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第6巻【近世・近代・現代編】- 第6章:くらし

第3節:日記

冨岡寅吉日記

昭和16年(1941)3月


三月一日 土曜 晴・風
神社参拝に行った。庭の掃除をした。朝礼で国旗掲揚をした。今日は先生は松山に行った。自習をした。二時間目に実習で旧校庭の開墾に行った。高二はほめられた。家へ来てつぶてぶち。受信富岡健治


三月二日 日曜 曇・小雨
田ノ仕事(主・寅・守)良好。
月曜日でも天気は悪い。父は菅谷に行った。守と二人で田に行き大田を三十二本ぶった。午後三人で行った。小雨が糸のやうに細くふったり止んだりした。源作さんの家の田*1もぶちきり、横てょう*2の所を切りぶち始めた。発信富岡健治

*1:談)鎌形内田源作家の田を借りていた。
*2:談)横っちょう。田のはみ出していた部分。


三月三日 月曜 晴
今日は万能はゐらないらしい。馬の鍛練である。朝礼で週番の話。一時修身。二時算術P71。三時農業。掃除はしない。鎌形八幡神社に置いて青少年武道大会があるので参加した。根岸良平君*1として勝った。

*1:同級生。

鎌形八幡神社祈年祭。応召兵鎌形新井武一郎出発。


三月四日 火曜 晴・風
風はやゝ静かであった。山下君はおそかった。朝礼もあった。一時算術P71。二時読方雲。三時国史。四時読方。五時唱歌埼玉青年の歌。もう風もはげしくほこりもたった。家へ来てしまだ作り。武道のけいこをした。


三月五日 水曜 晴
朝は春でも未だ寒い。朝礼をしたが何もなかった。一時算術P73。二時地理。三時書方。此の間の四時理科感応電流。五時農士学校に激突台を持ちに行った。(十人)一人でも持てた。家へ来て田に行った。受信菅谷小学校 役場


三月六日 木曜 晴
熊手を持って行った。今日は地久節である。一時読方鱈場蟹。二時すり物の手伝ひ。三時短歌の説明。四時農業。五時実習で旧校庭の開墾作業で火を燃した。当番もした。もう夕方となりにけり


三月七日 金曜 曇・穏風
田仕事(主・守・寅・かつ)
曇って居たが雨は降って居ない。学校に行って履利*1を切った。一時修身。二時読方。三時地理。五時「土と兵隊」の本を読んでくれた。四時短歌について。少し雨がちらついた。けれども止んだ。家へ来て田に行きにけり。

*1:草履。


三月八日 土曜 曇

今日も少し曇って居た。山下君はとてもおそい。一時読方の自習。校長先生の面白い話。二時続き。三時実習。縄ないをした。吉野君はたいへんなった。家へ来て田につぶてぶちに行った。もうおわった。草むしりをした。


三月九日 日曜 晴
起きてしまだあみをした。うす引きをして粉を作くった。十時となった田に行き草むしりをした。天日の実検*1も面白い。午後も行った。馬の鍛練である。夕方になって帰って来た。大田を全部むしり終った。受信本田金治*2

*1:実験。
*2:小川町下里の兵隊に出ていた人。筆者の父の友人。


三月十日 月曜 晴
朝きてしまだを作り上げた。履利をはいて行った。祖父さんの作ったもの。一時珠算の考査をした。二時修身皇運扶翼。三時農行考査。四時理科実検。五時明日の考査について話した。


三月十一日 火曜 晴・風
朝当番であるが今日は遅そかった。山下君は早かった。国史をしらべた。一時考査をした。二時算術。三時読方ゆく川の。四時今日は初午なので半日で掃除して家へ来た。水戸黄門を読んだ。皆の者と遊んだ。台湾の叔母にゲートルをもらう。


三月十二日 水曜 曇・大風
大風の為雨は吹きとばされて居た。もうとても大嵐であった。一時理科自習。基本金を納めた。二時理科の考査をした。三時地理。四時理科発電機。五時青年学校の演習の見がくをした。家へ来て馬小屋の管理。


三月十三日 木曜 曇
籠(主)
守平は朝当番で早く行った。もっこを作る竹と縄を持って行った。一時読方。二時読方の考査。三時国史。四時農業の実習。縄をこすった。或はなった。なかなかむづかしい。一つ出作上り八・五分であった。もう夕方となりにけり。


三月十四日 金曜 雨
朝はあいにく雨が降って居た。傘をさして学校に行った。一時地理の考査。三時読方ゆく川の。修身を二時。四時唱歌の考査。五時「土と兵隊」を読んでくれた。家へ来てじきに雨は止んだ。うす引きをした。


三月十五日 土曜 晴
籠(主)
朝起きると空は良く晴れて居た。今日は表章式*1があるので出席するので松本の家に行った。電車で行った。会頭松本倉治(まつもとくらはる)さん*2の祝じがあった。半日(二時間)で終り家へ来て畠うなひをし、いもうえをした。

*1:比企郡教育会主催卒業優良学童、優良青年学校生徒他の表彰式が松山第一小学校で午前十時から開かれた。
*2:県会議員。『埼玉県議会史』第6巻付録その1 埼玉県議会歴代議員録116頁参照。


三月十六日 日曜 晴

起きてしまだあみをした。菅谷に使に行って来た。水車に行って麺を持ってきた。いもうゑをした。午後畠のふるっこみをした。本じん畠と大麦畠と西原に行った。田にも行きにけり。


