第6巻【近世・近代・現代編】- 第6章:くらし
内田講「子どもの頃の思い出」
子どもの頃の思い出(その六)
平沢 内田講
熱気球
大正四年(1915)か5年(1916)頃と思いますが青島戦争で飛行機が初めて実践に使用されたためか、とにかく軽気球というものが作られて、市野川沿いに飛んだのを約一キロメートルばかりの三ツ沼下まで見に行った記憶のある頃、寒い記憶があるので十二月の農休か、お正月の三カ日頃と思いますが、例によって前の山を越えて、前の家へ行って見ると、三年先輩の船戸政一氏が紙袋を持ち出してこれを揚げるのだと言うのです。
『嵐山町報道』281号 1979年(昭和54)7月1日
要は直径一メートル位の紙袋の一部に小さい穴があり、道端のいわゆる、土手を利用してカマドを作り、煙突を長くして(それは土管)その煙突に紙袋の穴をはめ込んで、どんどんと火を燃やすと、追々に紙袋がふくらんで遂には空中に飛び上がるというので、五、六人して紙袋を持つやら、燃し木を集めるやら、今の人には理解できないでしょうが、当時は燃し木は家庭の必需品なので、仲々その辺に自由に見つかるほどあったのではありません。
そのうちに誰かが竹の火が強いから、竹がよいというのでどこからともなく拾ってきて燃やしましたところが、とにかく、袋が一杯にふくらんできたので抑えていた手を放したところ上がりました。
しかし、五十メートルぐらい上がって、百メートルぐらい飛んで落ちてきました。その日はそれで別れましたが、その幾日か後、私は立ち会わなっかたが、今度は大いに上がって、目下、工事中の関越高速の山を越えて、下串引の雷電社の大杉に引掛かって、遂にそのままにしてしまったとのことでした。
距離は八百メートルから千メートルぐらいでしょうか。ちなみに用紙は父親が日露戦争に出征しているので、現役から戦争にかけての手紙であった由、政一氏の母親から聞きました。
とにかく昔の子供は、コマとかタコとか作るなり、何もない時は木に登るなり、木の実を投げつけあったり、少し暖かくなると(最初は潅仏会(かんぶつえ)—シャカの誕生日にその像に甘茶をそそぐ行事—陰暦四月八日)ぶるぶるふるえながら、水泳したりして遊ぶのが我々の子供時代の遊びでした。