第6巻【近世・近代・現代編】- 第6章:くらし
冨岡寅吉日記
七月一日 火曜 晴
馬耕
大蔵河原の中で草刈りをした。一所に八人であった。今日は馬耕である。鼻取りをした。馬は昨日の□で良く働いた。新田である。(六畝中)(七畝中)(三畝中)(一畝外)午后車へめんを持ちに行った。
7月10日まで10日間、大蔵向徳寺で農繁季節保育所開設(田植期)。
七月二日 水曜 晴
脱穀
起きると時季にに山下傳次郎さんが来て呉れた。今日は小麦の脱穀である。前六時頃始めた。二時間して休んだ(三〇分)昼休み四十分。隠居の家より四人。午后三時半に終った。(八時間十五分)麦からを物置に積んだ。父は柴田藤五郎さん方へ以上
七月三日 木曜 曇
脱穀
早く起きた。隠居の中の麦の脱穀である。三時間して休んだ。後二時間して昼となった。午后二時間位した。束運搬をした。約(七時間と十五分)正期の時計は三時半。前の畠のカッパ抜きをした。田の水がかったので*1田かきに行った。二枚荒かき*2をした。以上
*1:談)田の水がいっぱいになったので。
*2:田植えの前の最初の田掻。
七月四日 金曜 晴
田植始る
朝作りに田のくろをつけた。新田の堀さらいもあった。朝食して上代*1をかいた。二枚上げて近江*2の苗取りをした。二枚に植ゑた。柴田藤五郎さん方のきぬさん*3が来た。柴田さん方の田のあらくれをした。三かわと二かわ、家の田も三枚した。(一日きぬさん。半日りとさん*4。)以上 受信柴田美作氏
*1:上代(あげしろ)…田植え前の最後の田掻(たかき)。
*2:稲の品種。
*3:柴田藤五郎妻。
*4:藤縄りと。きぬの母。
七月五日 土曜 晴・一時曇
早朝より田に行った。暑の為頭痛を起し家に帰った。田に行き、鼻取りを少々して家で休んだ。隆次も身体不良。母も暑気の為休み。柴田様方より四人来た。午后田に行かずに寝て起きたりした。学校は始まる。(半日。きぬ、りと、とら*1、あきさん*2。四名 午后藤五郎さん方。)三人行く
*1:藤縄とら。きぬの妹。
*2:柴田あき。きぬの娘。筆者より二学年上。
七月六日 日曜 晴・後曇
朝寝坊をした。体不良の為、田に行かない。昼前は家に母と一所に居た。午后母は田に行った。守が鼻取りをした。干物をかえした。夕方休み頃田に行き大田を半分以上植ゑた。小麦俵(外九俵半)(良二俵)(藤五郎、きぬ、あきさん。一日)
七月七日 月曜 晴
田植
道の端で草刈りをした。朝作りにくろつけをした。車から田植に来た。本家からも来た。一反五畝位植ゑた。午后少し馬の鼻取りをした田植ゑをした。以上(柴田方、二人、午后三人)(車二人)
七月八日 火曜 曇
水車の二人は家にとまった。今日は田植は終るらしい。午前中苗取りをしたり植ゑたりした。午后馬の鼻取りをした。苗代の稲を皆むしった。六時頃終った。早終である。夕方小麦を俵にした。小麦俵(八俵)(遠山水車二人、昨日より。もと、みち)
七月九日 水曜 曇
農士学校前の河原に草刈りに行った。祖父さんに助けてもらった。三人で草刈りをした。朝食して父と馬小屋の肥出しをした。午前前畠の甘藷の切掛けをした。草むしりもした。夜活動を見に旧校庭に行った。
七月十日 木曜 曇
朝は少し雨が落ちて居た。祖父さんと草刈りに行った。朝食して縄ないをした。一ぼと十ヒロなった。甘藷の草むしりをした。午后いもあらいをした。祖父さんは畠山に行った。山下明さんに召集令下る*1。
*1:東部七三部隊応召。
七月十一日 金曜 雨
大雨であった。草刈りに行かない。藁をすぐってしまだ作りを始めた。本家に行って遊んだり子守りしたりした。午后一箇作り上がった。一山編みかけた。夕方雨は止んだ。明日は学校。
七月十二日 土曜 雨