三月十七日 月曜 晴・曇
籠・中耕
今朝もしまだを作くった。空は薄曇りであった。一時修身の考査をした。五時算術P79P80P81。三時農業竹と桐。四時理科無線電話。(五時帳面の考査)。二時修身をした。家へ来て大麦とカジヤの小麦畠の中耕を行った。


三月十八日 火曜 雨
しまだ作り
雨が降って居た。もう大分降って居た。学校に行って教室で騒いだ。一時算術P81二時読方蕗の薹。三時国史。四時読方峠の茶屋。五時唱歌仰げば尊をした。家へ来てしまだ作りをした。


三月十九日 水曜 晴
籠(主)
雨も止んで居たが未だ曇って居た。一時間すると太陽も顔を出した。二時理科無線電話。三時地理交通。四時地理世界に於ける我が国の地位。五時唱歌仰げば尊し、蛍の光。考査の紙をかへした。一学期よりもずっと悪かった。しまだ編みをした。


三月二十日 木曜 晴
籠(主)
起きるのはおそかった。馬の湯をわかした。一時読方峠の茶屋。二時国史。三時国史。世界に於ける帝国の地位。四時高一以下庭の掃除。高二会場の準備をした。午後旗竿の綱のとりかへをした。本家の作次さん*1が召集解除で帰還した。

*1:富岡作次。1940年(昭和15)9月2日、東部第94部隊応召。


三月二十一日 金曜 晴
籠(主)
朝はぼたもちである*1。忠魂趾に於いて合シ祭並にイ霊祭が行われる。これは昼前で終った。午後??(ママ)少将の講演があり聞いた。約一時間半にして終り漫談、珍奇*2などありにけり*3

*1:彼岸の中日であるため。
*2:奇術。
*3:故陸軍歩兵上等兵藤縄茂樹・故陸軍歩兵上等兵星野幸吉の「英霊忠魂祠合祀祭」続いて「西南役以来ノ神霊慰霊祭」執行。午後1時から「勇士遺家族慰安会」が開催された。


三月二十二日 土曜 曇
籠(主)
昨日は暖かかったが今朝の天気は曇天であった。雨も少し降った。一年生の掃除をした。読方を二時間した。遠足の話をした。三時間して戦士者*1の墓参りをした。(四柱)家へ来て田に行って作切り。

*1:戦死者。


三月二十三日 日曜 雨
シマダ作り
今日も雨降りらしい天気であった。少し雨も降って居た。しまだ作りをした。昼前に一つと半分作くった。午後一つ作くり皆と遊んだりした。二つ作り上げた。全部で四つ作り上げた。明日は遠足である。


三月二十四日 月曜 朝雨・曇
起きて見ると雨が降って居て今日の遠足は取り止めらしい。週番である。修身をした。二時間、唱歌を六年生と一所にした。卒業式の話をした。週番日誌をつけて家へ来た。さつまを入れた。


三月二十五日 火曜 晴・風吹き
籠(主)
昨日の雨もすっかり止んでからりと晴れて居た。六年生の遠足はとてもよい。少し風も吹き出し次第に強くなった。色々の銭を先生に出した。明治天皇御製をすってくれた。五時間目に書方をして先生に記念にさし出した。菓子の中問*1をした。

*1:注文。


三月二十六日 水曜 晴・穏静
籠(主)
遠足なので早く目をさました。未だ五時にならなかった。宛時計*1を持って行った。六時二十三分の電車に乗って行って川越から国鉄に乗って行った。大宮で一時間遊んだ。川越の大師様で遊んだ。

*1:腕時計。


三月二十七日 木曜 晴
昨日のつかれもすっかりなをった。今日は松の木はこびである。茶話会の会費を集めたり昨日の電車チンも集めた。午前に一回運んだだけで終った。午後岡松屋に行った。夕立がなった。草つみをした。

唐子村葬執行。


三月二十八日 金曜 晴・大風
籠(主)
夕べの風で電気が消えて居た。風はとてもはげしかった。学校に行き幾時間も遊んだ。朝礼をして大掃除をした。井戸の掃除もした。卒業式の予習や唱歌練習をした。答辞を読む練習をした。発信富岡健治

天皇豊岡航空士官学校視察。


三月二十九日 土曜 晴
籠(主)
今日は楽しい卒業式である。早く行き答辞をならった。すり物の手伝ひをした。四人共*1皆優等賞であった。校長先生の御訓辞があり答辞を読んだ。茶話会の開会の辞をしたり手品をした。愉快であった。

*1:筆者、守平、まき、隆次の四名。


三月三十日 日曜 晴
籠(主)
遅く起きた。庭をはいたりした。朝食して自転車で水車に行ってめん作りを手伝ひをした。始め十貫次に六貫作った。こねるのが無頭かしい。午後蜜柑箱をはこんでそれで五十本入れの箱を作った。家へ来た。

菅谷村常会開催。


三月三十一日 月曜 晴

起きて掃除をした。父は馬で土運搬をした。祖母さんと守とうす引きをした。ちゃど午前だけかゝった。午後もした。松の木をはこびそれを切った。そして割った。富岡良治さんが来た*1。受信富岡健治、山岸良之助

*1:談)1916年(大正5)生まれ。青年団の勧誘に来たのだろう。大蔵では25歳から30歳の青年団員は一般団員と区別して「特さん」と呼ばれていた。

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