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第6巻【近世・近代・現代編】- 第6章:くらし

第2節:回顧録・作文

内田講「子どもの頃の思い出」

子どもの頃の思い出(その五)

                 平沢 内田講

病気

 私の父は、明治三十七年(1904)の六月虫垂炎を病んだのでしたが、前後百日、最危険期には看護婦さんを頼んで自宅療養をしました。その看護ぶりは、今で思えば何とも考えられないようなものでした。
 つまり、痛み薬と冷すことと何と患部に塗り薬を塗って浸みこませるために二時間位なでているのだそうです。これは私が浦和に行ってから、一年先輩氏がそのように言ってましたから、まあそうだったのでしょう。
 前の家の主人は、冷すのをまちがって、逆に暖めたとかで、ついに亡くなっていたのでした。
 もう一つ、前にちょっと申しましたが、インフルエンザが猛威をふるったのは大正七年(1918)の夏から十年(1921)の春までの間で、【七郷村】越畑の方はあまりたいした事はなくもちろん、学校の臨時休校などはありませんでしたが、【菅谷村】平沢は実に烈しかったと聞いています。
 一軒で三人も亡くした家もあるとかで、薬は何軒分かをまとめて買って来て、それぞれへ分けた事も多かったと申します。
 また、当方【平沢】の父は一日二回床番*1をしたと申しました。
 実は私も、大正十年(1921)二月、浦和でやられました。午後寄宿舎に帰って寝こみましたところ、たちまち高熱を出し、同室生が医者を頼むやら、氷を使うやら、本当にやっかいになりました。
 その時、医者が四〇度三分と言っていたのをはっきりと記憶しています。
 一週間位で一応回復し、期末試験は受けたものの、まだ足は地に着いた気もせず、ふらふらで試験を受け、満点近いと思った数学がなんと五十七点だったことだけは、よく覚えています。

*1:床番(とこばん)…関東地方で、墓穴を掘る人のことを床番といった。床取り。(日本国語大辞典)

『嵐山町報道』280号 1979年(昭和54)5月25日
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