第6巻【近世・近代・現代編】- 第6章:くらし
内田講「子どもの頃の思い出」
子どもの頃の思い出(その三)
平沢 内田講
子どもの生活
七郷はほとんどが農家だから、一定の遊び日以外は、みんなそれぞれ家人と働いたものです。
『嵐山町報道』276号 1978年(昭和53)12月30日
遊び日は、お正月の三が日、七草、一月十五、十六日、雛まつり、四月のお釈迦様、五月の節句、七月の農休三日間、盆の三日間か四日間、十日夜(旧の十月十日)、十三夜、秋の農休三日間といったものでした。
仕事は、季節にもよりますが、朝は草刈り(五月から九月)、夜は縄綯、ぞうり、わらじ、足中づくり(十月から四月)、私も今でもやれば作れます。水田は、馬の鼻取りや田の草取り、畠は、大人達がエンガで耕起する溝への堆肥入れ、カッパ抜き、麦踏み、冬山は、木の葉をはき、松葉は燃料、落葉樹は堆肥用にした。
勉強は、夕食後暗いランプの下でやった。石油ランプといえばランプ掃除と石油さしは、必ず毎日行うのだが、それは子どもの専業で、食事のしたくをするものがすると、石油臭くて困るからである。
七郷【大字越畑(おっぱた)】に電灯がついたのは、昭和四年(1929)の十月からですが、馬内(もうち)地区は二年ぐらい早かったでしょうか。宿題がある時は、午後の家事は休んで宿題をしました。
自分達の修学旅行は、大正八年(1919)三月、東京へ二泊三日で行ったと思うが、その費用は労働によって貰った金を貯めるのが普通で、熊谷駅まで往復徒歩、出発の日、学校集合が夜半の零時、提灯つけて母が前の山を送ってくれた事がなつかしく思い出されます。
遊び日の遊びは、夏は沼で水浴び、先輩から次々に教わって泳げる様になる。その他には、こままわし、鬼ごっこ、兵隊ごっこ、大正七、八年(1918、1919)頃二冬ばかり飛行機とばしが流行した。プロペラの形をした鉄片を針金で円く囲い、プロペラの中央に穴があって、それを台にさしこみ、その台にヒモを巻いて強く引いて回転を与え、とび上がらせる。数十メートル上がり百メートル位はとんだと思います。
小づかいは二銭くらい、五銭の白銅貨が貰えれば天にも昇る気持で、鉄砲玉と称する小指頭大の甘い黒い玉が一銭で一二個買えた。
学校の方は、私が尋常六年間で無月謝、その上二年間が高等科で月謝毎月三〇銭、自分で直接役場収入口へ納入した。