第6巻【近世・近代・現代編】- 第6章:くらし
川島の今昔[権田重良]
権田重良
「こまもん」の家に、大正11年(1922)、当主の四代前の権田文五郎が菩提寺の広正寺*1で作成した過去帳がある。過去帳には延宝六年(1678)二月没「浄室妙江信女」、宝永二年(1705)十一月没「宝山道性信士」以来の先祖の戒名が書かれている。
八代前に権田友次郎がいる。友次郎の名前は大蔵より菅谷に向かう都幾川の学校橋の北の坂・蛇坂(へびざか)に文化五年(1808)に建立された「水神塔」に刻まれている。この石碑は地元では蛇坂改修記念碑と伝えられている。この坂を行き来した多くの人々の労苦と念願により改修された坂道の完成を記念した碑であろう。菅谷村を始め、志賀、太郎丸、広野、杉山(以上嵐山町)、水房、和泉、羽尾(以上滑川町)と川北の村々の名前が読み取れる。上部に、「上川島 権田友次郎、水房村 宮島八十八、羽尾村 山下良七 山下長五郎」とあり、世話人とも思われる。権田友次郎は文政六年(1823)十二月に亡くなっている。
友次郎が商いをしていた記録はないが、その後、馬次郎、喜藤次、恵助と三代八十数年間にわたり、権田家は小間物商を続けた。
各地に鬼神講が作られ参詣者が増えると、その道筋は鬼神街道、鬼神道といわれ、道標が各地に建てられた。現在、開発により多くは不明になっているが、東松山市内の八幡神社門前の三叉路に立つ数基の石碑の内に鬼神道の道標がある。「嘉永三年(1850)四月吉日 右川島一里三十町 左小川志賀」とあり「願主 鴻巣宿 柿屋長三郎 世話人 小間物馬次郎」とあり、権田家七代前の馬次郎の名前がある。他に松山 石井長五郎 伯光屋仙衛門 八百屋権[ ]がある。当時の小間物商いは行商人が幾段もの引き出しがある木箱の中に紅、白粉(おしろい)、櫛、かんざし、髪油など化粧用品や日用のこまごまとした品物を入れて、大きな風呂敷包みに背負い、各家を売り歩く商売だった。
小間物商初代の馬次郎の商いの様子は不明だが、後年には小間物卸商となり、母屋西側の薬師様の道沿いに二階建の離れの店を建てた。行商にでかける人達が毎日出入りし、又鬼神様参詣客相手の商いもしていたようだ。馬次郎は安政二年(1855)八月に亡くなっている。
小間物商二代目は息子の喜藤次が継いだ。この時代は繁栄期だったが、三代目となる息子が料理屋に働く娘と恋仲になり、親の許しが得られずに鬼神様の上沼(うえぬま)に心中し、若い命を絶ったという話が「こまもん」に語り継がれていた。昭和五十年代になり、明星食品工場の排水問題が起こり農家の水利関係者が調査した際、弁財天の石碑が天沼の藪の中から発見された。「安政二年(1855)卯九月吉日 願主 権田喜藤次」とあり、言い伝えと一致している。親を八月に亡くし、続いて子に先立たれた喜藤次が若者の成仏と家運を祈願して弁財天を建てたのであろう。世間から忘れ去られた安政時代の出来事が、百三十年後の二十世紀のある日、天沼で発見された石碑からよみがえった。この話が川島の人々の話題になり、弁財天は場所を移して再建された。その後も、権田家では四季の花を供えて先祖の供養を続けている*2。
喜藤次は明治四年(1871)七月に亡くなり、小間物商三代目は二男の恵助が継いだ。恵助は明治二十三年(1890)七月一日に実施された第一回集議院議員選挙の選挙人であった。この時の選挙権は、二十五才以上の男子でその居住する府県内で直接国税十五円以上を納める者に限られ、総人口の約一・二四%にすぎなかったといわれている。商売が繁盛していたことの証(あかし)であろう。後年になり、恵助は本業は人任せにして、鬼神様の門前に料理屋「恵比須」(えびす)を開業し、道楽に明け暮れた生活を続けたという。その頃、兄の店を手伝いに来ていた器量よしの妹まきは広野広正寺の十九世の若住職に見そめられて入山している。菅谷の町内で昭和後年まで小間物商や他の商いをして栄えた家の先祖が、川島の「こまもん」で働き行商をしていたのもこの頃のことである。
恵助は明治三十三年(1900)没し、川島「こまもん」は三代続いた店を閉めた。三人の息子がおり、長男文五郎は農業で家を継ぎ、次男熊五郎は出家し、僧名玉瑞として後年、加田(滑川町)にある慶徳寺三十世として入山している。下の弟は高輪泉岳寺に使用人として預けられた。小間物商の廃業は、広正寺に嫁いだ恵助の妹まきと新井屋に婿入りした弟長吉の考えた結果と思われる。商売に使われた二階屋は売られ、近年まで杉山の旧家に存在していた。
*1:広正寺は、慶長十年(1605)、この地方を支配していた高木正綱が父の広正の追福のため、高木山広正寺と父の名を寺号として中興開基した寺である。高木氏は中爪村(小川町)、越畑村・広野村(嵐山町)、和泉村(滑川町)四ヶ村二千石を受領していた徳川家譜代の家臣である。以来四百年間、広正寺は火災や震災にも合わず現在にいたり、慶安二年(1649)の家光以来歴代将軍の二十石の朱印状が残されている。
*2:「里やまのくらし 13 川島」参照。