ページの先頭

第6巻【近世・近代・現代編】- 第6章:くらし

第3節:日記

冨岡寅吉日記

昭和16年(1941)10月


十月一日 水曜 雨
半分蚕の上蔟
今日は蚕の上蔟である。もう良くひきってゐる。しまだ作りの手伝ひをした。午前中で終った。成澤君の家へ行った。青年学校の本をかりた。


十月二日 木曜 晴・大風
今朝は朝日焼けであった。でも天気は大丈夫らしい。今日も蚕の上蔟である。午前中に終る予定だ。午頃、大風が起こった。午後松山に行ってシャツ、パンツを買って来た。(四円以上)こくそ片づけ。


十月三日 金曜 晴
体力證検定予行演習
朝から学校だ。村田君の家へ行った。幾人かで学校に行った。別に様はないのであった。〇時半より会始した。走幅飛(三米二十六)、百米(17・6秒)懸垂(七回)手[榴]弾(二十三米)の結果であった。終は大部暗くなってしまった。


十月四日 土曜 曇
工事
今日は工事に行った。ランプ箱*1等運んだ。穴の中にセメントをつめるのである。自分は水運び*2である。午後も同じで夕方早く終った。明日は十五夜なりけり

*1:チアスター箱。本来はランプ油の缶を入れる箱。砂利等の運搬に使う。
*2:談)セメントをこねるための水。


十月五日 日曜 晴
工事(一人)
月田橋の工事
十五夜である。

菅谷国民学校で乳幼児体力審査(1940年年4月1日より1941年6月30日までに生まれた者)実施(受診児童111人。結果は、良30人、普通32人、要注意49人)。


十月六日 月曜 晴
一日工事
会計一金五円六拾銭也
夜は高田憲太郎へ行った*1。三〇銭

*1:談)玉川村の二本木座の芝居見物。

菅谷村一戸一口増加簡易保険打合会・区長会開催。


十月七日 火曜 晴
体力證検定 馬の運動
朝の中は雨が降ってゐて検定*1はだめらしい。でも学校に行くともう支度がしてあった。予行演習の日とダイタイ同じであった。振替用紙をもらった。

*1:菅谷国民学校校庭で松山部会・菅谷部会の体力章検定指導講習会・模範検定会実施。


十月八日 水曜 曇
工事
月田橋の工事へ行った。未だ早かった。栗の実を拾った。瀬ざらいであった。午后セメント計りをした。牛が自動車を引いた。始めて見た事実である。

福田村葬執行。


十月九日 木曜 晴・風
兎をかけた。二回 工事
月田橋三号の工事場へ行った。鉄線籠こわしであった。こ廻り*1にしたので三時頃終った。斉藤の家で兎をかけてもらった。以上

*1:談)こまわり。指定された作業を分担して、早く出来ればそこで仕事をお終いにできる。


十月十日 金曜 晴
今日は朝より快い天気であった。川の瀬さらいである。川の中に入るのも少し冷くなった。一日瀬さらいをした。明日は青年団の競技会である。


十月十一日 土曜 晴天
青年団の競技会
青年団の競技会である。支度をして友達の家へ行った。七時半の予定だが一時間もおそく始めた。第五分団*1が一等であった。四分団二等。三分団三等、二分団四等、一分団五等であった。十月十一日前振替をたのんだ。九十銭也

*1:談)青年団の分団は、第1分団(菅谷)、第2分団(川島・志賀)、第3分団(平沢・千手堂・遠山)、第4分団(鎌形)、第5分団(大蔵・根岸・将軍沢)だった。


十月十二日 日曜 晴
工事一人
月田橋工事場へ行った。父は監視消へ出勤した。石拾ひであった。ウナギが出た。午后ジャ籠をつぶした。以上

防空演習開始。


十月十三日 月曜 曇
工事
朝少し雨が降って居た。工事に行くともう吉川さん*1が来て居た。根岸三号の工事場である。土を片づけて平にした。鉄線籠を片づけてスッコ*2で砂利をさらった。以上

*1:工事を請け負っていた関中組の監督。
*2:スコップ。

鎌形八幡神社例祭。


十月十四日 火曜 半晴
工事一人
今朝も雨が降った。みの傘で工事へ行った。線路をすゑ着けた。夕方雨が降り出し工事は早く終った。馬を買入れた。内金五円也


十月十五日 水曜 晴
昨夜回文が廻って来た。今日は教練召集日である。午前八時に学校に行った。今度の召集日は二十二日〇時、二十五日午前八時より午前中。である。夕方小雨が降り出した。以上


十月十六日 木曜 晴
工事トロ押し、一日 合計十二円七十四銭也
今日は工事だ。朝からとろ押しをした。野村宇平君*1と一所に押した。ぐ合のよいとろである。会計十二円七十四銭也であった。夜上唐子のしばい見に行った。三〇銭

*1:四学年上。


十月十七日 金曜 半晴
肥料の配給
朝から肥料持ちである。菅谷信用組合の倉庫に行った。新藤武治さんの妻さんと二車(ふたっくるま)持って来た。「硫酸アンモニア。大日本一六過燐酸。臨時配合肥料四号乙。エッサン。石灰窒素。豆粕。ほしか。」等の肥料配給。

