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第6巻【近世・近代・現代編】- 第7章:文芸・学術・スポーツ

第1節:俳句・短歌

俳句

俳句と私

 俳句の好き嫌いは大体その人の素質であろうか。私の兄弟でも俳句を作ったのは私だけで近所にも居なかった。尤も血統から言えば吉田から婿に来た祖父が俳句が好きだったそうである。不思議なことに私は学校が嫌いで小学校も満足に行かず終わったので字も碌(ろく)に知らず、迚(とて)も俳句など作れる訳はなかったのであるが、何となく俳句に魅力を感じて、自然に作って見たくなったのである。
 今顧れば感じはやっと十文字か十五文字位しか知らなかったと思う。俳句を始めてから文字の必要を感じ、それから文字の勉強を始め、字引を頼りに猛烈な向学心に燃えた。始めの内は近所の幾人かを誘って作らして纏(まと)め、それを先生に見て貰った。その頃は一般に俳句が流行っていて、学校の先生に迚も俳句の好きなのがいて、職員同士の小句会をしばしばやって居たようだが、村全体へ呼びかけての俳句募集があった。私も勿論応募して、優秀な成績であったと記憶する。
 その時の句会に出席したのだが、句会といふことに出たのがこれが最初であった。教わる人もなく、何しろ初めてで日も浅かったので、俳句の規則も佳否(よしあし)も全く知らず、殆ど夢中で盲蛇の度胸であった。
 昔の句会は現在のように出席者の互選ではなく、題が出て、それを力紙と云って十枚十銭位で買って、その紙に書いて出し、それを係りの人が纏めて、書いて先生に見て貰ふ。つまり選をして貰ふ方式であった。
 その時の、春雨に結ぶ手という題で、次のような句が出来た。
   春雨(はるさめ)や手の先仕事眠気さす
   春雨や蛇の目片手に端折(はしょ)る裾(すそ)
 この句が三光と秀逸に入選したので自分ながら驚いた。何んにも知らないで、こうした句が出来たのは、今考えて見ても上出来である。これが十九の歳である。大袈裟に言えば彗星の如く現れて俳句の脚光を浴びたのだから大した訳である。
 幸か不幸か、私はこれをスタートに、俳句に没頭するようになった。私の人生に於て俳句がよかったか、どうか分らないが、好きなことをやり通したという点ではよかったように思う。何しろ私の素養や教養は極めて乏しく、殆ど俳句を素として、取入れた知識であり、教養であるからである。殊(こと)に文字に於ては特別の自信があり、どんな字でも知らない字はないと思ふ位で、便利をしているのは有難く思ふ。歳をとると、字を忘れるというが、余り忘れて居ないのは、自分ながら不思議に思ふ位である。これも俳句をやって来たお蔭ではないかと思う。俳句は私の実生活には必ずしもプラスではなかったと思ふが、私の人間形成、精神生活の上には大いに役立ったと自負するのである。私は三十五歳の時、二児を残されて妻に死別した。その不幸を契機に仏教に這入(はい)れたのも、俳句をやっていて文字の知識があったからこそである。
 私の七十六才の喜寿に至らんとする人生は短いようで永かった。俳句を始めてから撓(たゆ)まぬ人生勉強は、或程度成功し、物の観方、考え方に於て、自信を得、そこに満足と安心を得られるようになったのは、俳句と仏教の勉強による、成果であったと思う。殊に一昨年の病気の時の不思議な経験により、観音様の霊験とも思はれる現象に、自分の命の顕現を確認出来たのは観音信仰の利益とは言い稀有(けう)なこととして感謝し、生命の活気躍進を感ずる。
   雪の夜の明るき庭の広さかな
 俳句を始めて、何も分らず、夢中で作って居た頃、福田から来て居た、井上牛円という学校の先生に俳句を教わっていた。
 その頃よい句だと言って先生が短冊へ書いて呉れたのが右の句である。
   梅雨晴れや天気予報の旗白し
 恩師初雁利一先生(故人)が補習学校の席上で「私が棺を覆うまで忘れないだろう。」とほめて呉れた句である。
   妻葬り車窓の紅葉血を流す
   今朝の霜妻の墓にも白からめ
 私は生活の都合上、横須賀の海軍工厰へ在職中、大東亜戦争へ突入する前の昭和十五年(1940)十一月に突然妻に亡くなられた。二児を残されて……。これは私の人生航路に於て、最大の躓(つまず)きであり大きな不幸であった。
 思えばこれも戦争の犠牲に類するものであって、多くの家庭が少なからぬ犠牲を払っているのに、私は応召を免れたのだから、その代りとして仕方ないことだと思った。
 妻を故郷へ仮埋葬して再び勤務地へ戻らなければならなかった。東上線の車中で眺めた窓外の紅葉は涙で曇った眼に一とべったに見えて、まるで血河の流れを見るようであった。一人になった仮寓(かぐう)からの勤めは淋しく悲しかった。砂漠のような世の中に、冬の訪れは早く、孤独の勤めに見る、朝の霜は殊更身に沁(し)みた。この朝の霜も、はかなく世をさった、ささやかな妻の墓にも白いことであろう。

   【中略】

あと書き

 句集の上梓を計画して久しかったが、仲中その機会を得ず、今日に至ってしまった。
 来る五月十七日が丁度七十七才の喜の寿に当るので、それを契機に今度はどうしても出そうと思って、ずっと前計画して書き始めたのを元に、大急ぎで書きまとめて、どうやら一冊の本が出来そうになった。私のは一般の句集とは違い、『俳句自叙伝』と銘打って、過去六十年に亘る、生活の記録として詠んだ、俳句の中から集録した。それが夥(おびただ)しい数に上るので迚(とて)も全部といふ訳にはゆかないので、その中の一部を集録した。採録の標準は、初めて村の句会に出た時の作品から、中央の俳誌、島田青峰の主宰した『土上』を皮切りに、渡辺水己の『曲水』、最后には仏教俳句を志向した関係で松野自得の『さいかち』に二十七年所属した経過である。
 これがささやかながら私の俳句遍歴である。この中から選らんだものであるが、何しろ戦争がからんだ悪い時代の作品だから、何れも貧しい悲しい感覚のものが多い。それに六十年を隔てる感覚の推移は随分変化している。
 戦前私達がよかったものは、今は影も形もない。殊に自然のよさは殆ど失なわれてしまった。特に淋しく思うのは燕(つばめ)の居なくなったこと、その他蜻蛉(トンボ)や蝉(セミ)の少なくなったこと、野山の草花がなくなったことなどである。
 そうした比較を知らないものは何とも思はないが、私達のように知っている者には驚異的淋しさである。そうした自然の豊かだった時代の作品は、懐かしく楽しい。その今はないもの、今は行なわれないようなことの作品を選らんで注釈を加えて見た。
 謂はば七十七才の郷愁である。
 今后世の中はどんな風に変って行くのだろう。この分では、恐らく無味乾燥な機械時代になるであろうが、昔こんなこともあったのかと見て呉れる人があったら幸である。
 作品の年代順も考慮したのであるが、心に浮ぶものを手当り次第書いたような訳で、それも前后したり、季の順序も乱れてしまって遺憾であるが、何しろ大変な仕事なので、いい加減になってしまった。
 終りに町長や、六十年の俳友木村さんからの句集を出すようにと慫慂(しょうよう)の言葉は励ましになって嬉しかった。感謝する。
   昭和五十八年 三月十一日
   五月十七日を以て七十七才の誕生日を迎えんとする。

久保茂男『俳句自叙伝』(1983年5月)より、巻頭、巻末を掲載
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