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第6巻【近世・近代・現代編】- 第6章:くらし

第3節:日記

冨岡寅吉日記

昭和16年(1941)4月


四月一日 火曜 晴
籠(主)
父は早く起きて東京に手達*1した。朝食して松の木を引切った。終ってから祖母さんと田の麦の作をきりに行った。午後まき割りをして皆割り切った。餅つきをした。

*1:出立。4月7日より代々木練兵場・馬事公園で興亜馬事大会が開かれ、根岸宇平・内田桑作・小林新平の馬が出場した。


四月二日 水曜 晴
祖父さんと根岸へ竹をかつぎに行った。持って来て将軍沢へ使に行って来て鎌形の家へ行った。明日は本家の礼参り*1である。午前中はしまだ作りをした。午後本家へ行って辻札はりをした*2。しまだ作りをした。

*1:本家の富岡作次の無事帰還の礼参り。
*2:出征兵士の武運長久を願って、「遠州奥山半僧坊大権現祈武運長久出征兵士○○○○」と印刷した短冊状の紙を竹串にはり三本辻に立てることがおこなわれていたが、この場合は帰還の御礼。千本旗。


四月三日 木曜 晴
中島源之、内田定夫の二君が産業の戦仕*1となる為工場に行くのを見送った。家へ来て実行組合の総会に出席した。ちゃうど正午であった。昼食して魚を突きに行って色々の魚を突いて来た。

*1:戦士。


四月四日 金曜 晴・暖イ日
籠(主)
今日は吉沢三郎君が会社*1に出達*2するのを見送った。西*3などが大蔵へ来た。しまだ作りをした。午前五明の叔母さん*4が来た。みやを子守りして斉藤の家へ行った。昼食して又しまだを作り始めた。チンドン屋が通った。父より手紙が来て皆で大笑ひした。発信斉藤三郎 受信東京父より

*1:横須賀海軍工廠。
*2:出立。
*3:西孝三。同級生。
*4:筆者の母の従姉妹。


四月五日 土曜 雨
籠(主)
米ぬかの様な雨が降って居た。道ぶしんは延びである。藁を侵して*1しまだ作りを始めた。休み休みしたのでいくつも出来なかった。ふり将基*2をして遊んだ。隆次につけペンを買ってやったりした。山下君から便りが来た。しまだ作りをした。(丁寧)

*1:浸して。
*2:将棋。


四月六日 日曜 晴後雨
籠(主)
今朝も昨日の様に雨賀落千天伊多。今日毛道無新が出来そうもない。山下君に便りを出した。藁をすぐってしまだ作りをした。昼食して麦を刈りに行って来て小切った。馬料を切った。夕方もしまだ作りをした。発信山下三郎 受信父より


四月七日 月曜 晴・小雨
籠(主) 大口さらい*1
今日の天気は昨日の天気とすっかり反対でからりと晴れ渡って居た。区長さん*2が堀浚ひの事を言ひに来た。清治さん*3と一所に行った。堀の両端はいばた*4が取り囲み土でうづまって居た。ジョレンでほじくった。午後車の後押しをした(五十銭)

*1:鎌形石代の堰から取水している水路の堀さらい。
*2:富岡茂八。
*3:村田清治。
*4:いばら。


四月八日 火曜 晴
籠(主)
昨日のつかれをやゝおちついた。藁をしみした*1。畠に行き麦を刈って来た。しまだ編みをした。馬の飼料の藁を小切ったりした。午後松山に行って来たが教科書はなかった。以上 受信斉藤三郎、吉沢三郎

*1:藁を水でぬらすこと。


四月九日 水曜 雨
籠(主)
空は曇って居た。薄陽(うすび)も漏れたりした。もう父は大宮を出発した頃だらう。しまだ作りもあきてきてしまった。でも一つ出来上がった。みやをのせる車の製造に取りかゝった。輪が一つ割れてしまった。夜父は帰って来て革靴をもらった。受信中島源之

陸軍大学生三笠宮武蔵嵐山駅下車。


四月十日 木曜 曇
入学式 宣誓ヲ読ム
山下、金井、野村、根岸、西の五君は立川に出達した*1。根岸呉服店で戦闘帽を買ったり青年学校服を買った。全部で二十円が十銭欠けた。午後三時学校で入学式が行われた。本科一年の級長となった。夕方暗くまで学校にいた。雨も降る。

