ページの先頭

第6巻【近世・近代・現代編】- 第6章:くらし

第5節:祭り・寺社信仰

菅谷

古老にきく

千日堂菅谷観音由来  中島喜市郎氏

                 小林博治

 「菅谷村ハ江戸ヨリ十五里、郷庄領ノ唱ヘヲ伝ヘズ…御入国ノ後ハ岡部太郎作ノ知行所ニシテ——」とある。志賀の陣屋、多田米三郎氏の先祖がこの岡部氏の被官として、東西八町南北九町の須賀谷(菅谷と書き改めたのは元禄頃から)の知行所を支配した。その陣屋は現在の中島長吉氏宅附近だという。陣屋というのは領主の役所の意味で、城を築くまでに至らない格式の領主の政庁である。
 伝えによれば、……この岡部氏の先祖に岡部主水という人があり、その母が二代将軍の乳母として、殿中に仕えた(註一)。将軍秀忠が生まれたのは、天正四年(1576)四月、その前年に、信長・家康の連合軍が武田勝頼を長篠に破つている。家康は元亀元年(1570)に浜松城を修築してこれを根拠とした。秀忠も父の居城に生れたのである。その乳母であつた岡部氏は、そのまゝ浜松にとどまりやがて、その地で死去したという。これは岡部氏が菅谷に知行所を賜つてかららしい。交通不便な江戸初期のことである。その遺骸は現地に葬り、「正心院殿日幸大姉」の位牌が知行所の菅谷に送られて来た。その後宝永三年(1706)(将軍綱吉の時)領主岡部藤重郎元貞は、長慶廃寺の跡を、多田家の墓地として、多田平馬重勝に賜つた。これが現在の観音堂の敷地である。仍(よ)つて多田重勝はここに堂宇を草創し、正心院殿の位牌を納め、千手観音を安置し、多田堂と名づけて奉仕した。然し、この多田堂は昭和十年(1935)十二月の火災で焼失するまで、間口二間四尺奥行三間四尺向拝付の本堂を構えて、その名は近隣に高かつた。
 時は移つて昭和十九年(1944)、安岡【正篤】先生が東京中野に松村善蔵氏御訪問の事があつた。
 松村氏は大阪の石油会社社長である。この時先生に随行した農士学校農場長酒井利晴氏は、松村氏饗膳の前に観音経の一節を誦唱して箸をとつた。このことから予(か)ねて観音信仰者である松村氏と酒井氏との交契が始つたという。これは中島氏が酒井氏から直接聞いた話である。
 観音堂は、昭和十年(1935)焼失後、多田氏が、三尺四方の小堂を建立して、尊霊だけを祀つていた。次いで昭和十八年(1943)、的野梅軒氏が、観音様敷地を借りて梅l工場を建てるに当り、更に観音堂も新築した。
 ここに的野氏は、酒井氏を通じ、松村氏が観音像寄贈の意あるを知り、酒井氏を介して、千手観音一躰の寄贈を松村氏に懇請した。松村氏はこれを快諾して、大阪の仏師藤岡志好氏にその彫刻を依頼してこれを完成したのである(註二)。
 昭和十九年(1944)七月、酒井氏からの通知により(酒井氏は農士学校を辞し、東京日野町在住)、根岸久一郎、根岸正作、的野梅軒、中島喜市郎氏等が上京して、松村氏から新彫の観音像を受領した。七月十八日である。
 この日のついては、中島氏の記憶によると、一行は途中安岡先生のお宅を訪ねた。この時先生は、小磯大将が帝国ホテルで待つているというので出かけるところだつた。小磯氏は大命を拝し組閣中であつたが、「多分今夜中に組閣を終るであろう」といつて先生が出かけられたという。つまり組閣の前日に当たつているので、この日を記憶しているという。
  観音像は中島喜市郎氏が捧持して、午後四時菅谷駅に着いた。出迎えの総代関根清一氏等に守られて、東昌寺に安置し、後二ケ月を経て、松村氏夫妻、村長、その他有志が列席して、開眼式が行なわれた。
 又、現在観音堂内の「正心院殿日幸大姉」の位牌は中島喜市郎氏が、在京の多田龍作氏を数回訪ねて寄進を得たものである。
 昭和二十年(1945)敗戦の結果、全国、中・小学校の奉安殿は撤去されることになり、菅小の奉安殿は、村会の議決を経て、観音堂として、無償譲渡となつた。これが現在のものである。
 千日堂の由来のついては尚考証を要する点が数多あるので、今回は、特に中島氏が直接携り、又見聞したことを中心に、書きとめた。
(未完) 
〔註一〕日幸大姉の位牌の裏面には、「岡部主水の母、徳川将軍の御乳母、慶長十五年正月二十六日江府城内に病死」とある。
〔註二〕中島氏所蔵の観音像写真裏面には、
  藤岡志好謹刻
   葛野仏喜堂監工
    施主 松村善蔵
   昭和十九年五月大祥日
 と書いてある。

『菅谷村報道』138号「古老にきく」 1962年(昭和37)10月10日
このページの先頭へ ▲