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第6巻【近世・近代・現代編】- 第6章:くらし

第3節:日記

冨岡寅吉日記

昭和16年(1941)12月


十二月一日 月曜 晴
未だ麦蒔きも終らない。田に行き稲上げをした。午后稲上げをした。馬でつけたりした。車でも引いた。下唐子の左官屋様が来て下された。以上

防火デー施行。


十二月二日 火曜 晴
早朝より上天気である。朝は大霜である。河原に行き砂を持って来た。金井久子さん*1が手伝ひに来た。午后富岡タマさん*2がきて下さった。三時より入営兵士の送別会があるので神社に行った。山下君、柴田君の二名*3である。午后七時に終った。以上

*1:金井廣吉の娘。
*2:富岡喜作妻。
*3:山下一(五学年上)と柴田恭平。

市ノ川改修工事起工式。


十二月三日 水曜 曇
今日も金井久子さんと富岡たまさんの二名が手伝いに来てくれた。リヤカーをかりて肥引き等した。稲上げ。午后稲を上げて作を切って種を下した。土かけはとてもらくであった。久子さんは半日で帰った。空は曇って居て雨が降りそうだ。


十二月四日 木曜 曇
夕べは雨が降った。だが今朝は曇ってゐた。田麦蒔きの種は下しきった。今日は土かけである。家人中三人で振りかけた。正午頃畠山の馬苦労さんが来て呉れた。(五百円)午后父は鉄のつめかいに行った。後七畝位で終る。

菅谷村区長会。


十二月五日 金曜 半晴
馬の健康検査
今日は軍用保護馬健康検査である。父は早朝より支度をして松山のグランドへ行った*1。麦の土かけをした。六畝の田は鳥に大部拾われた。午后少しして蒔切りとなった。掛稲や刈干の稲上げをした。今日は風も朝から吹いてチリ飛ばし等。

*1:午前七時三十分より松山町箭弓グランドで軍用保護馬健康検査実施。


十二月六日 土曜 晴
今日は掛稲の材料片づけである。早く行って稲束まるきをした。午前中で片づけるのは終った。母は麦田のかゝし案山子をつけた。午后菜取りをした。とても良いのがあった。大根引きもした。竹切りの手伝ひもした。以上

玉川村葬執行。


十二月七日 日曜 晴
祖父さんと昨日切った竹を持ちに行った。九タバ出来た。(一タバ一円四〇銭)富岡茂八方ヨリ、山下昭夫君方ヨリ竹六タバ(二円)で買った。向徳寺ヨリ猛宗竹四本(一円)喜作方より土臼をかりて米をひいた。小澤角太郎方へツキ*1にたのんだ。

*1:米搗き。精米。

菅谷村区長農事実行組合長協議会。


十二月八日 月曜 晴
午前十一時五十八分英米ニ対シ戦線ヲ布告ス*1
今日は甘藷の乾燥の出荷日である。父と車を引いて嵐山駅に行った。石油を五合買った。二〇銭であった。小澤角太郎さん方で米をついてもらった。籠を二つ藤縄さん方へ打った。四円五〇銭。十一時頃稲の脱穀をした。午后二時頃監視哨の呼集があった。以上

*1:宣戦布告。
「一、午前十一時米国英国ニ対シ宣戦布告ノ詔書渙発。二、防空監視哨午前時配備完了。三、午前十一時十五分防空令接信[小川警察署長より防空実施開始命令を受ける]。四、午後五時警戒警報発令。 ◎コノ日午前十一時渙発ノ報告ハ正午ヨリ放送アリ。今日ノ感激ハ村民否国民ノ不滅ニ記念スベキナリ。」(菅谷村役場『昭和十六年度 当宿直日誌』)


十二月九日 火曜 曇
朝の中は曇って居た。今日は晴天にはなりそうもない。柴田恭平君は入営するのである。藁運びをして午后稲脱穀を始めた。菅谷へ木ノ葉籠を持って行った。田島重太郎*1。濱野小十*2。字内に一つ。二円。夜は灯火管制である。以上

*1:菅谷の屋根職。
*2:菅谷の木挽き。

入営兵出発。現役志賀水野喜二・鎌形小林光三・大蔵柴田恭平東部第八部隊、現役小林近造東部第十六部隊。


十二月十日 水曜 曇
朝の中は曇天であったが、雨が降って来た。今日は稲の脱穀である。今日はセン一だけは終るだらう。今日は栽桑講習のわけであるがツ合上行げない。三時休み迄に十パのこして終り。夕方藁ニウかけを始めた。祖父さんは籠作りである。以上


