏などの談にも、まだ他にも同等に算額があったらしいし、吉野米三郎は幾つもあったと話していたと云ふ事である。中に就いて明治二十四年(1891)に大里郡御正村(みしょうむら)樋春(ひはる)の算家の奉納したものは、小川町の郷土史家大塚仲太郎氏が実地に目撃して、奉納者の氏名をも録せられたのである。「北武の古算士」第廿二節に次の如く見える。

 最近全燒した大里郡小原村野原文殊寺の明治二十四年の算額に願主二人を記し、それに

       茂木熊本美雅門人
          樋春  須永角之輔
              持田倉次郎

 と見え、以て多數の名を列記してあつた。樋春は大里郡であるから、須永、持田两人は北武の人である事が確かである。茂木惣平とは何處の人か、之も或は北武の人であらうと思ふが、判然しない。再調を心掛けてゐる内に燒亡して今は手掛りがない。

 此茂木惣市は須永等の二人と同じく、樋春の人であり、昭和十三年(1938)十二月には八十四歳の高齢で存命であった。算額写、否原稿も現に保存されて居る。樋春は大里郡であり、比企郡ではないけれども、比企郡の算者に関係の文殊寺奉納の願があったと云えば、茲に記載して、嘱きに「熊谷地方の數學」に洩れた所の補遺ともしたい。額面には

  奉納文殊大士
      埼玉縣大里郡御正村大字樋春
          關流 茂木惣平美雅門人

となって、二ヶ條の題術を挙げ、額面には珍しく解義も付いて居って、末に

  明治廿四年歳次辛卯九月吉祥日
      大里郡御正村大字樋春
          發起人 須永角之輔
              持田倉次郎

とあり、下方には同郡同村願主茂木寛輔以下三十人の姓名を記るす、中に就きで終りの七人には、同郡市田村上恩田、秩父郡中三澤村、男衾郡本畠村本田の人々と共に、比企郡小川町島田平格の名がある。
 発起人須永、持田の二人は今は故人であるが、樋春に於ても此二人は算者として知られて居ないし、茂木翁も亦別に教えた人でもないと言われて居る。翁の談話を記るせば次の通りである。

 上州間々田に齋藤四郎右衛門と云ふ大工の棟梁があった。数学の敎授をもして、後には大工をばしなかった。翁は此人から学んだ。翁の父も少しは十露盤を教えて居たので、翁も亦心懸けるようになった。それから齋藤には算木だけを習った。齋藤先生は、たちが好いから確っかりやれと言って呉れたが、何分財政が許さぬので、余りやる事は出来なかった。齋藤は此方へ来たり、又たまには向うへ行ったりした。此方から大工の弟子になって行った人があった、其関係で自分も習うようになった。川向の大河原だかに十露盤の先生があったと聞くが、他には多く知る所がない。自分は好きでやったけれども、たんとは出来ない。額の問題は自分がやったのである。弟子の仕事のように書いてはあるが、実際は自分がやった。額は開事の題であった。開立のをと思ったけれども、少し六ヶしかった。額を上げるのは中々六ヶしい事であった。須永角之輔も持田倉次郎も亡くなった。二人共に教えはせぬ。百姓で忙かった。此二人は弟子の中では早くからの者であった。此二人が発起になったのである。文殊さんだから、覚えが良くなるようにと云ふので、弟子が文殊さんを望んで、あすこへ奉納した。術は自分がやったのであるが、額と云ふものは大抵皆そうであろう。何れも門人が上げたようになって居る。自分は他へは奉納した事はない。門人の名簿があったのだが、探しても見当らないで居る。本も何処かへ打込んであるが、たいしたものはない。此辺には十露盤をしたものもなく、額を上げた人もない。流儀は関流であった。父が関流であったからそれで関流になった。それだけである。齋藤先生も骨を折って教えて呉れたが、算木は本統には飲み込めないで、先生が没した。それは明治二十五年(1892)頃であったろうか、八十くらいであったろう。齋藤は中々出来る人で、矢張り関流であった。

 惣平翁の父は。墓に『潤身流芳信士、俗名權四郎、本村小島關五郎長男而爲茂木松五郎養子、後出再興廃家茂木家、慶應四年五月十二日没、享年四十四歳』と刻する、妻ちよ女は、比企郡七郷村馬場榮藏次女で、明治四十年(1907)二月四日、七十六歳で没した。故に惣平翁は、母方の方から比企郡人の血統を承けて居る。七郷村と云えば、内田祐五郎、吉野米三郎の出た杉山も其内に属する。同村越畑にも算者があった。
 惣平翁の墓も作られて居る。即ち