菅谷神社例祭。神嘗祭に付、全国民午前十時に一斉に伊勢神宮遥拝の指示あり。七郷村民体育大会挙行。


十月十八日 土曜 雨
工事五分
根岸三号の工事場へ行った。今日もトロ押しである。半日に十台位しか押さなかった。野村君と一しょにした。午后は家へ来た。金井治平様方で陸稲をついてもらった。九斗で一円三十五銭である。

靖国神社臨時大祭。全国民、天皇親拝に合わせ午前十時十五分黙祷の指示あり。


十月十九日 日曜 晴
工事一人
新聞配達だ。早く起きて支度をした。一時間も待つと忍田政治君が来た。四十五部配達した。根岸三号の工事場に行った。今日もトロ押しである。始めの中はばつたをした*1。野村君と一所にした。午后は人数も多くふゑた。以上

*1:談)車輪がレールからはずれる。脱線。

古里兵執神社秋季例祭執行。


十月二十日 月曜 晴
工事一人
朝から晴れて居て気持ちの良い日である。根岸三号の工事場へ行った。今日もトロ押しである。忍田君と一所に押した。トロの具合がとても良い。一日仕事をして夜は観音様*1の境内で行われた映画を拝見した。以上

*1:根岸の観音様。


十月二十一日 火曜 晴・風
御九日
御九日である。朝作りに菅谷の家へ使に行った。朝食してキリンをかりに行って来た。家で笛を吹いた。午后川で魚突きに行って水の中へつっぱいってしまった*1。柴田恭平君と空気銃を持って遊びに行った。

*1:談)ジャカゴの間にいる魚を突きに行って川におっこってしまった。

大蔵神社大祭。


十月二十二日 水曜 曇
故中島久六郎伍長・故内田熊太郎二等兵両君の村葬*1
早朝めしで祖父さんと鎌形の長島一郎さんの家へ竹切りに行った。(四寸一束、五寸二束、六寸、七寸、友に*2一束。)を車に積んで家へ運んだ。杉も五本買った。正后学校に行って左記の二名の村葬があった。家の廻りの片づけをした。竹一束 一円八〇銭也。杉五本 五円也。

*1:午後1時より菅谷国民学校校庭で仏式で、故陸軍伍長中島久六郎・故陸軍二等兵内田熊太郎菅谷村葬執行。
*2:共に。


十月二十三日 木曜 晴
大蔵橋工事に出席
祖父さんと鎌形へ杉の木を持ちに行った。むかいが来た。今日は橋かけの用意をするのである。学校林に松の木を引きに行った。午后は松枝を引きに行って十五タバ持って来た。父は監視哨。


十月二十四日 金曜 晴

朝作りに甘藷のつるを切った。朝食して桑の株の間にコンニャクの玉を植ゑる支度をした。八時頃父は監視哨より帰家した。西原の畠に堆肥出しをした。午前中五車引いた。前畠へも五車小荷で運んで、休んで畠を耕し始めた。以上 受信清水岩三


十月二十五日 土曜 晴
召集日 畠
午前八時ヨリ教練召集日である。村田君と学校に向った。査閲の練習を半日した。午后堀さらいをした。母と前畠を耕した。夕方馬運動。

防空訓練終了。


十月二十六日 日曜 晴

朝の中は雨が降ってゐた。手帳を買ったりして記入した。九時頃畠耕ひに行った。一人で少し耕った。母と一しょにした。午后守も畠に出て堆肥入れをした。今日はとても能率が上った。馬の手入れ。以上

大蔵で秋季清潔法施行。


十月二十七日 月曜 晴
畠 夜間召集
今日も畠耕いである。三人で畠に行った。風があってとても涼しい。午后も同じ所をした。夕方早くしまって馬の手入れをした。今夜は夜間召集である。午后七時(十九時)である。以上(杉山先生、校長先生)


十月二十八日 火曜 晴
畠 夜間召集 下田先生
畠耕ひ。前畠ののこってゐるところを耕った。午后休みをしてサンノウ前の桑をこいだ。後の畠を耕った。夜間召集日である。(下田先生)以上


十月二十九日 水曜 晴
夜間召集
父はお役で大蔵橋の工事へ出頭した。母と畠を整地した。午后遠山の水車へ麺*1を持ちに行き五〇本*2持って来た。夜間召集である。(服部先生)

*1:ほしうどん。
*2:談)本は束。一束が百匁だったと思う。

タイヤ配給実施。

この日の『東京日日新聞』埼玉版の記事。「お嬢さんの改札掛 東上線に嵐山駅 国民皆労の興亜精神に燃えるお嬢さん達が東上線改札口に現はれ同線初の女子駅員として颯爽と改札口にほゝゑましい朗景を描いてゐる、廿八日朝武蔵嵐山駅勤務の畑初音さん(一七)は川越駅に十日ばかり前に採用され一通りの訓練を終へて事務見習に配置されハイカー連の乗降多い同駅でテキパキと改札や□□一列励行の指導に好い駅員となってゐる」


十月三十日 木曜 晴
畠 夜間召集
畠耕ひである。ヤクシ様であった。

菅谷村常会開催。


十月三十一日 金曜 晴
畠 夜間召集日
畠耕いである。

このページの先頭へ ▲