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第6巻【近世・近代・現代編】- 第6章:くらし

第2節:回顧録・作文

内田講「子どもの頃の思い出」

子どもの頃の思い出(その四)

                 平沢 内田講

思い出すままに

糸紡ぎ 大正八、九年(1919、1920)頃までは木綿を蒔いて綿をつくったものです。まず、畑から採ってくると、竹のかごにのせて、何日か天日干しをし、綿繰機で種子を除き、綿打ちをする人を頼んで、たたみ綿と糸綿に作りわけ、糸綿は箸を中心にくるくると巻いて、太さは普通の指位、長さは二〇センチ位の円棒を作り、右手で糸車を廻し、左手指で巧みに繰って、糸を針に巻きつけていくのですが、私の母は六歳の時から始めたとか話していましたが、実に腕達者でした。
 幼い頃の自分は、その母のひざを枕に、糸紡ぎを子守唄にしてよく眠ったものです。
 その糸で主として男衆の仕事着(シャツ)を作ったものです。
 機織機は足の突き、引きで綾を作る下機でしたが、大正なかばにはハタシになりました。また、娘たちはハタシで絹織りをしたものです。二人か三人位、どこかの家に持ちよって、早朝から夜一〇時過ぎまで働いたものです。
 子供達は、弁当を運んだり、石油ランプの掃除をしたり、なかなかのものでした。
自転車 自分が自転車を買って貰ったのは大正七年(1918)か八年(1919)の春でした。明治から大正にうつるころ七郷には四台か五台あったとの話です。誰が最初かはわかりませんが、杉山の金子才助氏、越畑の強瀬富五郎氏、市川藤三郎氏は確実に記憶しています。
自然物 川や沼には水量もあり、どじょう、うなぎ、ふなはたいしたものでした。うなぎも何年に一度沼が干あがると、ヤスをもって夜半過ぎまでうなぎ打ちをしたこともあります。多くとれたのは二回記憶していますが三〇匹以上で大きいものは二〇〇匁(約七五〇グラム)、小さいものでは二〇匁(約七五グラム)、平均して三〇匁(約一一〇グラム)程度のものが多かったようです。
 小堀にはどじょうがいました。田植頃からそろそろとり始めて——それまでは繁殖期なので父はとらせてくれませんでした——十一月まで、また一月頃水の枯れたドブの小堀に通気穴をあけて、冬眠の姿のをとるのです。普通はみそ汁の中へ入れて、どじょう汁にして、よほど大型のほかは骨ごと食べたのです。
 また、沼には菱、じゅんさいが一面に生育し、ことにじゅんさいは千年以上の古池でなければ出ないのだと父に聞きました。後になって、あの新葉がまるくなって、特殊のヌルヌルをつけて水中にある時採ったものが、酢のものとして上乗で高級な料理だと知り驚きました。そのような水草は、エビガニの進入によって全滅し、今はほとんど見受けられないと思ってたら、先日志賀の寺沼に菱が出ていたので、これまた驚きでした。
 きのこも、上等ではないが、初茸、ねづみ茸、だいこく、黒シシ、青シシなど、子供の力では持ちきれないほどでたものでした。
 また、天然現象では、大正七年(1918)頃から昭和三年(1928)頃までの冬は非常に寒く、山間の沼には厚い氷が張りつめたものです。大正八年(1919)から九年(1920)へかけての冬には、兄弟三人して沼の氷の上で火を燃したりマキを伐ったら割ったりしたものでした。
 昭和二年、三年(1927、1928)頃も、毎朝沼の氷の上に、うさぎの足跡が点々と続いていたのを記憶しています。
 また、日照続きは大正七年(1918)の暮れから八年(1919)の田植にかけて猛烈で井戸を掘ったり、八年(1919)の田植水は全部沼水でしたが、その時、明治二年(1869)生れの父が、覚えて初めての沼水田植えだと申してました。

『嵐山町報道』279号 1979年(昭和54)4月5日
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