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第6巻【近世・近代・現代編】- 第7章:文芸・学術・スポーツ

第1節:俳句・短歌

短歌

関根茂章『故山』(抄)(昭和48年)

米山永助老を悼みて

はるけくもただひたすらに歩みこし
       老の足跡大いなるかも
白梅の生命かなしもきさらぎの
       凍(い)てつく土に散りにけるかも
うつせみの生命かなしも白梅の
       音もたてずに散りゆきにけり

木枯

はたはたと雨戸をたたく風音に
       牛をしのびて眠りかねつも
木枯の森を吹きゆく音しきり
       屋外の牛はいかに耐ふらむ

上水道の通水開始*1

都幾の水町のはてまで届き得ぬ
       宿願ここに果しけるかも
風呂入れば足まで見ゆる水なりと
       はずむ電話に足らふ吾かも

*1:以前、特に乾期には古里、吉田、越畑地区は水不足で困っていたが、1973年(昭和48)3月1日から全町に通水が開始され、水不足が解消された。

夏宵

宵闇のしじまひそけくぬかづきて
       何祈るらむ姿かなしも
黒々と横たふ山すそ展けたる
       街のあかりは星の如しも
歩み来ていつか消えなむ朝露の
       生命を惜しと独りかみしむ

慕情

山狭(やまあい)は川面にもやのこもり立ち
       せゝらぎ低く暮れゆかむとす
谷川の岸辺歩めばひぐらしの
       暮るゝを惜しと鳴きて止まずも
遠き路いかに過ぎしと思ふ眼に
       まろけき月の光(かげ)冴えわたる
夕暮の寂(しず)けさに耐へ独り居ば
       窓辺にまろき月のぼりゆく
差出(さしいだ)すくちなしの花もやあおき
       庭のしじまにあまくにほへり (石川先生宅)

旱魃と慈雨

ひびわれし水田(みなた)根深く張りしめて
       むごけき陽光(かげ)に耐え耐えて生く (稲)
草も木も渇きのきはみ黄ばみたり
       八大龍王雨降らせ給へ
待ち待ちし雨音(おと)たてて降り来(きた)る
       野山生き生きよみがえるらし
待ちわびし雨ぞ降りきぬ眼とじ
       雨音しかとこころに刻む
雨しげき石のかざはしたしかにも
       こころよせつつ歩をすすめたり

秋雨

庭に咲くコスモスの花濡らしつつ
       晝間しずかに秋雨の降る
街燈の光(かげ)おぼろなる夕暮を
       音もたてずに秋雨の降る

彼岸花

今年も曼珠沙華のあかき花
       路辺に咲きて秋深みゆく
彼岸花葉もつけなくて独り咲き
       かなしみさそふ秋深みたり

秋情

天地(あめつち)のこの寂(しず)けさや音もなく
       コスモスの花舞ひ落ちにけり

義仲寺*2の代参をしのびて

木曽殿の霊(たま)安かれとひたすらに
       塔婆をさげしそのこころはも
義仲寺につとめ果せしこころねを
       ロマンの殿は笑み給ふらむ
落つる日のロマンを染(そ)めしもののふは
       あがふるさとに生(あ)れし雄の子ぞ

*2:義仲寺(ぎちゅうじ)…滋賀県大津市にある寺院。俳人芭蕉は1694年(元禄7)、大坂で亡くなったが遺志により義仲寺の源義仲の墓の横に葬られた。「木曽殿と背中合わせの寒かな」は伊勢の俳人島崎又玄が無名庵(義仲寺)に滞在中の芭蕉を訪ね泊まった1692年(元禄5)の作。

晩秋

いく度か歩みし道に落葉散り
       足音すみて秋深みたり
もみじせし襷の小枝(さえ)を動かして
       朝(あした)しずかに風渡る見ゆ
色づきし柿の上(ほ)つ枝に小鳥らは
       今日も来りてだえづりており
葉も落ちてとり残された柿の実を
       鳥も来たりて今日もついばむ
秋深くただしずもれる裏庭に
       晝間ひそけく樫の実は落つ
樫の実はしづもる庭に一つ落つ
       かそけき生命わがおもひ居り
裏庭に眠りし犬はかしの実の
       一つ落つるも動くことなし
真白なる山茶花(さざんか)の花ひそけくも
       一輪ひらき空ますみたり
夕くれし庭の斜面はひるの陽の
       かそけきぬくみたたえおるなり
夕くれの山あひの田に稲かけは
       ひそけく残り木がらしの鳴る
ほすすきの揺るる川原のいや果に
       秩父の山は藍(あい)冴えてあり
黒土にしみ入る夕陽かげあはし
       妻とはたらき足らふわれかも

あかね雲

黒雲のどよみて冷ゆる西空に
       山脈あかく残照に映ゆ

中島わか氏に*3

いく年を耐え忍び来て貯(たくわ)へを
       ささげし心情(こころ)われを泣かしむ

消防団放水試験

放水の合図おそしと十本の
       水たくましく競(きそ)ひあがれり
エンヂンの音さだまりて水(みな)柱
       弧(こ)を描きつつしばし動かず
水(みな)すじは真白(ましろ)き孤をを描きゐぬ
       はたてに蒼き山脈の冴ゆ

師走閑居

子供らと門松伐らむと沢に架す
       丸太橋渡りて山に入りたり
樹の間洩る陽はうすけれど登りゆく
       吾が肌あはく汗にじみけり
登りゆく吾らの足(あ)音に驚きし
       山鳥一羽とびたちにけり
山鳥の羽ばたく音は森閑と
       しずもる森に雄々しくひびけり
西木戸に佇(た)てば絶えざるせせらぎの
       リズム安けし年暮るる夕(よひ)
除夜の鐘余韻つづくに子供らは
       四十九年と大声で告(の)ぶ

歌集『故山』関根茂章, 1974年(昭和49)2月

*3:中島わか氏に関しては、次の記事を参考にされたい。

敬老会

いつまでもお元気で 70才以上は六一二人 中島わかさんから老人のためにと五十万円

 多年にわたって社会に尽されてきた御老人に感謝し、長寿を祝う敬老会が十月十五日(月)菅中体育館で行われました。
 御老人達は秋晴れの空のもと、子どもや孫に送られて、知り合い同志でのんびり話しながら会場におもむき、定刻前にほぼ一ぱいになる盛況ぶりでした。
 嵐山町で七十才以上の方は、男二百七十五人、女三百三十七人の計六百十二人、その内会場には五一三人がお見えになりました。
 席上、八十八才以上の方、金婚式を迎えられた御夫婦の紹介と記念品贈呈がありました。
 記念写真、昼食の後午後からの余興では、幼稚園児童の遊戯に目を細め、仲間の日頃きたえたノドの詩吟や歌に声援を送り、まだまだ若いと「中学三年生」を歌う人もあって、三時頃まで拍手と笑いが続きました。
【中略】

老人福祉に役立ててと五十万円

 また席上、菅谷の中島わかさん(74)から、老人福祉に役立てて欲しいと町に五十万円の寄付がありました。
 わかさんは去年の十月脳軟化症にたおれ、回復したというもののまだ歩行が自由には行かないため家人につきそわれて会場に見えました。はなしによるとわかさんは夫に先だたれ、十一人の子どものうち長男を戦争で失いました。
 その弔慰金と老人年金、子どもや孫からの小づかいをコツコツ貯めたお金を寄附されたということです。

『嵐山町報道』233号 1973年(昭和48)11月1日
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