ページの先頭

第6巻【近世・近代・現代編】- 第6章:くらし

第5節:祭り・寺社信仰

菅谷

東昌寺観音堂物語

 菅谷の東昌寺の山門を入ると、すぐ左側に観音堂がある。本尊は千手観音(せんじゅかんのん)である。この千手観音には、江戸幕府の二代将軍秀忠の乳母(うば)にかかわる長い歴史が秘められている。

将軍秀忠の乳母と千手観音

 菅谷の地は江戸時代の前半期は旗本岡部氏の領地であった。岡部氏の県内の知行地は、菅谷以外に志賀、太郎丸、勝田(かちだ)、滑川町の中尾、水房、大宮市の宮ヶ谷塔(みやがやと)などである。
 岡部氏の先祖は岡部主水(もんど)といわれている。主水の父は今川義元の家臣川村善右衛門、母は岡部與惣兵衛(よそうべえ)の娘である。善右衛門が若くして亡くなり、主水の母は小田原で徳川家康に召しだされ、秀忠(後の二代将軍)の乳母を務めることになった。やがて江戸城に住み岡部局(おかべのつぼね)といわれた。この岡部局が持仏(じぶつ)として信仰していた千手観音を、後に菅谷の地で祀ることになったのである。
 息子の主水もやがて家康に召しだされ、そばに仕えることになった。そのとき家康から母方の岡部姓を名乗るようにいわれ、以後岡部主水と名乗ったという。岡部局は1608年(慶長13)に将軍秀忠の病気平癒(へいゆ)と武運長久を祈願して、江戸の池上本門寺(日蓮宗本山)に五重塔を寄進した。岡部局はその二年後に江戸城で病死した。塔は国の重要文化財に指定されている。滑川町中尾の慶徳寺(けいとくじ)(曹洞宗)の過去帳には、岡部局と歴代岡部氏の戒名が記されている。

多田堂の建立

 岡部氏五代目の岡部藤十郎の時代に、志賀の多田家初代多田七左衛門は菅谷村に住んでいて、1702年(元禄15)に菅谷の領地支配を命じられた。二代目多田平馬重勝(へいましげかつ)も領地支配を引き継ぎ、藤十郎から十石五人扶持を与えられている。この頃から多田家は「陣屋(じんや)」といわれるようになったと思われる。この多田平馬重勝のときに観音堂の基になる多田堂が建てられた。菅谷自治会館の脇にある多田家の墓地の一角に、多田堂の由来を漢文で記した石碑【高さ約2メートル】がある。碑文によると、畠山重忠が菅谷館(すがややかた)のかたわらに寺を建て長慶寺(ちょうけいじ)と名づけた。後に寺は菅谷の地【菅谷自治会館の所】に移された。江戸時代の寛永年間になって菅谷の地を領有するようになった岡部氏はこの寺を廃寺(はいじ)にし、1706年(宝永3)にその跡地を多田平馬重勝に賜り、そこを墓地とすることを命じた。重勝はそこにお堂を建て、千手大士【千手観音】を安置し、多田堂と名づけたと記されている。千手観音は岡部局の尊崇した観音様であった。石碑は1797年(寛政9)に三代目多田一角英貞(いっかくひでさだ)が立てたものである。以後多田家が多田堂を守り、その祭りも盛大に行なってきた。
 1723年(享保8)に、松山宿の吉田七兵衛は比企郡内の観音を回る巡礼札所を定めたとき、多田堂を26番目の札所にした。「享保八年 比企西国御詠歌(ごえいか) 道法附(みちのりつき)」には、「二十六 すがやただのどう二十七番へ十八丁 たのめただ すかやこかげのあまやどり ちかひもらさじ はさくらのかさ」【頼め多田 菅谷木陰の雨宿り 誓いもらさじ 葉桜の傘】と歌われていた。そして多田堂の祭りの盛んな時代を物語るかのような立派な太鼓が、今も多田家に残されている。太鼓の胴回りの直径が63センチの立派なもので、側面に「菅谷多田堂 本竹(もとたけ)稲荷宮 祭禮器」と刻まれている。しかし岡部家が廃絶(はいぜつ)にされ、幕末の激動期には維持が困難になり、しだいに地元の菅谷村の人たちがお堂を維持するようになったと思われる。

多田山千日堂へ

 明治の新政府は、財政の基礎を固めるために土地の所有者に地券(ちけん)を交付して土地の所有権を認め、地租(ちそ)として税を納めさせることにした。この地券交付にあたり問題が起こった。多田堂境内の土地の地券が菅谷村に交付されたが、その多田堂境内の土地は大部分を多田家が寄進し、地租(ちそ)は多田家が納めてきたからである。多田家は地券の名義を多田家に書き換えることを県に願い出て、さらに熊谷裁判所に訴えた。1874年(明治7)5月17日に多田家・志賀村側と菅谷村との間で示談が成立した。
 それには、
1、多田家側では多田堂と称していたが、堂のある菅谷村では千日堂と称していた。いずれとも決めかねるので以後は観音堂と称する。
2、地券の持ち主は観音堂とする、
と記されていた。しかし、その2日後に両者連名で熊谷裁判所に提出した和解書によると、堂の敷地は多田家の先祖が寄進したものに相違ないが、地券の持ち主は多田山千日堂とすると記されている。これにより以後は多田山千日堂といわれてきた。なお1916年(大正5)に菅谷区長関根濱吉が比企郡長に提出した「多田山千日堂調」には、多田堂の境内地18坪、堂宇の間口2間4尺、奥行3間4尺、向拝(こうはい)間口6尺、奥行2尺5寸、瓦葺(かわらぶき)と記されている。

菅谷の大火と奉安殿

 1935年(昭和10)の菅谷の大火で、多田山千日堂はお堂も千手観音像も全焼してしまった。その後、1940年【昭和15】に制定された宗教法人法の規定により、独立した仏堂はいずれかの寺院に所属することになったため、すでに東昌寺が管理していたので、以後正式に東昌寺に属することになった。
 やがて日本が戦争に負けて、菅谷小学校の奉安殿【天皇の「御真影(ごしんえい)」を安置していた】が廃止になったとき、その奉安殿を多田山千日堂の跡地に移してきて仮堂とし、新しい千手観音を安置した。

東昌寺観音堂の時代へ

 この元奉安殿もいいたみが激しくなったので、東昌寺境内に新しく観音堂が建てられた。しかし仮建築であったため、1987年(昭和62)に本格的なお堂建築として建てられたのが現在の観音堂である。お堂には千手観音と岡部局の正心院殿日幸大姉の位牌(いはい)が安置されている。

東昌寺の観音堂|写真
東昌寺の観音堂

祭禮器|写真
菅谷多田堂 本竹稲荷宮 祭禮器【太鼓】


本竹稲荷幟旗|略図
本竹稲荷幟旗(略図)

このページの先頭へ ▲