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第6巻【近世・近代・現代編】- 第6章:くらし

第3節:日記

冨岡寅吉日記

昭和17年(1942)9月


九月一日 火曜 晴
草がないのでたて下だけで*1帰ってきた。父は今日も河原へ行った。
西原へ小豆もぎに行った。良く赤るんだ。祖父さんは目かい作くり。
小豆もぎをした。半日に終らない。午后玉もろこしの木を切ってきて馬に呉れた。
小豆もぎ、乾草を二貫出した。
根岸へ目かい四つ出た。金井猶次郎方へ一つ。
二百十日も無事に済んだ。   以上

*1:談)草刈り籠が一杯になるとさらにを立てて草を籠に入れるが、草が少ないのでそこまで刈れなかった。

歯科医田幡順一より青年学校喇叭購入金として百円寄贈される(菅谷小学校『学校沿革誌』)。


九月二日 水曜 曇・半晴
今朝は草がほきてゐた。早く刈れた。父は今日は河原の仕事に行った。祖父さんはかごや。母と小豆もぎをした。
曇り模様である。
大変になってゐる。
午后は晴れてきた。昼休みにたうもろこしのから木を切ってきて馬に呉れた。小豆もぎをした。松山へ使に行った。求める品は切れてゐた。   以上


九月三日 木曜 晴
昨日の朝の所で草を刈った。
今日から八日迄教練である。
八時に始めた。
不動の姿勢や行進基本体操をした。午前中一回休んだ。
助役殿の話もあった。
午后神社の森へ行って敬礼をした。
五時頃終った。閲兵分列をした。
明日も同じこと。   以上
[受信]山下三郎


九月四日 金曜 曇
三めど迄草を刈った。
急いで支度をして学校に向かった。
未だ早かった。吉野大尉殿がお見えになった。
不動の姿勢は大変注意された。
手リュウ弾なげも同じ。
くもってゐるので昨日より涼しい。
午前中一度休んだ。
午后も一度休んだ。実に猛訓練である。
閲兵を吉野大尉殿へした。終ったので五時過ぎであった。   以上


九月五日 土曜 小雨
草刈りを休んだ。雨が降ってゐる。麦からとせんていばさみを持って行った。
一時間教練をしてゐると、唐子の学校生徒の*1七郷の生徒とが菅谷学校へきた。
学校別の閲兵、各個教練をした。
雨が降り出した。自分等は不動の姿勢、挙手の礼、室内の礼等をした。
速足行進もした。
終ってから分列をした。
樫の木の枝はぎり   以上

*1:と


九月六日 日曜 曇
根岸の向こうの土手で草刈りをした。
少し雨模様であった。
松山へ戦闘帽買いに行った。
五円十五銭
午后遊んだがつまらなかった。
魚を六匹つった。
明日も教練である。   以上
[豫記]てまり。


九月七日 月曜 晴
ゆっくりして起きた。約一時間早かった。
八時前に集合した。千代田大尉殿がお見えになった。七郷、唐子もきた。
査閲の予行演習が始まった。二年は不動の姿勢、敬礼、行進の三種して早く終った。三年のひざうち、銃剣術の形、昼に廻った。
土のう運搬、けん引等、菅谷は成績が良かった。
午后は閲兵分列をした。分列は三度もした。コウ評、不動の姿勢で眼直視する。敬礼、「受礼者あっての敬礼である。」受礼者に注目する。
四時過ぎて終った。   以上
[豫記]大日本帝国 軍艦加賀[落書]


九月八日 火曜 晴
おそくなって起きた。急いで支度をして自転車で学校へ行った。一時間早かった。
吉野大尉殿がお見えになった。八時に集合した。
大詔奉戴日である。校長先生の訓話があった。とても暑くて気持が悪かった。
不動の姿勢、何時もと同じ事をした。関根指導員が一、二年を集めて学科質問をした。大方答へられた。半日で終った。
遠山水車へめんをもちに行った。
二拾本 富岡茂八方のを三拾本持ってきた。
良い天気であった。   以上


