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第6巻【近世・近代・現代編】- 第6章:くらし

第5節:祭り・寺社信仰

菅谷

古老にきく

菅谷観音堂由来  多田浦吉氏

                 小林博治

 菅谷観音の境内に、志賀多田家の墓地があり、その一隅に、寛政九年(1797)多田英貞建立の石碑があつて、これに千手観音安置の由来を伝えている。
寛政九年(1797)といえば今から百六十数年前に当るが、碑石は風雨に暴らされて文字も崩れ、適確に読取ることが困難になつているが、倖(さいわ)い多田さんがその写しを所蔵している。
これによると、畠山重忠が館を構えた頃、その城の傍に仏寺を置いて、長慶寺と称した。興農研究所の洗心林の地点である。この寺は中世に至つて、現在の観音様の敷地に移されたが、何時の頃か廃寺となつてすたれてしまつた。東西八町南北九町といわれる菅谷村が岡部太郎作(新編武蔵風土記)の知行所となつたのは寛永年中であると碑文は語つている。多田氏の祖先が、岡部氏の陣屋にあつてその頭地を支配していたことは前号【千日堂菅谷観音由来】にのべた通りであるが、宝永三年(1706)、多田重勝の時、前述の廃寺跡の地を岡部氏から貰つて、これを多田家の墓地と定めた。そこで重勝はここに多田堂と称する堂宇を建て、千手観音を安置してのである。
新編武蔵風土記によれば、幕府は岡部氏の子孫、徳五郎の時その領地を上地せしめ、将軍直轄の地とした。碑文には、これを「岡部氏滅亡し重勝の子多田英貞こに地に土着し他に移らず」とのべている。多田氏は主君を失なつたが、その後支配地の住人となつて永くこの地に留まつたのである尚菅谷村は、安永九年(1780)に至り再び幕府直轄を離れ猪子左大夫の知行に移つた多田氏が今の志賀の地に居を定めたのは享保九年(1724)であるといふから、岡部氏が亡び、天領となつたのはこの頃であると思われる。重勝が、領主岡部氏から賜つた観音境内の地は、前述のよう、幕府の直轄となり猪子氏の所領と変り、ことに明治維新による藩籍奉還等のこともあつてその所属が次第に不明となり地元菅谷との間に紛議を生じるにいたつた。これが熊谷裁判所に持ち込まれたが、その結果「観音は多田亀三郎のものに相違ないぞ。但し志賀から来て守護することは容易でないから、菅谷の人と話合つて管理せよ」という裁断が下つた。そして従来の多田堂の名を改めて多田山千日堂と称え共同管理の形とし、その議定書が出来た。明治七年(1874)のことである(議定書の内容は未調査)。然し多田さんの話によるとこの亀三郎さんが貧乏して菅谷から話があつても、その都度会合に出席出来ないそれで管理の実権は次第に地元に移つていたという。大正五年(1916)、菅谷区長関根浜吉氏調製の「多田山千日堂調」によると、明治二十五年(1892)、畠山城址の城山学校をここに移して菅谷学校を建て、その敷地として観音所有地を貸与したとある。又同じ調書に「現在の管理の実況は、菅谷区長と評議員が之に当り、堂の縁故者多田家が、年度収支決算の時立合つている」とあるから明治の中葉から実権は完全に地元に移つたとものと見られる。これについて又多田さんによると、平沢の内田倍太郎(ますたろう)氏が村会議長の時である。内田氏は当時名打ての村会実力者、その上その父君は志賀の多田氏の出で内田家の婿になつたものである。観音堂の管理について大いに不満を感じたらしい。「大体陣屋がおとなしすぎる。今日は俺の云ことをきかぬと開会しないぞ」という訳で多田家の立場を明らかにしようとした。その結果、従来の経理を明瞭にした上、管理は一本化して菅谷に委せることとし、村議全員でこれに連判した。多田さんの記憶では、時の村議として、滝沢宗八、小林市太郎、関根丑太郎、福島緑造等の名が上げられる。旧村の議員名簿にこれ等の人が名を連ねたのは、明治三十年から四十年の頃であり尚議員名に若干記憶違いもあるようである。とも角管理権は菅谷に移り総決算の結果残つたのは僅か金五円。これを多田氏が受けて旧来の権利を放棄したのだという。
かくて観音境内六反五分の地が地元管理となり、中一畝二四歩の墓地が多田家の所有として現在に残つたものである。

『菅谷村報道』139号「古老にきく」 1962年(昭和37)12月20日
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