     正眞道意信女
     惣德道譽信士     靈位
     浄室妙尚信女

(右)
   父、俗名惣平、權四郎長男
   母、俗名きち、本村茂木久米七長女
    明治廿六年五月十九日没、行年四十歳
  継母、俗名なを、北埼玉郡星河村田代松
     五郎妹

(左)
    昭和五年九月廿四日建
          嗣子 茂木好太郎

と見えて居る。惣平翁自ら此墓に案内せられ、実は自分が建てたのだけれども、此れも倅の名前になって居ると語られるのであった。惣平翁は其師齋藤を上州間々田と云われ、郡名を尋ねても方角を聞いても間々田とだけで、何分耳が甚だ遠いので、此以上に聞く事は出来なかった。併し間々田は大里郡妻沼の西方に当り、利根川の右岸に其地名が見えて居るから、恐らく上州ではなく、此の間々田なのであろう。未だ探訪を試みて居らぬ。
 額面に在る本田村本畑鯨井藤四郎と云ふのは、惣平翁の弟であり。本田へ養子に行く。幾分か十露盤をした人で、兄に学び、多少は近辺の人たちに教えたもので、門人の十人もあったろう。大正九年(1920)五月三十日六十一歳で没した。其子周一氏も斯道に心憲が有り、惣平翁の額面草稿も此人の許へ来て居たのである。明治十六、七年(1883、1884)頃の年紀のある求積美分等を記るした稿本で、翁茂木惣平のの名のあるもの二三冊を鯨井氏で見る。明治十九年(1886)廿五年(1892)等のもので鯨井藤四郎と記るしたのもあった。
 又安政六年(1859)巳未正月吉と云ふ算術記で、利足割之事が書いてあり、裏に春原村(しゅんのはらむら)と記入した一面もあった。春原村亦今は御正村の内である。

 十一、神能小右衛門孝光は比企郡高坂村【現・東松山市】岩殿の内の望月の人で、岩殿山正法寺でも算者として知られて居る事を聞く。今は三代目の輝治氏の代になって居るが、同氏の談は次のようである。

 小右衛門は十露盤が余程出来たようで、教えて居った。高坂の加藤芳治が一番弟子で、正代(しょうだい)の小堤が二番弟子であった。此二人は能い加減にやった。他にも弟子は幾らもあったが、小堤はこよみ位は出したし、門人が多かった。家の前に碑が立って居る。神能氏へも此二人が来て碑を建てたいと言ったが、二人共に裕福でないので、遂に立てずにしまった。芳治は胸算用が上手であった。役場へ出て、十露盤を使わないで、懐手をして居って、算用をばちゃんとやった。それが特点であった。

 神能氏は昭和三年(1928)十月に火事に会って、丸焼となり書物も算木も悉く焼奉した。
 小右衛門は戒名を玄昭道智信士と云い、明治五年(1872)三月二十日に没したが、享年を知らぬ。其妻ふで女は天保八年(1837)四月十四日没であるから、小右衛門の没するまでに三十五年を経て居る。恐らく七十五六歳であったろうかと云ふ。算法の師伝は判らぬ。

 十二、加藤芳治は高坂村【現・東松山市】高坂の人、其子である当主濱太郎氏、並に別家に出て居る其妹にも会ったが、神能の弟子で、門人百人位もあったろう事と、十九歳の時から役場に四十五年間も勤め、榛澤郡内ヶ島(うちがしま)【現・深谷市】の役場から頼まれて行って居って、二ヶ年も居り、弟子もあったが、高坂の役場から迎えられて帰って来て、五年くらいの後に没した事など伝えられて居るに過ぎぬ。遺品は何もない。
 此家では他に十露盤をした人はないと伝えて居る。位牌に拠れば、明治四十年(1907)三月二十八日没、隨雲義峯居士と云ふ。六十五歳であったと語られる。

 十三、小堤幾蔵孝継は高坂村(現・東松山市)正代(しょうだい)の人、神能門人であった。遺族は満州に在住中であるが、旧宅の前の路傍に碑が立って居る。上に紀恩碑の三宇を横書し、次の碑文がある。

