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第6巻【近世・近代・現代編】- 第6章:くらし

第2節:回顧録・作文

内田講「子どもの頃の思い出」

子どもの頃の思い出(その七)

                 平沢 内田講

旗行列

 今日、日清、日露、日独(第一次世界大戦)のことを言うは、或いは、時代錯誤とか、好戦国とかまた、反民主的とか、いろいろ論議はあろうが、これこそ今、日本が全国民を挙げて討論すべき焦眉の大問題と思う(私は、このような大討論会をおおいに行うべきだと思う)が、それはさておき、大正三年(1914)(私小学三年)、サラエボの一発により、引きおこされた、いわゆる第一次世界大戦(私の記憶では、七月と思う)に、日本は日英政府同盟の立場から、八月一五日、連合軍として、ドイツに対し、戦を決し、二十三日に宣戦布告、九月二日には、早くも、神尾中将の率いる。四国善通寺第十一師団が山東半島に上陸。
 十一月七日、ついに、青島(ドイツの東洋基地)を攻略し、日英同盟に対する一応の仁義をすました。(この間、青島脱出のドイツ巡洋艦「エムデン」の大活躍もあるが略す。)
 この時、日本は、勝った勝ったで小学生は旗行列をした。それは三年生以上(私は三年生)が指定村社、七郷は七社のうち、その辺はっきりしないが、古里、吉田、太郎丸、越畑ぐらいと思うが、とにかく、手に手に小旗を振って、特にできた歌を高らかに、ノドの続く限り、どなりながら歩いた記憶があります。
 残念ながら、歌の文句は思い出せません。唯一節「今や青島陥落……」だけです。たぶん時期は十一月半ばだったと思います。
 この時、初めて飛行機が参戦しました。それは、あとで大正八年三月(高一終了)、修学旅行で東京に二泊三日の旅行をした時、「遊就館(ゆうしゅうかん)」に吊ってあった飛行機でした。複葉単座、支柱類は全て木材、翼材は上質の日本紙に油を引いたような感じで、処々に弾痕に張り紙がしてあったような感じでした。
 尚、つけ加えれば、この時ドイツ兵の捕虜が善通寺に収容され、七小の教頭、板倉禎吉先生(勝田の出生で浦和駅東口にあった板倉家に養子に行っていた。)が視察に行き、とてもとても大きい立派な兵達が、なぜ、日本に負けたのかわからない等の話をされたのも思いだします。

マラソン

 その頃、走ることの総称として「マラソン」と言っていたと思います。考えてみると、フランスのクーベルタン男爵によって、再開された四年目ごとのオピンピックの第五回大会が明治四十五年(1912)、スウェーデンの首都、ストックホルムで開かれ、日本最初の参加として、マラソンの金栗四三氏(たぶん、熊本県人、当時、東京高等師範学校地歴科学生)が十四位?かになったので、マラソンなることばが猛烈に流行し、七郷小でも、たぶん、大正二年(1913)四月(私は小二)から、毎月三年以上が「ソーカ廻り」、今の七小から下にでて、北上し、吉田、古里境にある陸橋【歩道橋】から左折し、小川方面に向き、三ツ沼下から左折して学校に来る道をしたが、私が三年になると、四月と十月の二回になり、大正五年(1916)頃自然に消滅しました。
 今でも、少しでも走るとよくマラソンというが、皆様、御存知のとおり、その起りは遠く、ギリシャがペルシャと約二十五倍の敵兵と戦った時、その死命を制するという「マラトン」の峠の激戦に、とてもギリシャ側(当時、代表アテネ)に勝ち目はないとされた時ギリシャ軍が大勝し、その喜びをアテネ城門に、ひた走りに走って持ち帰り、「喜べ!勝利は我が軍に」と高らかに叫ぶと同時に、心臓破裂でバッタリ倒れた勇士を称えて、その走破した距離が四二、一九五キロメートルだったので、その距離をマラソンレースとして取り入れたものなので、他の如何なる距離を走っても決してマラソンと言わないのが正しいのです。
 メートル法の前は、二十六マイル四分の一だったと思います。だからこれ以外を言う時は、「短距離マラソン」とか「十マイルマラソン」とか、何か副詞的文字を冠するのが正しいわけです。

『嵐山町報道』282号 1979年(昭和54)8月1日
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