*1:山下昭二、金井仲次郎、野村修彦、根岸直次、西孝三の五名。立川飛行機株式会社入社。


四月十一日 金曜 晴
種の播種(ウリ、エンゲン、トウモロコシ)
朝食して菅谷の駅前の叔母さんの家へ行き鍛冶屋に行った。竹割りの中間に行った。家へ来てしまだ作りをした。一つ出来上がった。二つ目も後少しである。午後苗代田を耕ひに行った。馬も一生懸命にした。さつま畠の藁ひきや色々の種を播く。発信内田実

吉田手白神社例祭。


四月十二日 土曜 晴
今日は召集日である。支度をして村田君の家へ行き学校に向かった。八時に集合した。そして行軍の話をした。ゲートルの巻き方や不動の姿勢、敬礼等を教練した。午前はこれで終り、午後長島先生*1から話を聞いたりした。

*1:長島統司。1940年(昭和15)3月〜1942年(昭和17)3月勤務。


四月十三日 日曜 雨後曇
世間には霧がまいて居た。朝食をして菅谷に行った。長屋の鍛冶屋*1に行き松山に行って帽子のキ章をかって来た。いも出しをした。午後田に行き肥ちらしをした。少し雨が降り出し大降りとなった。皆から便りが来た。受信内田実、金井、野村、根岸、山下

*1:唐子村の江森鍛冶屋。

大蔵榛名講金井親治他二名代参。


四月十四日 月曜 雨・曇
青年団の入団式である。支度をして向徳寺に行った。敬老会もあり茶菓が出た。約四時間であった。午後一時玉川の二本木座に活動のあるのを見に行った。高山(こうやま)の家*1の御祝儀であった。大蔵の祭典*2であった。受信吉沢三郎、栗原守男*3

*1:玉川村の親戚。
*2:ハルギトウ(春祈祷)。五穀豊穣を祈る。
*3:同学年。ヂーゼル株式会社勤務。


四月十五日 火曜 晴
起きてこまいかき*1をした。間切れをした*1。九時頃支度をして学校に行った。多時間遊んで始まった。玉ぐしを上げた。家へ来ると正午である。父と麦の間にさといもを植ゑたりして、麦をつけて遠山の水車に行って来た。菅谷の家のソウ式*2

*1:土壁を作るとき、補強のために竹を割ったものを縦横に入れ、細縄でまく。まぎれはその竹をうつこと。
*2:山岸ツメ。1852年(嘉永5)生まれ。


四月十六日 水曜 曇
今朝も小間いかきをした。早朝飯して煤掃きを始めた。八時頃皆出し来た。午前中になから*1終った。とてもきれいになった。昼食して駅前の叔母さんの家へ兎を持って行った。立つ小間への竹を入れた。全部くばり切った。

*1:だいたい。


四月十七日 木曜 晴
籠(主)
小間いかきを始めた。今日は立つのをかくのである。とても手がいたい。して見ると容易でないが面白いもので良く出来た。午后一時頃本家の叔父が来て手伝ってくれた。父は菅谷の根岸宇平さんの家にお客に行った。立つはかき切った。


四月十八日 金曜 曇

今日は青年学校の行軍である。早く起き支度をして校庭に集まった。菅谷発六時三〇分で奈良奈シ*1で休んだ。赤浜*2でも休止した。釜伏山に着いたのが〇・十分頃であった。昼食して下り玉淀にて一時間遊んだ。鉢形より(十七銭)電車に乗って帰って来た。つかれた。

*1:八和田村奈良梨。
*2:男衾村赤浜。


四月十九日 土曜 晴
籠(主)
昨日の痛みも稍なをった。そしてゲートルを巻いた。みやを子守った。父と前の畠のほつくり返しをした。そして鍛冶屋*1の桑畠にも行った。午后父、祖母、守平等と田の大麦の作切りに行った。大麦は皆切り終った。ちゃうど夕方までかゝった。受信山下昭二、松山支部二名 発信斉藤三郎

*1:金井示夫方。

大蔵で春季清潔法実施。


四月二十日 日曜 晴・暑い
起きて馬の湯を湧かしたりした。農の支度をして父と守と畠に行きけづりこみやほつくりかえしをした。十時頃休んで西原に麦の作切りに行てとても腹がへった。午后湯水をくんだ。西畠は終り前の鍛冶屋の麦畠も切り終った。明日は松山に講習があるので行く。受信関口三郎*1