 比企郡高坂村大字正代小堤幾藏孝繼老人者。故神能小右衞門孝光翁之門人。而和算之大家也。其門弟渡於各村凡有五百之數矣。先生常爲敎授。實懇篤也。其門中活動世者。擧而不可數。於是起報恩謝德之議。酬至于紀念品之事。會二三之發起者。同心協力。而聽衆生之賛助。漸決定得就此擧。宜乎門家之頌。斯恩德而不能巳也。染谷氏與衆謀。欲立碑以録其事。傳之無窮。請余作銘。其辭曰。
  先生鴻德。粒我育我。繄誰之力。今我不録。終忘恩德。今後紀念。厥謀允臧。其恩罔極。
 維時大正八年五月上院建之。眞々田信芳撰并書。
            石工 鷲巣武平刻之

 裏面に建設者二十九人の姓名がある。
 正代青蓮寺に父母の墓はあるが、幾蔵の墓には未だ石が立ててない。同寺過去帳に依って

  大正十一年十一月十三日死亡
  樂邦道泰信士   小堤幾藏 行年八十歳

とある事を知る。幾蔵の父伴五郎は文久二年(1862)五十四歳で没し、母ちゃうは明治三十一年(1898)八十二歳で終る。屋号を小松屋と云い、幾蔵の若い時には餅屋を営み、妻は産婆をした。大きい老爺で、静かな人であった。其一代に一身上をこしらえ上げた。(青蓮寺での談)
 幾蔵の娘で、南隣の入間郡勝呂村島田に嫁した岡安さと女(明治四年生)の談に、幾蔵には弟子が沢山あって、三十七、八年頃(1904、1905)が弟子の最も多い最中であった。弟子の中にも教えた人がある。早俣の千代田石郎が一番弟子であった。
 二番弟子は田木の中村安太郎で、其家は今では大里郡で精米をやって居る。安太郎の存命中に其処へ出たのである。安太郎にも弟子があった。
 宮鼻(みやはな)の栗原真次も弟子で、さと女のやっと覚える頃に習いに来た。教えはしなかったであろう。萬次の兄平次も亦弟子であった。
 幾蔵の家は代々鍼医をして、幾蔵も矢張りやって居た。十露盤の本も鍼医の本も沢山あったが、さと女の弟が十年前に没し、他に兄弟はなく、其後に書物を尋ねて見たが、判らないでしまった。
 正代世明寿寺の観音堂に一面の算額があるが、二ヵ條の題術より成り、

  神能小右衞門之門人
    當國比企郡正代村住 小堤幾藏
  明治十丁丑年第十一月

とあるが、他の算額をば見ぬ。望月神能氏に於て小右衛門の額と云ふのは、之を指すのか何うか。
 此額面には幾蔵門人中にて門人であった、早俣(はやまた)千代田石良、中新田村【現・鶴ヶ島市】高篠種治、田木村中村安太郎、早俣村橋本喜八の姓名が記るされ、此四人社中の幾人かも名が出て居る。此外にも五十余人の門人名があり、近在の郷村に分布する。且つ客席として、北園部、教員、岡部雄作、宮崎隆齋先生門人、元宿村岡田軍治郎、大野旭山先生門人、宮鼻村栗原萬次、同同同平次、小新井村島田直衛、宮鼻村澤田留次、同同政次の諸人の名がある。此記載様式は珍しいものであるが、之に依って此地方の算家若干人の姓名を知り得るのである。

 十四、中村安太郎は小堤門人で、高坂村【現・東松山市】田木(たぎ)の川邊の人である。川邊は同村毛塚の内であるが、田木の川邊と俗称されて居る。父は吉見から婿に来たが、盲人で按摩をして居た。安太郎は十露盤だけの人で、他からも教わりに来た。土木の測量などに雇われて行く事もあった。殺生が好きで、随分遠くまでも出掛けて行った。狐や狸までも捕えた。百姓仕事は家内に任せて追った。後には中気のように没した。(川邊での伝聞に拠る)。
 高坂村大黒部(おおくろべ)、中村清重氏母子の談に、祖父安太郎は川邊在住中には教授したが、大黒部に移ってからは多少教えた位のものである。中気のようになって、左手の自由を失し。長く病んで居た。未亡人は(昭和十三年)九十歳で存命であるが、耳が遠くて話は出来ぬ、明治五年(1872)、七年(1874)、二十九年(1896)等の関流天元術など云ふ教授本が現存し、アラビア数字をも使って居る。初めには梁上二珠の十露盤を使ったが、後に一珠のものにした。安太郎は大黒部へ移ってから没したが、宮鼻香林寺に在り誠智道安信士、大正九年(1920)四月八日卒、中村紋吉「養父、俗名安次郎、行年七十歳」と刻する。実は安太郎が正しいのであろう。

