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第6巻【近世・近代・現代編】- 第6章:くらし

第3節:日記

冨岡寅吉日記

昭和18年(1943)3月


三月一日 月曜 曇
朝作くりにかごを組んだ 二枚。
朝食後仕事を始めた。
十一時頃吉野君がきて呉れた。
二人で一しょに初午に行った。
大変なにぎわひだ。進明堂で小説を一冊求めた。
半日愉快に遊んだ   以上


三月二日 火曜 曇
朝食して松山へ使に行った。
色々の品を買った。ハサミ、サルマタ、ボウシ、風呂敷等求めた
父は堆肥だー。自分はかご作くり。今日でくみ終った。
草刈りかご作くり。
今夜はラヂヲ特報也。   以上


三月三日 水曜 晴
かご作くり。朝作くりにかごのふちを折った。一つ。父は松山へ馬の事で
全部ふちを折った。
午後かごのふちまき。その練習をした。4できた。
夕方将軍沢へ持って行った。   以上。


三月四日 木曜 晴
今日もかごやの見習ひだ。
朝作くりに将軍沢へ目かいを二つ以て行った。
蚕かごのふちまき(淵巻)である。中々無頭かしいものだ。ふせまき。それが○○なのだ。
良之助様も○○だそうだ。   以上。


三月五日 金曜 晴
昨日と同じ仕事だ。かごを一枚くむ。
午近くなって畠山の博ろうの兵隊がきた。父は山仕事。
くまでなをしもした。かごの横をへいだりした。うまくいかぬのが常である   以上


三月六日 土曜 晴
新聞配達少し遅かった。教練召集日である。急いで支度をして行った。染粉を三ビン求めた。駆足をみつしりした。機械体操、競技等も行った。約二時間半
午后小川行き。国民校講堂にて浦和聯隊区司令部より鈴木中佐殿がお見得になった。活動写真もあった。   以上


三月七日 日曜 晴
今日は蚕かご組みである。朝食前に一枚くんだ。馬の鍛練もあった。
半日に全部くみ終った。将軍沢の秋山氏
蚕かご持ちにきた。
午后ふちまき。
十二枚ばかりまいた。   以上


三月八日 月曜 晴
蚕かごのふちまきをした。早くまき終った。一ト市の中田屋へ行った。腕抜きはできてゐた。五〇銭。シャッツを又頼んだ。
竹割りもした。中々うまく行かん。夕方組んだ。
七ツできた。   以上


三月九日 火曜 晴
もろこしばうき作くりをした。
うまく行く。
午前に七ツできた。
午后二ツ作くって終りとした。
大澤右平さん死んだ*1。六十五才也。
かごくみをした。中々うまくゆかんわい   以上

*1:大澤右平、一八七九(明治一二)年六月生まれ。


三月十日 水曜 晴
遠山へ勤労奉仕。その支度をして向かった。
枝まるき。その枝下ろし。栗原方である。午后鋸引きをした。
平沢に山火事有り。大した事無
夜国民校に慰安映画あり。見に行った。じつによかった。   以上


三月十一日 木曜 晴
朝めし前ふち折りをした。
朝食後も同じ。少しはうまく行く。父母は田仕事。毎日々々風である。祖父さんはふち巻き。昼休みに上唐子石川国太郎方へかご三ツ、吉沢方へ二ツ持って行った。藤縄敏治君の帰還を迎えた。山下茂方へ二ツ。   以上


三月十二日 金曜 晴
昨日は野良仕事である。父と本人(陣)畠を耕った。良い日になりそうだ。
坊ノ上の畠も耕い休み、昼食をして又した。
馬鈴薯植えをした。
種子を全部うゑた。祖父さんはかごや。将軍沢へ印篭、草刈りかご。
北の方に火事があった。   以上


三月十三日 土曜 晴
教練召集日。縄を二十八ボ持って行った。銃剣術の基本動作をした。仮俵刺突。
教練半日。午后学林の木の枝切を行ひ、枝まるき、切りつめ等した。今度の召集日は十五日午后学科である。   以上


三月十四日 日曜 晴
昨夜月の輪の篭屋さんがきたので今日は神戸へかごやに行った。
自分は唐[子へ]かごを持って行き、菅谷の方へ使に廻った。馬小屋の肥出し。父と守、田のつぶてぶち。父母、自、守、隆五人だ。午后母の常会向徳寺にて。午后も田仕事。明日学校也。


三月十五日 月曜 晴
祖父さんと神戸へ行った。田のつぶてぶち、六畝はかたい。昨日にまけぬ良い日だ。しづかである。七畝の田も始めた。
午后学科、修身公民科の考査をした。むづかしい問題ばかりである。
   以上


