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第6巻【近世・近代・現代編】- 第6章:くらし

第3節:日記

冨岡寅吉日記

昭和20年(1945)4月


四月一日 日 晴・夕方大雨
根刈り59
本日は三人で根刈りに行った。とても静かなよい日であった
午后少し風が出てきた。
根刈りも今少しで終る。今日は三人で五十九束刈った(た)
今晩隣組常会あり。
大風となる   以上

米軍、沖縄上陸。


四月二日 月 晴
根刈り20
車を引いて行く。坂を登るのは骨だ。根刈りも午前中に終った。
午后四篭で二車掃く
餅つき
根刈りタバ計二百八〇束
昨夜空襲警報あり
明日は、団、分会、青年団で三十三社拝礼   以上


四月三日 火 晴
青年団の三十三社拝礼。神社出発八時十分過ぎ。山方面へ行く。鎌形、田黒、玉川、五明、本郷、別所、桃ノ木、明覚、番匠、一ト市、大蔵神社である
嵐山写真部で大蔵の生徒五名で記念写真を取る
午后は土地で遊ぶ   以上


四月四日 水 雨
雨降りなり
金井宣久の家へ行き、二人で藁細工を一日中てし、足中一足、ぞうり四足つくる
マッチの配給。一戸三ツ


四月五日 木 晴・風が寒い
朝作くりにマッチの配給を配って歩るく。
父、隆次、ひで掘り。
祖父さんと二人で馬小屋の肥出し。
母、小生、まきと三人で田麦の作切り。二番作
一日中風が寒いので早しまひ
明日は入学式である


四月六日 金 曇
青年学校の入学式である。
入学生、男子部四十二名、女子部二十四名なり
九時より開始。校長先生の訓辞あり。吉野文子先生、都幾青へ、内田もよ先生、菅国より菅青へ来る
長島軍曹殿より軍隊の事についてお話をして呉れた。なんとなくなつかしい
午后、田の仕事


四月七日 土 晴
田麦のつぶてに行った。今朝は少し氷ってゐる
午前中に空襲警報あり
午后草刈りかごつくり。六ツふちをまくばいに仕上げた
今日も寒い日であった   以上


四月八日 日 晴
草刈りかごの底を組む。二ツ
馬小屋をなをす。
草刈りかごのふちまき。全部で八ツ。上唐子へ二ツ。子供用五ツ、腰をおこしてつくり上げる
植木山へ新聞持ちに行ったがなかった
父、翼壮の事について村役場へ


四月九日 月 曇
子供の草刈りかごをつくる。祖父さんは将軍沢の方へ使に行く
五ツつくり野本へ二ツ、将軍沢忍田忠次郎へ草刈りかご三ツ
午后草刈りかごのたてを割る
父青鳥の広場へ


四月十日 火 雨
草刈りかごの縦を割る
そこを組む 十二
腰をおこす
将軍沢の福島賢治宅へ草刈りかご四ツ
夕方迄に十二廻しを入れる
父、母、まき、山仕事。
守平お客に来る。
一日中雨降り   以上


四月十一日 水 晴
草刈りかごのふちまき
午前中に十二まき終る。守平帰る
午后大風が出た
子供用の草刈りかごのたてを割る
夕方七ツ底を組む
青校より手紙が来る
十六日吉野先生の告別式*1。全員参加   以上

*1:転任・退職などの際、別れを告げる儀式をも「告別式」と言ったことがある(『岩波国語辞典』第四版)。


四月十二日 木 晴
召集日
四、五年の召集日なり
八時三〇分に学科を始めた
約一時間やると警戒となり空襲となる。授業中止で家へ帰る。解除になり出かけると又警戒となり帰ってきたら小沢君が迎えにきて、菅谷の丸通へ勤労奉仕。吉野と小生、士官学校の荷物運搬の手伝ひ*1
樋口一等兵殿をおぼえる

*1:[資料]
 士教演乙第八四号
   演習実施期間再変更ノ件照会
  昭和二十年三月二十三日          陸軍士官学校幹事 印
   菅谷村長殿
当校(教授部)生徒現地戦術演習実施ニ関シ三月十九日士教演乙第八三号ヲ以テ通牒シタル期間更ニ左ノ通リ変更致シ度ニ付便宜取計ハレ度
  左記
 自五月十日至五月十九日 十日間ヲ
 自四月十四日至四月二十三日 十日間ニ変更ス
追而準備並ニ残仕来ノ関係上要物件ハ自四月十一日至四月二十四日頃ノ間借用致シ度ニ付申添フ


四月十三日 金 晴
草刈りかご子供用のふちまき
九時頃警戒警報あり。伝令として第二*1へ行く
十時十五分解除となる
午后も警戒ありしも伝令に行かぬ。ラヂヲを聞いてゐた
ミソコシを三ツ作くり始めた。今晩夜計(夜警)なり   以上