九月九日 水曜 晴
昨日の朝よりも早く学校に着いた。
七郷、唐子の学校生徒も来た。査閲官殿がお見えになるわけだが約時間かおくれてきた。
明日の予行演習をした。
昨日の朝よりは暑くなかった。
基本体操が終って競技があた。けん引は菅谷が一番であった。俵運は三であったらう。
昼に廻った。服そうをなほした。
麻こぎ、皮むきをした。   以上


九月十日 木曜 晴
早く起きて蚕に桑くれれ*1した。
早く学校へ行った。査閲官殿*2と浦和レン隊区指令官*3がお見えになった。師団長閣下、県下査閲官殿がお見えになった。十二名。
不動の姿勢、敬礼、速足行進で早く終った。
昼に廻ってから終った。
麻の皮むき。   以上
菅谷青年学校、七郷青年学校、唐子青年学校の指導査閲

*1:桑くれを。
*2:藤田亮三中佐(「青年学校手帳」の記入による)。
*3:浦和聯隊区司令官。
「比企三ケ村の査閲 比企郡菅谷、七郷、唐子三ケ村青年学校教練特別訓練査閲は十日午前八時半から菅谷青年学校庭で行はれた 臨席官として師団長豊島房太郎中将、原副官ほか兵務部員数名、東京聯隊区から鳥海大佐、横須賀聯隊区から後藤少将ほか部員数名、浦和聯隊区より藤田少将ほか査閲官全員が臨席、県からは大津知事始め福森青年教育官、郡下町村長、学校長、有志多数が出席、受閲生徒は三ケ村四百廿名査閲官藤田賚三中佐の指揮で閲兵にはじまり十時半全員の閲兵分列、試問、訓辞その他があって正午終了、午後一時からは県下査閲の基本研究会が開かれた」(『東京日々新聞』埼玉版九月十一日)


九月十一日 金曜 晴
新聞配達を終した。
麻の皮ほしたり大豆を庭へ立てた。
皮むき
西原の畠より麻をこいできた。
昼となった。風があるので涼しい。
午后も皮むき。
今日はむき終る。六時頃より菜畠へ行ってしん喰ひ虫を取った。
大変くわれた。
父は馬運動。祖父さんはかごや。
ちり紙十一銭   以上


九月十二日 土曜 半晴
家の田の廻りで草を刈った。田に水を引いてきた。水の流れが悪い。
蚕をえん台に出した。
桑を呉れて十時休みをした。物置だけだした。午前中にだし終った。
午后は馬小屋より肥をだして甘藷苗床のあとへ積んだ。雨がぽつりと降ったが止んだ。大変つめた。
昨夜は柴田方で「魂の魚雷*1」の放送劇を聞いた。
野村忠平(ただへい)方のたうもろこしのからをもらってきってきた。   以上

*1:九月十一日午後八時から九時の番組。放送劇「魂の魚雷」小杉義男外△ヴァイオリン独奏。


九月十三日 日曜 晴・雨
境の近所の土手で草を刈った昨日の朝より早く帰ってこられた。
朝食して菅谷へ使に行った。米の配給を受けてきた。
粉は一明日出来る。菓子の配給は明日である。
其の前に根岸へ竹持ちに行った。
又肥つみを始めた。終らぬ中に雨が降りだした。
昼食してとばをつんだ肥の上にあげた。
みそこしをあんだ。   以上


九月十四日 月曜 晴
耕地で草刈りをした。割合に早く刈れた。くわくれをした。
少し腹具合が悪い。
父は組合の縄ない機械でなわないをした。
祖父さんは籠作くり。
草刈りかごのふち折りをした。
昼寝を二時間ばかりした。
菅谷へ使に行った。生石灰と菓子を買ってきた。シャツも一つ買った。
たうもろこしのから木を切って馬糧とした。
夕方玉川へシャツ買ひに行き大澤商店で二着買った。   以上


九月十五日 火曜 雨
今朝は草刈りに行かない。其の中に雨が降ってきた。学校生徒の行軍はだめだらう。
組合の機械でなわないをした。今日は助手に行った。
午前中に二タバと半なった。
昼休みに青年団の寄合があった。
十七日午前八時より嵐山(あらしやま)のトロ*1で体力章検定中の水泳を行ふ。
十月になって旅行を行ふ。
後なわない。   以上

