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第6巻【近世・近代・現代編】- 第6章:くらし

第2節:回顧録・作文

内田講「子どもの頃の思い出」

子どもの頃の思い出(その一)

                 平沢 内田講

 私は明治四十五年(1912)四月一日(その頃は四月一日が始業、入学の日でした)に七郷尋常高等小学校尋常科一年入学ですので、多くの先輩諸賢も健在なのでちょっと面映ゆい気もするのですが、どうしても皆様に広く知ってもらいたいことがあるのです。
 どうしたわけか、みんな運動のことですが。

その一 野球

 大正二年(1913)十月、七郷の高等科—今の中学一・二年—と大河の高等科の者が大河の校庭でとにかく野球の試合をやりました。
 私は小学二年ですが、全員歩きで行く故弁当だけあれば行けるのでついて行きました。
 結果は、一一対四で七郷が敗れたのですが、七郷の選手は、越畑の馬場利二氏、長島藤三郎氏、馬場仙重氏、勝田の田中清氏、他は姓だけだが、杉山の金子氏、広野の永島氏などが記憶にあります。
 用具は、グローブなどは一切無く、捕手が一人だけ野手用のグローブを使用、他はすべて素手、球は何かを芯にして糸を巻き、布で縫いあわせたのもので、外見は今の様なものです。バットは、七郷は確か市販されたもの、つまり今のと同じようなものだったが、大河のは適当な丸太棒的なもので、虫が食った紋様がついていたのが忘れられません。もちろん長さも少々長かったと思います。
 ルールは、投手のボーク等細かい点は知りませんが、ほとんど今と同じだったでしょうが、特に異った二つの点は良く記憶しています。その一つは、打者のファールはどこで捕っても打者アウト、その二は、走者にボールを命中させれば走者アウトというものでした。

その二 テニス

 職員連中が昼休みによくやりました。七郷は庭が小さく、ボールはすぐ二、三〇メートルの篠やぶの傾斜面(自分等はママ下といった)に落ちた。先生達にとってくるよう頼まれもしないのにそれを拾って来るのが楽しくて楽しくて「おれは何回拾ったぞ」と仲間達で自まんしあったものでした。そうしたある日突然、本当に突然、それは三代目の深谷校長の時ですから、大正四年(1915)か五年(1916)、季節は記憶にありません。昼休みに出て見ると、真白なドレスに白帽を戴いた女性が一人でテニスをやっていたのです。その時の球拾いは本当にハッスルしたものでした。

その三 自動車

 あれは、多分、大正二年(1913)の秋十一月初旬と思います。
 「明日は三ツ沼まで自動車を見に行く、弁当だけ持ってこい」
 当時、男衾村の今市から八和田の高尻、能増、奈良梨、中爪、志賀の中仙道裏街道は、宇都宮第一四師団の秋季演習順路だった。
その自動車部隊が来るわけなのです。そこで、三ツ沼わきの山に入って木登りしたりなどして待っていたがこない。昼頃、板倉先生(教頭)から「今行って見てきたが(約四キロ徒歩)、自動車は今市下の白坂タンボに落ちているので、今日はこない。見たい者は自由に行け。学校としては解散する」
 私は家も一キロ位だし友達と行くことにした。とにかく子供の足で全然未知の土地、行って見るとまだ刈らない稲田(その頃は十一月いっぱい位は刈らずにおいた)の中に二台の軍用車、まあ今のトラック体でカーキ色の車が腹を天に向けて、亀をひっくり返したように落ちている。その後にまだ一〇台位は道路上にあった。
 八和田との境は市野川の上流で夏は三〜五メートルで、子供の目には立派な橋があり、その八和田側のたもとに黒塗りの乗用車が一台とまって、それは将校用で二、三人の長剣を吊った将校が出入りし、巻尺で道路を計ったり、殊に念入りに橋を計測していたのを記憶している。そうして、近所の農民達もある程度集っていたが、兵の方から「厚板はないか」とか何とか、だいぶがやがやしていたが秋の日は暮れやすく、なかばかけ足で帰宅した次第。

『嵐山町報道』274号 1978年(昭和53)10月30日
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