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第6巻【近世・近代・現代編】- 第6章:くらし

第3節:日記

冨岡寅吉日記

昭和16年(1941)11月


十一月一日 土曜 晴
畠 夜間召集 早起会始る
畠耕ひ。今日より青年団の早起会*1が始まった。夜間召集、下田、長島先生

*1:1941年5月に向徳寺住職より時宗宗務院宛に出された「社会事業経営報告書」には1912年(大正元)年4月15日に創立された「男女青少年団修養会」として「農繁騎ヲ除キ毎月一回」、組織は「男十四才ヨリ満三十才マデ 女十四才ヨリ結婚マデ」、現況として「男女会員四十三名毎年十一月中は早天参拝午前四時起床実行」とある。


十一月二日 日曜 晴

早起き会に行ってお茶をわかした。西原に畠耕ひに行った。午前中耕ひ切り後を整地した。午后砂利を引くのでその支度をして河原に行った。一車引き馬を利用した。四車合計十八パコ


十一月三日 月曜 晴
馬で砂利、砂を引く
午前七時より教練が始まった。約二時間に亙った。九時には明治節の式典をした。終りて国民体操をした。午后玉川村一ト市に行って服を持って来た。以上


十一月四日 火曜 晴

前の方の畠の甘藷堀りをした。一本の苗に一本位しかなって居ない。夜間召集である。(服部先生)


十一月五日 水曜 晴

昨日の畠の甘藷堀りをした。夕方早終ひで夜間学科に行った。(下田先生。校長先生。)


十一月六日 木曜 曇

村田君が来た。早起き会に出頭した。甘藷床さらいをした。一日中甘藷堀り。夜間学科。

午前八時より菅谷国民学校校庭で菅谷村警防団査閲実施。


十一月七日 金曜 晴

朝は風があり寒気がさした。午前八時より学科があった。長島先生、服部先生より二時間あった。午后甘藷堀りをした。


十一月八日 土曜 曇

甘藷堀にも半日で終った。午后甘藷の切干しを切った。ラッカセイ、芋等を掘った。以上 受信柴田美作

学生勤労奉仕隊*1来る。

*1:「農家は奉仕隊を大歓迎 比企中等校勤労 比企郡農会では去る七、八日の両日郡下男女中等学校生徒の増産勤労奉仕に生徒並に農家の感想を募集次期勤労への効果達成の資料としたが、農家側は全面的に感謝と労力不足克服への強力なる労働部隊として大歓迎であり、生徒感想には食糧生産への労力と忍苦□□による感銘が大部分を占め、また農作勤労に対し農家側が単なる日雇勤労の態度を以て臨むが如きことあることも指摘し、これが是正要望もあった」(『東京日日新聞』埼玉版 昭和16年12月5日)


十一月九日 日曜 半晴
麦の播種
前畠に畦を作り大麦を播種した。金肥料を約六貫目ほどこした。サンノウ前に四貫くれた。(午后)休み迄に終った。夕方整地した。 受信富岡作次


十一月十日 月曜 曇
麦まき
小麦二十七号を畠へ播種した。肥料引きや押したりした。夜間学科。下田・長島先生。


十一月十一日 火曜 半晴
麦播種
半日稲刈りをしてもちだけ刈った。午后西原に麦を播種した。落花生もとった。畦作りをした。陸は終(あと)三畝で終るのである。


十一月十二日 水曜 晴
稲刈
今日は晴天だ。陸畠の麦蒔きも終って田の稲刈りに行った。近江を刈った。夜間学科。


十一月十三日 木曜 雨
朝から雨だ。夜間召集にはちゃうちんを持って行った。夜は大雨だ。朝少し雨が降った。


十一月十四日 金曜 晴
桑畠
朝少し雨が降った。父は松山に指導員の事で行った。午后桑しばりをした。読方の考査があった。


十一月十五日 土曜 晴
竹切り
今日も父は松山行き*1である。
祖父さんと鎌形へ砂運び竹切りに行って一日切った。枝はらいをして手が痛い。夜間学科 杉山先生。 羊毛