*1:同学年。ヂーゼル株式会社勤務。


四月二十一日 月曜 曇
栽桑講習
今日は栽培桑講習に行くので早起きをした。それはうそである。桑のしばってあるのをほどいた。支度をして自転車で松山養蚕取締所に行った。松本さんと荒籾技師の訓話があり、岩澤さんの話で桑のことがあった。上の家でラヂヲを聞いた。受信栗原友造*1

*1:同学年。


四月二十二日 火曜 雨
籠(主)
支度をして唐子の坂で村田指導員殿*1に合った。松山まで一所に行った。今日も一番早かった。七時三十五分であった。九時に始まり今日は中山技師の訓話があり橦木(つぎき)につき話した。あと一人の日とは蚕品種に就いて説明した。橦木の練習をした。発信栗原友造

*1:青年学校指導員。陸軍伍長。1915年(大正4)生まれ。


四月二十三日 水曜 曇
籠(主)
小雨がちらついて居た。新しい家のこまいかきをした。横をかく*1のは指がいたい。朝食して始めた。雨は降る。それに風がは入ってはだに寒くかんずる。仕事はどしどしとはかどる。父君は俵編みをした。午后は母君と一所にかいた。夕方父もかいた。

*1:こまいかきで横の竹を入れること。


四月二十四日 木曜 晴
籠(主)
学校生徒の遠足だ。守は釜山神社に行ぐのである。まきは吉見の百穴だ。隆次は嵐山だ。自分はたきぎをはこんだ。木間いかきをした。
昼休みに玉川の燈電*1に行って来た。地蔵様*2に行って来た。祖母さんはワラビをとりにいった。受信斉藤三郎

*1:現在の玉川村商工会の場所にあった。
*2:新教地蔵。


四月二十五日 金曜 晴
籠(主)
祖母さんは山にわらびを取りに行った。父と本じん畠にほつくりかえしに行き桑をほどした。わきの高台も終った。十時十五分に黙祷を捧げた。昼食してこまいかきを始めた。大方かき切った。夕方枯枝にふたをした*1

*1:談)雨よけのため。

靖国神社臨時大祭


四月二十六日 土曜 晴
明日新聞配達の回ランが来た。今日は教練である。八時には集合した。全員三十七名である。体操は基本体操をした。脚手頭等十三種である。行進もした。菅谷の市中を走足行進をした。少しつかれた。午后学科は初雁先生と杉山先生の話があった。以上。

福田村葬執行。


四月二十七日 日曜 晴
斉藤の家*1兎をかけてもらった。
新聞配達だ。早く起きて支度をした。忍田政治君*2が新聞を持って来た。東日九部、朝日三十一部都合四十部である。配達する時間はいくらでもない。朝食して少しこまいかきをして守平と二人で馬小屋の肥出しをした。約半日かゝってしまった。午后父と田の作切りをした。

*1:斉藤三郎方。
*2:二学年上。


四月二十八日 月曜 曇
籠(主)
起きてこまいかきをした。もう終った。父君と田の作切りに行った。(なつかしい)学校のチク音機のラッパの音がとても良くきこえる。鐘もなり家に来て昼食した。午后は一人で田に行き堆肥を麦の間にちらかした。これも終りけこみもした。兄弟で兎の草摘みをし、たいへんつんだ。以上

宮前村葬執行。


四月二十九日 火曜 雨後曇
籠(主)
今日は菅谷青年団の結成式がある。基本体操を少しした。天長節の式典が始まった。午前十時に青少年団の結成式が始り副団長の訓辞があった。金井柳作さんの祝辞があった。山下周治さん*1の帰還をむかえた。発信吉野廣一(ひろいち)

*1:山下周平。1939年(昭和14)5月応召。

天長節祝賀式並菅谷村青少年団結成式。吉沢三省入団祈願祭八幡神社で執行。


四月三十日 水曜 晴
霧が一面に野山を包んで居た。小麦をうすでひいた。桑原のほつかえしをした。このめや蚕道具を洗ひに行った。こうじやさんが来てこうじを寝かした。午後田に行ってけこみをした。作切りをして休み時遠足が通った。祖母さんが来て止作切りが終った。以上

菅谷村常会開催。

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