*1:談)鎌形植木山にあった第二駐在所。この頃は警官は駐在していなかったが、警察電話があった。


四月十四日 土 晴
祭典
青年団の入団式あり。七時にラッパを吹く
九時近くなって始まる
入団者九名、女三名、計十一(ママ)名の入団者あり
金井宣久君と一日たのしく遊ぶ
河原の土手で寝ころんだり号令調製をやる
大蔵神社の祭典である
銀供出代一円四六銭   以上


四月十五日 日 晴
ミソコシ作くり
南瓜の種子を播く。
今日もしづかでよい日である。少し南風があって仕事がしづらい。将軍沢忍田福三氏へ草刈りかご四ツ
新聞配達を夕方した。
ミソコシ七つできる。
明日は告別式あり   以上


四月十六日 月 晴
菅谷青年学校の独立開校記念日である
式が十時頃始まる。終りて吉野先生の告別式あり
記念撮映(影)もやる。男百一〇名。男女別。
午后田仕事。三人で。父、柴田方。
一日、いい(結い)がへしに


四月十七日 火 晴
午前中、隆次の共同作業で子供に父はきき運搬
将軍沢より。四十四束。
母、まきと小生二番つぶて、二番作切り
大仕事ができる
午后子供組がきたので早く打ち終り。三番作、二時頃より三人で。新田の方を切ってしまう。   以上


四月十八日 水 晴
目かいつくり。七ツ出来上がる
半ザル。底八寸五分、高さ六寸、口径一尺一寸五分の奴を二ツ
父、母、まき、午前中山仕
午后田麦の三番作   以上


四月十九日 木 曇
召集日
父、柴田方へ仕事に行く。祖父さんはかごや
小生、召集日。午前中学科。第一時修公、第二時普学、四、五農業実習
空襲警報あり
午后教練   以上


四月二〇日 金 晴・雨
午前中小生まき割り
父、馬糧の配給受けに行く。代十二円三〇銭。油粕六円三〇、大豆粕六円。
まき、松山へ春祈トに行く
午后草刈りかごつくり。一ツ。
上唐子より粉二〆。井田嘉平方より一〆五匁
午后雨降り。
タバコの配給


四月廿一日 土 晴
草刈りかごつくり。
九ツ。今日のはたてがしっかりしてゐる。
金井廣吉方へ二ツ、野村忠平方へ二ツ、上唐子荻野音吉方へ一ツ。
父、一日仕事を休んでゐた。
明日は道普請。むしろ、叺代拾二円はらう   以上


四月廿二日 日 晴
朝づくりにまき割り。
大字の道普請へ父が行く。山王前の桑原へ堆肥を出す。五車
桑園の手入れ、午后は五人でする。油面も終った。   以上


四月廿三日 月 晴
馬糧切り。堀さらいへ父が行く
桑園の中耕。庭畠、坊ノ上四号畠もする。午前中でこれだけ
午后一号畠も終る
嵐山写真部へ行く。染屋へも行く
吉野君の家へも寄って見る。異常なし   以上


四月廿四日 火 晴
今朝はとてもゆっくり起きた。目かいつくり五ツ。二ツ力をさす
背のひくい奴を一ツつくる。三目位の高サ。三十二枚ひね
ビクのそこをつくる三ツ
父母は山仕事を一日する   以上


四月廿五日 水 晴
ビク作くり。始めの奴ハ大変ふくらんでしまった。二度目の奴ハ上が細くなった
松根を川島へ運こぶ。父とまきで。小生早昼飯で米の配給を受けに行く。三円十七銭
三ツ目のビクはだいたい上とする。金井屋へビク一ツ七円。今日は風邪もなく静かだった   以上


四月廿六日 木 曇
四年、五年の召集日なり。午前中普通学科。数学約二時間。塀つくり、四五年一しょ
明日の行軍の話と持参品の整理をする。
長島水車へ押麦を持ちに行く
岸又治方より甘藷六〆   以上


四月廿七日 金 曇
昨夜来の雨も今朝は止んでいた。青年学校の行軍である
七時出発。玉川で休ミ番匠より六粁行軍をやる。瀬戸で休む。女子ハ場馬より二ツ岩の方へは入る。弘法山で休む。十一時出発。越生より泉井へ。国民校にて休む。鎌形八幡宮で休む。


四月廿八日 土 晴
昨日の行軍が少し身体にきいて今朝は寝過ぎた。
煤煤掃きである。とてもよい日だ。半日で終る
長島水車へ押麦を持ちに行った
菅谷へ電球を取り換へにも行く。今日より六〇ショクである   以上


四月廿九日 日 晴
天長節
青年学校で式をする。教官殿の話あり
神戸へ千人針の絵を頼みに行く。ビクつくり一ツ
山岸良之助君出征
馬蹄鉄す


四月卅日 月 晴
朝の中は曇ってゐた。ビクのふちまき一ツ。草刈り籠のたてを割る
空襲警報あり
国民登録あり*1
かご七ツくみ上げる   以上

*1:五月一日を以て国民登録が施行された。

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