【十二月十一日 木曜 晴 ★頁なし】


【十二月十二日 金曜 晴 ★頁なし】


十二月十三日 土曜 晴
教練召集日 農休み
朝はとても寒い。戦線の大詔を校長先生が奉読した。鬼鎮神社に行き、武運長久を祈った。千手堂河原で戦闘演習をした。午前中限であった。合成酒の配給があった。麦の作切りをした。以上

午後一時より宣戦の詔書奉戴臨時菅谷村常会開催。


十二月十四日 日曜 晴
農休み
朝食して松山へ行ったが買いたい物がなかった。針金を買って来た。百〆(二十五銭)弓を作って見た。午后遊びに出た。新藤文太郎、金井宣久、大澤知助君等が僕の家へ来た。皇軍ショウギをした。以上


十二月十五日 月曜 雪
農休み 金井梅次様方御不幸*1
四時頃起きて庭の物を取りこんだ。朝になって見ると雪である。今日が初雪だ。学校生徒はさぞつらい事だらう。家で「青校」を読んで居た。隆次君と皇軍将基をして見た。隆次も強くなった。金井梅次様方の御不幸である。夜は星がサンサンと輝りかゞやいた。

*1:金井卯之治。1867年(慶応3)生まれ。

郷社八幡神社に於いて宣戦奉告戦勝祈願祭執行。


十二月十六日 火曜 晴
臨時農休み
庭は一面の雪だ。支度をして稲の脱穀に取りかゝった。半日した。午后配給品の分配である。家へは数ノ子。佃煮。セッケン。半紙。手袋。等が分配された。今日も農休みである。下の方へ行って遊んだ。新藤文太郎君等と遊んだ。以上

菅谷神社に於いて戦勝祈願祭執行。


十二月十七日 水曜 晴
朝は晴天である。稲の脱穀の支度をしたが山下庫次郎さん*1が来て魚取りに行く事にした。八時頃川に行った。弁当持参で行った。昼食を嵐山で喰べた。遠山のトッ着き迄行って一貫匁余あって半分わけてもらった。稲の脱穀は終った。未だ麦も生える。

*1:山下和十郎の父。


十二月十八日 木曜 晴
父監視哨勤務
父は監視哨勤務乃為早朝ヨリ支度をして場所に出家った。自分は鎌形水車に荷車を引いて行った。四十五銭。母と稲の塵飛ばしをした。藁くびり等もした。植木山の長島さんの家へ籠を持って行った。午后田に行き麦の作切りをした。


十二月十九日 金曜 晴
大霜である。庭のくび片づけをした。畠の藁運びをして居る中に庭もとけた。干物を出して田に作切りに行った。昨日の続が切り終ると家へ来た。もう一時であった。昼食して又田に行った。夕方早くしまって干物のもみを取り込んだ。明日は召集日。


十二月二十日 土曜 曇
召集日
教練召集日だ。新藤君の家へ行った。内田武夫君*1も来た。今日の出席率はとても悪かった。総員四〇名現在員十九名。菅谷校を出発して時計店の前より駆け始めた。そして松山箭弓神社迄駆けた。参拝して帰り石橋を通った。午后田に行き作切りをした。

*1:内田敏夫。一学年上。

大政翼賛会埼玉県支部主催大詔奉戴必勝推進員大会が大宮公園球場で開催される。


十二月二十一日 日曜 曇
庭には霜が降りたが小霜だ。田の作切りである。今日は終るかどうか。祖父三は柴田藤五郎方より通常鍬*1をかりて来て切った。午后も行った。空は薄曇であったが良く曇った。田の作切りは終った。父は馬運動に出た。以上

*1:談)さく切り鍬か。


十二月二十二日 月曜 曇
新聞配達である。夕べより降り続いた雨が未だ降って居た。将軍沢の吉沢君が持って来た。雨や止んで自転車で配達して廻った。父と稲の押農*1をして唐箕で煽った。馬小屋の肥出しをした。藁にうがけをした。

*1:収納。


十二月二十三日 火曜 晴
山下傳次郎さんをたのんで籾すり
晴天だ。干物を出した。菅谷へ使に行って来た。菓子の配給*1を受けて来た。前畠の堀返しをした。終りて油面(子字)の畠も終して昼食した。畠の作切りをした。山下傳次郎さんが来て呉れて稲の籾すりをした。以上

*1:昭和十六年十二月廿日
菅谷村役場
各区長殿
菓子配給方依頼通知ノ件
標記ノ件小川食料品組合菓子部ヨリ依頼通知有之候条各家庭ニ回達□成度此段及御通知候也

一、配給月日 十二月二十二日ヨリ十二月二十六日マデ 五日間
一、一人当 金拾銭宛
一、配給場所 菅谷岡松屋
一、配給残品アルトキハ二十七日ヨリ自由配給ヲ為ス 以上