 十五、高坂村【現・東松山市】早俣(はやまた)の橋本喜八は、正代観音額に門人のあったように記してあるが、遺族の談では一度習えば忘れない人であったけれども、別に教える事はしなかった。二三代前には和尚さんか何かになって、教えてあるいた人もあった。喜八は役場へ出た。火事に会った事もあり、明治四十三年(1910)四月二十六日凡そ七十歳で没し、亡後直ちに洪水があった。

 十六、千代田石郎も亦早俣の人で、同じく小堤門人である。今は孫仲次氏の代になって居るが、石郎は男子なく、娘おむめに婿を迎え、子がなくて妹てつの娘に仲次を迎えて家を嗣いでいるのである。石郎は明治三十六年(1903)三月廿四日五十五歳で没し、戒名を輝山覺道居士と云ふ。むめ女の婿を中蔵と云ふ。むめは才女であって、正代で十露盤をも習ったが、寧ろ筆の方が得手であった。子供等を寄せて教えもした。利巧過ぎて身代を無くしたと言われ、北海道へ渡って快復を図らんとしたが、素志と違いて、中蔵は死亡し、帰って来た。そうして間もなく大正十一年(1922)五月二十九日四十八歳で没した。書類は多くあったが、今は残存するものが少ない。

 十七、千代田勝太郎、同じく早俣で、十露盤の弟子もあったと云ふ。師匠を家に頼んで置いて習ったと云ふ話も伝って居る。仕事はしないで、十露盤をしたり、正月には義太夫をやる、碁や将棋をやると云ふ事ばかりして居た。役は色々と勤めた。併し多くの事は伝えがない。墓に「泰獄軒千丈奇勝居士、大正十一年(1922)八月三十日、俗名勝四郎事、享年七十又一」とある。(孫芳助氏並に千代田仲次氏談)。

 十八、栗原萬次は高坂村【現・東松山市】正代(しょうだい)の人、其墓に

  大正四年三月卅一日卒、初代栗原萬次、行年七拾歳
  慈厚院顯德日萬居士
  至孝院妙貞日慈大姉
  大正五年三月彼岸日創立
      後嗣 大字宮鼻 栗原小一郎

と誌るす。孫栗原萬治氏の談に、祖父は十露盤が達者であって、相当に教えたし、習いに来るものもあった。珠算で何でも出来ないものはないと云ふ程であった。萬次が兄で、年次は弟である。年次は教えはせぬ。半次の方が後に没した。
 正代観音額に、兄弟共に大野旭山門人とあるが、師伝の事は伝らず、旭山は宮鼻の西のはづれの大野氏ではあるまいかと云われるのみであった。小堤幾蔵の娘の言う如く、後には小堤からも教はったと云ふのも、或は事実であらうが、其れも判明せぬ。

 十九、大野旭山門人と額面に記載があるからには、旭山は算法を教授したに違いないが、其人の事は判明し難い。宮鼻大野氏は、元とは相当の身上で、村でも一二であったが、今はひろくした(栗原萬治氏談)。大野氏の墓所は宮鼻香林寺に在り、墓と過去帳に拠るに

  曹山淳洞居士
    文久元年酉八月二十八日逝 捨五郎
  雪山活道居士
    明治十七年二月四日    利三郎(?)