起きると、今日も雨が降って居た。青年学校の召集日である。支度をして学校に行った。未だ早い。新井署長殿*1の訓話が約一時間半あった。各々所持品を見せた。午前中、伏射をした。午后初雁先生が学科。
*1:小川警察署長。
七月十三日 日曜 曇
川の水も大部ふいた。根岸の土手で草刈りをした。しまだ編みを少しした。顔を祖父さんにそってもらった。午后青年団の桑原掃除である。ラッパが鳴って畠に行った。茶菓子三十銭分呉れた。甘藷の切掛。(大蔵青年団〃則団員ニシテ未青年者ハ煙草ヲスワヌ事*1)
*1:日記帳末の補遺欄によれば大蔵青年団団則は、「団員ニシテ未成年者ハ煙草ヲ吸ハヌ事。役員ニ見ツカリタル者ハ支部ニ一円寄付スル事」となっている。
七月十四日 月曜 曇
天皇様
唐子の土手で草刈りをした。朝食しておかりや作くりに出かけた。林*1をするブタイ作りもした。約半日かゝった。又木も立てた。家の廻りを片づけたりした。午后花こさいや燈ろうはりをした。今夜は天皇様*2である。
*1:囃子。
*2:天王様。
七月十五日 火曜 晴・夜雨
天皇様
何時もより遅く起きた。赤飯をたく火もしをした。庭の掃除もした。松山に行き飛行機のプロペラーを買って来た。(三十六銭)午后天皇様をもんだ。タイコはたきを練習した。
七月十六日 水曜 雨
農休み
今朝はまんぢゅう*1である。父は遠山の水車にとまった。飛行機を飛ばしたりして見た。下の方へ遊びに行った。午后昼寝をした。約一時間、山下君と一所に歩いた。竹本屋で五目をした。(始めて)
*1:談)天王様なので粒あんの重曹を入れてふくらました饅頭を作くった。
七月十七日 木曜 雨
農休み
父と大蔵河原に草刈りに行った。今日も雨だ。午前中しまだ編みをした。一つ作り上げた。飛行機を作り上げた。午後遊びに出かけた。安養寺で皆と遊んだ。花火を上げた。
七月十八日 金曜 曇
耕地に草刈りに行った。雨は止んで居た。柴田アキさんと学校へ桑の皮を持って行った。十貫四百匁桑畠に追肥をした。午后畠に行く時かいが鳴った。御かり屋片づけに行った。西原の陸稲の草むしり等。
七月十九日 土曜 曇
召集日
起きると曇って居た。道端で草刈りをした。柴田恭平さんと学校に行った。もう始まって居た。教室で普通学科の教科書を販売した。教練でネウチ、ヒザウチの姿勢をした。午后服部先生と鎌形校長さんの話。
七月二十日 日曜 雨
大雨だ。草刈りは中止した。御飯をにた。朝食してしまだ編みに移った。一つ編み上げた。午前中二時作り編んだ。午后一つ作り上げてみやを子守りしながらお寺の方*1へ遊びに行った。 受信清水岩三、兼子常吉
*1:談)安養寺だろう。
七月二十一日 月曜 雨
ヤスリ工場へ行を始めた。
新聞配達だ。早く起きて支度をした。今日は早かった。五十四部である。今日から松山の山下ヤスリ工場へ行くので野口由次郎さんの家へ行った。工場の仕事は簡単である。七時半に始り五時半に終った。(休み二時間)産業体操、ラジオ第一、二、三体操をした。
七月二十二日 火曜 雨・午后嵐
起きると又雨だ。井戸水は後一週間で上に出そうだ*1。今日の午后は大嵐*2だそうだ。午前中は何も仕事をしなかった。雨はどんどん降る。午后しまだ編みをした。二つ作り上げた。風が出だして嵐となった。月田橋は急である。 受信富岡作次、吉沢三郎
*1:談)井戸の水位が上がった。