十二月二十四日 水曜 晴
父監視哨勤務
山下庫次郎さんと魚取りに行くのである。支度をして家へ行って二瀬よりをひ上げた*1。今日はだんと取れなかった。どんどん上って小倉迄行き玉川村和田に出て下った。普通位はあったろう。根岸の小澤角太郎方へ米を持ちに行った。以上

*1:追い上げた。

宮前村葬執行。


十二月二十五日 木曜 晴
金井廣吉さん方へいへ*1返へしに行くので支度をして一所に畠へ行った。桑原の堀返へしである。とても楽であった。午后も同じ事。祖父さんは成澤力造様方へ籠作りに行った。以上

*1:ゆい。

菅谷村年末臨時村常会開催。


十二月二十六日 金曜 雨
寝て居る中にに雨の降る音がした。朝食して草履作りをした。守と二人で物置きでした。昼前に二足作くった。未だ下手だ。午后半分作くった。湯かいこみをした。根岸へもち米持ちに行った。


十二月二十七日 土曜 晴
今日は郡下横断駅伝競争*1である。唐子に行き帰って来て小澤、岡本、根岸君*21等と松山に行きセン手の後援をした。菅谷は四番であったが二番になり終点は六番となった。祖父さんと向徳寺より竹引きをした。

*1:比企郡下青年学校対抗駅伝競走。『東京日日新聞』埼玉版(昭和16年12月28日)には次の記事がある。
「玉川村に栄冠 比企郡青校六十キロ継走 比企郡体協主催、郡下青年校六十キロ継走大会は廿七日午前十時伊草村国民校起点に菅谷、小川、大川[ママ 大河]を経て松山町箭弓神社決勝点で挙行され、参加十四校百十二名番外参加、松中一組八名の百廿名は高原の寒風を衝いて青年の意気も高からに力走、午後一時三分第一着玉川(最終走者青年校五年大野周三君)組がゴールに入り一分廿秒を経て松山組がこれに次ぎ一組の棄権なくゴールに入り、高山体協会長より優勝組玉川に箭弓神社寄贈の優勝神旗の授与あって同二時終了した。成績左の通り 一位玉川(三時間三分)、二位松山、三位大河、四位七郷、五位菅谷、番外参加松中は最終走者中島登志雄君(五年生)で青年校一位に二分遅れてゴール入りをした。参加青年校は玉川、竹沢、唐子、南吉見、松山、大河、伊草、七郷、高坂、福田、菅谷、小見野、中山、小川、番外松中」
*2:小澤長介、岡本七五三、根岸秋治。同学年。


十二月二十八日 日曜 晴
祖父さんは将軍沢へ行く
酒の配給*1である。冨岡軍造方のをたのまれて全部で三升持って来た。一升二円十九銭であった。前の山の木の葉はきをした。午后将軍沢の奥へ行って木の葉をはいて来て菅谷の精米所へ粉持ちに行って来た。以上

*1:昭和十六年十二月廿六日 菅谷村長岩澤弥市
大字区長殿
新春用清酒配給ニ関スル件
首題ノ件ニ関シ別紙配給券交付候条区域内各戸ヘ御配付方願上候尚期日配給所等ハ左記表ノ通ニ候ヘバ御諒承被下度右及御願候也

一、配給期日 十二月廿八日 自午前九時至午後四時ノ間
一、配給場所 千手堂関根國太郎商店
期日ニハ必ズ現品御引取完了セラレル様申添ヘ候


十二月二十九日 月曜 晴
大霜だ。庭。畠。屋根。皆真白である。父と将軍沢の向ふ山へ木の葉はきに行った。霜でひどかった。半日で家へ来て午后桑園の堀返しをした。今少しで終る。明日は父監視哨勤務である。以上


十二月三十日 火曜 晴
父監視哨勤務
夕べの風で庭の霜は大変に少い。風が冷たい。早朝食し喜作さん家へ籾摺りの手伝ひに行くので支度をしてすぐ行った。金井元吉方の機械で約一時間半した。(十五俵)後片づけもした。今日は正月の持ちつきである。以上


十二月三十一日 水曜 晴
山下の叔父さんが来た。今日は魚取りに行くのである。九時頃川に行き何時もの所を上った。嵐山の下では三百匁も取れた。夕方おそくまで居た。たいへんに取れた。以上
よいか今年のしめくゝり 以上

昭和十六年十二月廿九日 菅谷村長岩澤弥市
各寺院(教会)殿
除夜ノ撞鐘ニ関スル件
時期国防上除夜ノ鐘及此レニ類スル音響等ニ関シテハ防空警(通)報ト混同スル怖レアルヲ以テ此レカ撞鐘ヲ禁止サレ候ニ付慣例アル寺院(教会)ニ有リテハ右事項諒知ノ上壇信徒及関係者等ヘ可然御布達有之候□令ニ依リ此段及通牒候也

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