*1:この日は、比企郡保護馬鍛錬会が松山箭弓グラウンドで行なわれた。

菅谷村常会開催。


十一月十六日 日曜 晴
竹引き
祖父さんと、鎌形の長島さんの家*1へ竹引きに行った。束まるきである。竹をそいでまるった。合計四十二束 〔二〇ガラ(十五本〜二〇本マルキ)十束〕一円二〇銭、一円八〇銭〕出た。二〇束、薮よりかつき出した。夕方八束引いて来た。以上

*1:長島一郎方。


十一月十七日 月曜 晴
朝から良天気である。
祖父さんと竹引きをした。肥料配給。特殊化成肥料、大日本一六過燐酸、臨時配合肥料四号甲、ショウ石、硫安、麻の実。千代田化成肥料、等配給になった。


十一月十八日 火曜 雨
学科査閲
祖父さんと鎌形より竹を二車運んだ。十時休みをして稲刈りに行った。午后支度をして学校に行った。時計屋*1に依った。停車場通りの家へも行った。三時より学科査閲である。夜は少し休んだ。

*1:菅谷の内田時計店。


十一月十九日 水曜 晴
夜間召集


十一月二十日 木曜 晴
夜間召集


十一月二十一日 金曜 曇
夜間召集


十一月二十二日 土曜 雨
稲の脱穀
朝から雨だ。父と稲の脱穀をした。午后油の配給持ち*1に行った。松山にも使に行った。豆電気を買った。七〇銭

*1:食用油配給(7、8、9月分)が菅谷関根清一商店であった。


十一月二十三日 日曜 晴

父と昨日脱穀した稲を篩った。早く終り藁くびりをした。守とそれを山に運んだ。もう山も栗毛色になった。天気は薄曇である。風は少しあったが午后休んだ。田のぶっさくりをした。桑畠のほっくり返しもした。

菅谷神社新嘗祭。


十一月二十四日 月曜 曇

毎日同じ様に天気が悪ひ。教練召集日である。午前七時会始である。もう始まって居た。不動の姿勢や挙手の礼等があった。午后は畠の堀くり返しをした。今日は万能にたかってやりづらい。以上


十一月二十五日 火曜 曇
午后畠
早起会には雨が止んで居た。朝食頃は小雨であった。祖父さんが目かいを作る手伝ひをした。午后目かい、目籠の運搬をした。庭畠の桑しばりをした。明日は青年学校召集日。


十一月二十六日 水曜 晴
査閲の予行演習
今日は教練の査閲予行演習である。八時迄に学校に行った。午后宮前学校に向かった。道はとても悪くひどかった。校庭は二段になって居た。不動ノ姿勢、行進をした。分列などもした。夕方はかなり寒を感じた。


十一月二十七日 木曜 晴
昭和十六年度教練科査閲
五時に起床した。いそいで支度をして村田君の家へ行った。十一月とは行っても未だ寒くない。(菅谷校出発)宮前校〃庭に集合した。査閲官殿を迎えた。本科一年は良好と言われた。十三時頃終り十四時半頃菅谷校庭に帰校した。以上


十一月二十八日 金曜 曇
醤油しぼり
毎日同じ様な天気である。早朝より毛呂の醤油しぼり殿が来て下さった。その手伝ひをした。父ともみを唐箕であほったりした。午后藁片づけや俵をこしらへてサン俵をゆい漬けた*1。今夜はトウカン夜である。

*1:藁を円形に編んだものを俵の上下に蓋をするために付ける。


十一月二十九日 土曜 曇
田 入営兵送別会
朝食して田に行った。見ると掛稲の馬が良くたふれて居た。六畝の田のぶっさくりをした。十一時頃終って刈干しの稲をかえした。午后二時頃菅谷校に向かった。今日は入営兵士の送別会である。笛を吹いたが良く出来なかった。以上


十一月三十日 日曜 曇


十一月ももう今日限りとなった。後一月でお正月である。未だ麦蒔きも終らない。耕地に行って六畝の田に種を下し堆肥を散らした。午后稲かえしをした。山下さんの田にも蒔いた。ブンヅウの種も蒔いた。夕方は大部良い天気となった。以上

郷社八幡神社新嘗祭。

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