*2:この日の豪雨は各地に水害をもたらした。24日付の『東京日日新聞』埼玉版には次の記事がある。「……比企の惨状 比企郡各河川は連雨による増水に加へて廿二日午後来の猛烈な吹き降りで荒川、越辺、入間、都畿の各河川は急激な増水を見、午後三時には各河川も報告水位を突破、同六時には警戒報告水位に達し濁流は渦を巻いて堤を叩き物凄い相貌を現し松山土木出張所では同七時各河川沿岸町村に氾濫の虞ありと警告を発すると共に郡下警察署と協力、町村警防団をはじめ沿岸民と□□必死の防水作業を行ったが廿三日午前零時頃より各河川の危険は刻々増大し豪雨を冒して水魔と戦ひ防水団の活動は壮絶を極めたが各河川最高水位の午前二時都畿川高坂早俣堤防十米、入間川三保谷釘無堤防五十米は遂に大音響とともに決壊水魔の蹂躙するところとなり川島領六ケ村浸水家屋五百戸、高坂村浸水家屋六十戸を出し……」。
七月二十三日 水曜 曇後晴
起きると雨は止み庭の水も良く引いて居た。野口君の家*1へ行った。松山に行き着いたのが七時二〇分だった。今日も八本けづった。午後休みにせんべいをくれた。家へ来て馬小屋の肥出しをした。
*1:野口由次郎方。1919年(大正8)生まれ。山下ヤスリ工場に務めていた。
七月二十四日 木曜 晴
今日は一人で松山に行った。一時間も早かった。半日で終った。昨日の続きを仕上げた。家へ来て昼食した。今日は小麦の検査である。三時。 俵 等外 俵大麦四等二俵受けた。草むしりをした。 受信吉沢三郎
七月二十五日 金曜 半曇・晴
朝の中は曇って居た。雨も降って来た。青年学校の召集日である。午前八時に始った。研究科の生徒が三人来て号令をかけたり模範を現わした。午后学科で下田、簾藤、初雁の三先生の教授があった。
七月二十六日 土曜 雨
祖父さまと耕地へ草刈りに行った。田に水を引いた。朝食して遠山水車に行った。もっこ作りをした。近所の人も来た。もっこを五つこしらへた。昼食して雨が降って来たので家へ帰って来た。それからは昼寝をして起きた。以後は遊んだ。以上
七月二十七日 日曜 半晴
今朝も草刈りに行った。タテをする時は良くほきて居た。朝食して母と菅谷の発動機(精米所)に米と麦を持って行った。午后湯かいこみをした。小林力ク三さんの家のスミチャンの御サウ式。しまだ編みを始めたら雨ふるかな。 発信吉沢三郎、富岡健治、斉藤三郎、山下三郎、杉山敏行
菅谷村常会開催(議題:武運長久祈願祭ニ関スル件、隣組ソノ他ニ依ル共同作業励行ノ件、臨時清潔法施行ニ関スル件、夏季ニ於ケル不急不生産的団体ソノ他旅行自粛ニ関スル件、初秋蚕増産ニ関シ指導員ニ協力ノ件、国民貯蓄組合法実施ニ関スル件等)。
七月二十八日 月曜 晴
草刈りに行った。草も少なくなった。でも山草をして来た。朝食して乾物出しをした。本人畠*1の甘藷の切掛けをした。午后雨少し降った。大豆の作切りもした。夕方馬の運動、田の水引き等。以上 (受信山岸良之助)
*1:談)本陣畠。鎌形の長島佐吉方(屋号:本陣)から借りていた小作の畠。
八和田国民学校校庭校で八和田・菅谷・七郷村の簡閲点呼実施。
七月二十九日 火曜 曇・一時雨
前の畠の端で草刈りをした。草も大変に少くなった。朝食してしまだ作りをした。雨が少し降った。午后雨も止んで西原に陸稲の作切りに三人で行った終らぬ中に雨が降り出した。休んでしまだ作りをした。 受信山岸良之助 発信大野角蔵、栗原守男、金井仲次郎
七月三十日 水曜 雨
隠居の家から田押し車をかりて来た。父と先植の田を押した。大田を半分すると鐘が鳴り午となった。午后、新田に行った。後五畝位で終るのであるが急用の為、家へ帰った。夜もち作りをした。 発信山岸良之助 受信富岡健治
七月三十一日 木曜 雨後晴
馬の徴発である。前二時に起きて支度をした。前三時に家を出発した。前四時頃唐子を出発。もう明るくなった。午后が馬体検査であった。輓馬であった。かかくは(五百五十円*1)であった。小澤角太郎さん(六百五十円)、遠山水車*2(五百九〇円)以上 五頭
*1:富岡林造。「友号」
*2:兼子六平。