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第6巻【近世・近代・現代編】- 第6章:くらし

第2節:回顧録・作文

内田講「子どもの頃の思い出」

子どもの頃の思い出(その二)

                 平沢 内田講

熊谷小川間の交通

 その頃は、人は馬車(一頭立)荷物は馬背か馬に曳かせたいわゆる運送車で、人力の二輪車もあったが、これは字中で二台か三台しかなかったので、まああまり使われませんでした。
 また近いところは、人は人力車を利用しました。人力車も自分の記憶では、タイヤではなく硬い細いゴム輪なので、乗る人もつらいしまた、曳く人は相当のものだったと思います。
 したがって、重い人や大急ぎの時は二人曳き——梶棒に入る人と梶棒の前にある横木に五メートルくらいの麻なわをつけて、その先を肩にして曳く——を利用したのです。
 馬車が走ったのは、大正五、六年(1916、1917)が最後だったでしょう。大正五年の熊谷の桜観に行った帰りに雨の中、馬車の後を走って帰ったのを記憶しています。
 また、運送と称して、新聞を夜通しで熊谷から小川まで、独特の二輪の箱車で運んだもので、その帰りの空車が、昼過ぎガラガラと熊谷へ向けて帰るのを、沼に魚釣りに行ってよく見かけたものです。
 大正九年(1920)には、馬車は無く自動車が走っていましたが、それも普通の乗用車に乗れるだけ乗せて定期的に走っていました。当町にあった自動車は、外輪式で、かなり大きなしっかりした泥よけがついていたので、その上にも人が乗ったり、時には、自転車を後部につけたりしたものです。
 私もある時、車の外にへばりついて乗っていったのですが、荒川の大橋を渡って間もなく、電柱で背中をこすり痛い思いをしたことがあります。
 荒川の大橋は、明治四十三年(1910)の洪水で流れ、しばらく仮橋であったのが、大正五年(1916)の桜観の時期をチャンスに、中央わづかを鉄橋にし、その開通式がはなばなしく行われました。その開通式の四、五年前、その仮橋から下流に、二艘ほどの帆船が動いていたのを見たことがあります。
 ちょっと話がはづれますが、私が、昭和七年(1932)八月、先輩に呼ばれて満洲に遊んだ時「旅大道路(旅順—大連)を二〇人乗りの車が走る。これだけは土産に乗っていけ」というので乗ってみたが、まだ内地には二〇人乗りは無かったと思います。

服装

 男も女も、いわゆる着物—和服がほとんどで、洋服は、学校の先生と巡査、郵便配達夫などが着ていましたが、ほかには、女では、テニスのところで出てきた女性一人、子供では、大正三年(1914)四月一日の入学式に、故田端順一氏が「ニッカポッカ」姿で来たのを見ただけ。メリヤス類も、大正七、八年(1918、1919)頃までは一〇人に一人か二〇人に一人位だったでしょう。シャツ、股引は布だけ買ってきて、だいたい家庭で作ったものです。もちろん足袋も手製、ただ底だけは石底とかいったものを買って使ったもので、だから、たいていの家に足袋型があったものです。
 登校の時の常のはきものは、手製のわらぞうりで、雨の時はほとんどはだし、ですから学校には足洗いの池がありました。雪のときはわらじ、学校に着くと、一年生の廊下にだけ大火鉢が出されたのもです。私は、学校に着いてからの大雪に、約一・五キロの道をはだしで帰って家人を驚かせたこともあります。
 体操の時は、着物の裾を折り上げて三尺をその上から締め、足ははだしかいっつけぞうりでしたがまれに、足袋靴と称して、かかとの下部に鉄の鋲を打った、労働用の足袋を用いた人も一人か二人いたと思います。いっつけぞうりというのは、鼻緒にひもをつけてかかとの上側をまわして、足の甲のところでくくるようになっているものです。
 マラソン足袋については、私が七郷では元祖です。当時、兄が熊中でランニングをやっていたので「スパイクというのもあるし、半足袋もある」というので、母にねだって作ってもらいました。
 母も型が無いので作れないと困ったのですが、私は欲しい一心でいろいろ知恵を出してとにかく作ってもらいました。できあがったものは、普通の足袋の上を切り甲を中途から二つに割って、ボタン穴のような穴を作り、ひもで結ぶようになっているものでした。
 それを大正八年(1919)の運動会にはいていたら、おりからインフルエンザの流行で休校中の、埼玉師範の先輩が見に来ており「お前はいいものをはいてるな」と言われたのを記憶しています。

『嵐山町報道』275号 1978年(昭和53)11月30日
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