*1:談)杉田水車のあったところ。


九月十六日 水曜 晴
耕地で草刈りをした。今朝も割合早く刈れた。
籠屋の見習ひを始めた。半ざわる*1作くりである。
祖父さんに底をくんでもらい、腰*2をおこしてもらった。
三つつくった。あまりうもくできない。
菅谷の組合で粉ができ祖父さんがもちに行った。
桑呉れ、桑摘みをした。
明日は水泳の体力検定である。
うもく*3行く予定。
青年団の薬集金。   以上

*1:半ざる。笊の深さが浅いもの。
*2:竹製品の底から胴への部分。底から放射状になったヒゴを段々と立てて曲げる作業を「腰立て」という。
*3:うまく。


九月十七日 木曜 曇
草刈りには行かない。今日は(体力章検定中の)特種検定で水泳が挙行される。
距離泳の者から先へ始めた。
曇ってゐて涼しい。
時間泳は午后だ。昼休みに吉野、西澤、富岡の三名でボートに乗った。吉野は上手にこげる。
時間泳で一分三〇秒泳いだらもうつかれた。努力がたらない。もっと猛練習を要す。
四時頃終った。遠山水車よりめんも二十本、茂八方のを二十本持ってきた。   以上
体力章検定特種検定水泳挙行*1
[豫記]明日は寅吉の

*1:体力章検定は一九三九(昭和十四)年から実施されたが、この年より新たに水泳が検定の種目に加えられた(泳げる場所が確保できる地域だけの随意種目)。距離泳は三百メートルの距離を泳げるかどうか。これに時間泳または泳速が実施された。


九月十八日 金曜 半晴
蚕に桑をくれた。山王前の畠へ行って一籠祖母さんと摘んだ。
朝食して前の畠でも摘む。
山王前でも摘んだ。桑も呉れた。
父は藁すぐり、野村方へなわのないちんを七拾銭もって行く。
岡本正三方へ半ざるを持って行った。
今日は一円二十銭出、同じく入る。
魚入れびくのふた作くりをした。少しは良いがまだまだ努力せよ。
教練召集日は来月の第一土曜日である。
今日は寅吉のタンゼウ日である。   以上


九月十九日 土曜 雨
桑呉れだ。
桑摘みだ。父さんは草刈りだ。
朝食してかご作くりをした。
みそこしを一つつくった。野村忠平方へ売った。
次に半ざるを作くった。
祖父さんに立とひね*1を割ってもらった。
二つ分割ってもらい、編み上げた。雨となり、夜は風もまじった。
祖父さんはかごみ作くり。
喜作さんの百箇日。   以上

*1:ヒゴ。幅の広いものをヒネ、狭いものをヒゴと呼ぶ場合もある。


九月二十日 日曜 晴
父と森は草刈りに行った。自分は桑呉れだ。
朝作くりに桑摘みをした。朝の中は雨だが朝食がすむと雨も止んだ。だが雲がある。午前中はみっしり桑摘みをした。
雨もちらついた。
祖父さんは籠箕作くり。
午后は航空日なので飛行機が飛び出した。
菅谷村へはこなかった。新しい保険の集金にきた。一ケ月壹円参拾銭、貳拾年かけて貳百九拾壹円貳拾銭   以上
[豫記]今日航空日


九月二十一日 月曜 半晴風
毎朝蚕の桑呉れだ。
今朝も曇天である。大平山の上へはニジが出てゐた。
桑摘みをした。
其の中に風が吹き出した。雲はどんどんと北へ行く。大風となった。
昨日に比べると飛行機の音も聴える。
昼休みに西原へ大豆こぎに行った。一車引いてきた。
山下伝次郎方で桑を買った。原の畠で買った。
夕方迄畠にゐた。三拾四貫五百〆あった。
祖父さんは菅谷の関根商店へ籠箕を持って行く。   以上


