第6巻【近世・近代・現代編】- 第6章:くらし
広報に掲載された嵐山町の伝説
町の今昔
ケツあぶり
長島喜平
ケツあぶりというと少々上品でない感じがするが、そうかといって、この地方では昔から捨てがたい行事となっている。
『嵐山町報道』186号「町の今昔」 1968年(昭和43)7月30日
六月一日または七月一日に、嵐山町では、大蔵、根岸、将軍沢と鎌形の植木山の地方に、なお本県では八高線に沿った西部山麓一帯で行われてきた。
これは当日庭先や家へ入るカイドなどで、小麦のバカを燃して、家族のものや隣のものと尻をあぶるのである。
どうもこのことは、何のためにするのか、はっきりしないが、秩父方面で多く行われる虫送りや吉田町の小川百八灯、熊谷の高城神社の胎内くぐりなどに少しは共通するところがありそうである。
それは尻をあぶることにより、体の中の病気を追いだし、これにより半年を無事にということであるし、また稲作に虫がつかないようにということでもあろう。
また土地の人はこう言う
田村将軍様が岩殿山で大蛇を退治するとき大雪が降り、丁度六月のことなので、小麦のバカを燃してあたたまり、それが行事となって今でも続いているのだという。
このことについて、岩殿山の寺伝には、「坂上将軍東征の時、この観音の堂前に通夜し悪竜を射たをせしことあり。頃しも六月の始め金をとかす炎暑たちまち指を落すの寒気起り、積雪尺余に至りしかば、人々庭火を焼て雪中の寒気をさらし、いま近郷六月一日、家ごとに庭火を焼くは其の時の名残なりと伝々……」とある。
私は子供のころ聞いたところでは、殆んどこの寺伝と同じである。
平安のはじめ、桓武天皇は坂上田村麿を征夷大将軍に任じ、東国の 蝦夷征伐に向わせた。時に延暦二〇年(紀元八〇一年)のことである。将軍がこの土地に到着したとき、岩殿山の奥深いところに、一匹の大蛇が住み、土地の人々をな やましているということを聞きこれを退治して、村人を苦しみから救ってやろうと、九十九峰四十八谷といわれる岩殿山へ入ったが、大蛇の居どころは一向にわからない。そこで将軍は岩殿の千手観音にお参りし、是非とも大蛇征伐に観音様にお力をお借りしたいと祈った。
ところが翌朝(六月一日)夏山の岩殿が、すっかり雪におおわれ六月であるのに、ひどい寒さとなったので、土地の人々は将軍と兵士たちに、小麦のバカを燃してあたらせたという。
将軍は、これこそ観音様のお力と、お礼をのべに山に行くと、谷間に雪がとけて地肌の表れているところがあるので、怪しいと思って近ずいてみると、そこには大木を倒したような大蛇が横たわっていた。
将軍は兵士と力を合せ、その大蛇を退治するとき、将軍の放った矢が大蛇にあたると、空は一天にわかにかき曇り、風を呼び嵐がおこって、立木はばたばた倒れたがまもなく嵐がやむと、すっかり晴渡り、先程の大蛇は、のたうって死んでいったという。
その大蛇の首は、岩殿の観音堂の傍のなかずの池の島に埋めたとかいう。
寺伝では悪竜といい私は大蛇と聞いたが、いずれにしても同じことであろう。なおある人は大蛇は実は蛇ではなく、悪者共だと、つけ加えてくれたのは、なにか将軍の伝説イメージが、こわされたような気がする。
更に雪は悪竜のしわざと寺伝はいい、私の伝え聞いたところでは観音様のお力であるという。
いずれにしても伝説は、その土地に住む人々の生活の中から生まれてきたものであるから、つくりかえないで、そっと次へ伝えてゆきたいものだ。
(筆者寄居高校定時制主事)