と云ふのがある。併し戒名に旭山と号するものは見当らぬ。寺へ来合せて居た人の談には、利三郎は十露盤では元と高坂村一番であった。其家に十露盤の本が沢山あったのを知って居ると云ふのである。けれども其家の当主大野次郎氏の談では、利三郎の後の栄次郎か、小堤幾蔵から十露盤を習った事はあろうが、此の家に十露盤を教えた人があったと云ふ話しは伝えがないと云ふ事である。
 大野旭山が若し宮前の人で、明治十年正代観音奉額の時に存命であったならば、其姓名は客席と云ふ中に列せあれようものに、之を見ないのは、当時既に故人であったか、然らざれば他郷人に違いあるまい。全く不判明と云ふ外はない。正代と宮鼻とは連接した小部落である。

 二十、岡部雄作は比企郡中山村【現・川島町】北園部の人で、正代の算額に教員と言って居るのは、学校教員を勤めて居た事を云ふのである。居宅の付近なる醫音寺の門前に其碑が立って居る。即ち言ふ、

 首唱文學政治於武之比企郡川島者。曰岡部君雄作。片岡君勇三郎。片岡君曾爲衆議院議員。今也梓木將供。然君聦明不衰。矍鑠如壯者。可謂南極星輝矣。君姓岡部。名雄作。靑峰其別號。以嘉永四年八月廿七日。生於比企郡中山村北園部。家世里正。考曰彦右衞門。妣高橋氏。幼英異嗜讀書。年甫十三。就余先考研經史。傍學筆札。昕夕刻勵。如渇赴泉。故先考不勞。而業大進。十八歳歸郷里。自是專勵家業。用心於農事改善。明治五年。朝始布學制。募志願者。養成敎員。翁率先應募。入本庄暢發學校。以優等卒業。還開學校。敎授生徒。此爲川島普通學之始也。君便暇繙洋書佛典。又用竹刀。試練身心。最精於水利算數。苟有益於地方。知無不爲。如京塚長樂吹塚隄防。及釘無水門通渠。其効不尠云。由是聲譽大揚。以公選爲各名譽職。不堪枚擧。其所施行。概不離於三道云。嗚呼。所以令翁至於此者。抑賢母高橋氏。敎育所致也。嘗開演武場。以矯文弱。又與片岡勇三郎。内野淸太郎等。締盟共習討論演説。時延名士於東京。開演説會。俾人起政治思想。此所以有川島今日之盛也歟。性快濶無他嗜好。然甚愛梅柳松竹。扁其居。曰四樹節堂。前後學敎者五百人。配名佐和。大谷村中島傳兵衞之三女。擧三男二女。長曰胤三。嘗師嵩古香及余。而後學于大郷。今入東京日日新聞社而在要途。次曰要多。次曰俊治。爲一家。次曰寛。出嗣野澤氏。長女楚乃。適高柳章
治郎。次女比古。適二野政次郎。至諸孫十八人。富哉孫也。詩云。瓜瓞綿綿。翁有馬。今茲大正九年。君躋古稀壽城。於是受業松崎莊太郎。島村鷲太郎。岡部運吉。來曰。同窓胥謀。欲爲翁建壽碑於同村醫音寺。以報陶恩。併諷澆俗。屬余文。予聞之歎福師弟情誼之篤。
也。乃系以詞。曰。
 鶴骨仙姿。松操竹心。英氣充滿。
 霜雪不侵。年開七帙。蒼顏如童。
 愛梅親柳。陶林之風。功在郷隣。
 百世不空。自是閑雅。念保其躬。
 龜齡容易。況武内公。強哉強哉。
 眞川曷雄。
        川越  汪水利根川丈雄撰。
    篆額  前大德現東海晦巖常正禪師。
        東都知恩會主畑中俊應謹書。

 此碑文は園部雄作の経歴を大概明らかにして居る。最も推理算數に精しとあるが、算數は本庄の賜發學校で學んだものか、若くは地方の算者に師事したのか、明らかでないのを恨とする。文中に川島云々と云ふのは、此地方が川島稜と云わるゝものを指す。高多開治の出た紫竹の如きも亦川島領の一部である。
 雄作の没年月日は墓石には未だ刻してないが、過去帳には

  彰仁院心月晴峯居士、俗名雄作、行年七十歳
  大正九年十一月七日逝、父彦右衞門母久和

と見える。
 雄作が教授に当ったのは、寺へ学校を開いた時の事であるが、家へも一人や二人は習いに来たものもあった。而も三男俊治が家を継ぎ、昭和八年(1933)四十八歳で没したし、明治四十三年(1910)の洪水には床上五尺にも及んだので、書類などは其時に皆失われ、今では何も判らなくなってしまったのである。
 碑文中に長男胤三か嵩古香に学ぶとあるが、古香は野本了善寺の住職にして、其子嵩海藏師は長く史料編纂所に在職されて、私も相識の間柄である。(未完)

『埼玉史談』12巻2号 1940年(昭和15)11月
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