九月二十二日 火曜 半雨
桑呉れをした。
雲ってゐる。
山下伝次郎方の桑を六拾貫の上今日は買った。
雨も降った。
風が吹く   以上


九月二十三日 水曜 曇後晴
父は草刈りに行った。蚕の桑呉れをした。雲ってゐる。
前の畠で桑摘みをした。雨も降ったが止んだ。日も出てきた。暑くなった。
蚕の為にも良い。
午后からは蚕の上蔟に取りかゝった。
どしどしとひきり出した。
まだひきりのゐるのに終りとした。
七十四まぶし上蔟できた。
国民学校児童夜学。   以上


九月二十四日 木曜 晴
父と守平と三人で根岸の小澤君の裏で草を刈った。
早く刈れた。
昨日半分蚕も上蔟した。
今日は早くから全部上がる。
九時二十五分に終った。百二十七まぶし上蔟した。まだしっこがゐる。
午后は蚕砂片付け。   以上


九月二十五日 金曜 晴
昨日の朝草を刈った向かいで草を刈った。
割合に早く刈れた。
朝食をして長島水車へ大麦を二俵持って行った。鎌形の家へ寄ってきた。蚕も上蔟してゐた。色々と御チソウになってきた。
坊の上の畠へ行って玉もろこしのから木をこいだりもろこしの葉下としをした。
昼食
湯かいこみ。少し曇り勝の天気だ。
遠山水車へ機械麺持ちに行った。五拾本持ってきた。
大根の間引き。終ると日も暮れた。   以上


九月二十六日 土曜 曇
根岸の下の土手で草を刈った。
雲ってゐる。
理昌方の蚕の上蔟である。其の手伝ひに行った。
良い成績である。
午前中に終った。休んで後片づけをした。早く終った。母は鎌形の家へ墓参りに行った。
玉川の大澤商店でパンツ四、クツ下二つ買ってきた。
雨となった。   以上


九月二十七日 日曜 晴
唐子河原へ草刈りに行った。とてもあった。よしの良いのが大変刈れた。
背負縄が切れた。上かさをしてきた。
菅谷の家へ使に行った。時計のがらすを取りかえた。十銭
坊の上の畠のもろこし根をこいだ。守平と二人で。桑こぎをした。
鶏小屋を作くる所、富岡作次さんがきた。
父は俵作くり。籠屋、祖父
とり小屋の杭を四本立てた。四尺五寸縦、六尺五寸横の面積である。


九月二十八日 月曜 晴
昨日の朝より涼しい。向かふ河原で草を刈った。父より遅く帰ってきた。
朝食して鶏舎作くりをした。
廻りのとばを編み始めた。
春蚕の助成金来る。
昼休みに松山へ使に行った。図(飛行機)はない。インキを求む 拾銭。
又廻りを始めた。もろこしのから木を西東へおっつけた。
車の叔父がちょっと寄った。
今夜は千手堂の関根喜三方に籠屋職人の寄合がある。   以上


九月二十九日 火曜 半晴
耕地へ草刈りに行った。草のないのにはあきれた。稲の成績は大分良い。
もち稲は本から倒れてゐる。一時間もおそくなって帰ってきた。
長島水車へ押麦持ちに行った。
二俵はでき切ってゐなかった。
鶏舎の戸作くりをした。昼休みに又押麦もちに行った。
山王前畠の陸稲刈りをした。割合に良く出来た。
坊の上の前畠も刈った。刈り終った。
父は根岸宇平方へお客に呼ばわれた。   以上


九月三十日 水曜 半晴
神戸の方へ行って草を刈った。よしの良いのを刈った。雨が少しちらついた。でも明るいから天気も大丈夫そうだ。
鶏舎作くりで出来上がった。鶏のくるのが待ち遠しい。
繭かきである。虫のよかった割に貫が抜けぬ*1。これではいけないがしょうがない。
十一時何分かに警戒警報が発令された。
夕方、巡査殿が廻ってきた。オヲヒがかけてない為、家(自分)ばかりでなく大蔵がだいたい油紙をしてゐた。これではいかぬ。以後、大なる注意を要す。   以上

*1:目方がない。

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