三月十六日 火曜 晴・大風
大かまやかまとを持って行った
祖父さんは神戸へ。父とつぶてぶちに行った。早く終り作く切りをした。母と三人で六畝をした。
午后大田を切った。とても切りよい。麦をふんだ。大風となり耕地から向かいが見えないほこりとなった。


三月十七日 水曜 晴
新田の作く切り。六畝は切りにくい。
七畝は切りよい。
午后国民学校に県支部事務局長綾川武治先生の講演を聞きに行った。一時開始ノ予定三時となった。三時間に渡る強講演であった。   以上

人参の種配給三十銭


三月十八日 木曜 晴
祖父さんは神戸へ。父と田仕事へ。
大麦のつぶてぶち。かたくて仕事がはかどらん。休み頃より母もきた。
大麦の田も終って夕方新田を少し始めた。   以上


三月十九日 金曜 晴
田仕事へ行った。大田のつぶてぶち。大変こわれがよい。祖父は神戸へ
朝から暖い。仕事がはかどる。
夕方新田へ移った。七畝を始めた。大田よりかたい。   以上


三月二十日 土曜 曇
高等二年生は坂戸の飛行場見学に行った。自分は松山へ使に行った。求める品は非常に多い。玉川へも使に行った。シャツはできてゐない。雨が降った。
午后学科職業科考査。簡単であった。   以上


三月二十一日 日曜 小雨
雨降り天気である。新聞配達であった。供出用の甘薯(種いも)を穴よりだした。四俵作くった。十三貫(フウグルミ*1)。父は下里の家へ墓参りに行った。自分は兄弟三人で川へ遊びに行った。魚を大変ついてきた。   以上

*1:俵装も含めた重さ。


三月二十二日 月曜 曇
甘薯を四俵車につんだ。後押しをして行った。
関根指導員の出征を送るのである。十時半校庭で送別の式をした。
十一時四十六分発にて出征した。遠山水車へ廻ってスマを借りてきた(一俵)。まき割り少しした。   以上


三月二十三日 火曜 曇
父と小倉山へ行った。正三さん、叔父さんと四人で仕事をした。
良い日にならぬ。まき引きをした。鋸が切れる。
四十五ハまるった。夜は水車へ泊ってしまった。


三月二十四日 水曜 雨
昨夜は車へ泊った。遠山の道ぶしんにでた。トンネルの方へ行った。
早く終った。
昼食して山仕事に行った。雨降りとなり早じまひをした。
明日斉藤國平君の再出征*1である。

*1:大蔵斉藤國平、東部七部隊応召。


三月二十五日 木曜 
長島水車へ米を一俵以て行く。
かごやの手伝ひ。目かい作くり。底を編んだ。十枚の予定。斉藤國平君の出征を見送くった。
〇時四十六分発である。又目かい編み。全部で十枚であった。父は遠山水車へ山仕事である。   以上


三月二十六日 金曜 晴
受 大野君
長島水車へ米持ちに行った。
自転車で山へ行った。良い日になりそうだ。まき引きである。
昼休みにまるった。四十パあった。
午后早終まいで一ト市の中田へ寄ってきた。不意であった。
明日卒業式


三月二十七日 土曜 曇
松山へ使に行った。色々と様をしてきた。午前国民校の卒業式。午后青校の卒業式。一時より高学年の銃剣術の試合が始まった。約三時間かゝった。
卒業式修了式始まった。本科二年の総代とでた。
発 大野角蔵


三月二十八日 日曜 雨
雨である。
祖父と目かい作くりをした。
全部で九個できた。
そのふちを巻いた。約半日
守と父は遠山水車へ行く。
夕方子守と化した。   以上


三月二十九日 月曜 晴
嵐山駅へ行った。チツキを頼んだが早過ぎた。明日送るわけ。
菜切り箕作くりである。中々うまくできない。どうしても口がせまくなる。貯金を払い下げた。
全部で七つ編んだ。   以上


三月三十日 火曜 曇
嵐山駅にてチツキを頼む。金井、新藤両君大宮へ発す*1
菜切り箕作くりをした。
でき上がって持って行った。神戸でかごを頼まれた。木二ツ、草二ツである。午后甘藷ふかしのかごをつくった。根岸へナキリミなどもって行く

*1:談)弟守平の同級生。金井正治、新藤岩治。


三月三十一日 水曜 雨
今朝五時四十六分嵐山駅発の上りにて守平は出発した*1。父送くって行く。
自分は駅まで。かごやの練習。草刈りかご、木掃きかご二ツヅツでき上る。夕方雨となった。   以上

*1:横須賀市池上町海軍工廠池上第一工員寄宿舎第一〇二寮十九号室。

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