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第6巻【近世・近代・現代編】- 第6章:くらし

第2節:回顧録・作文

内田講『想』

第8章 高等科一年 大正七年度 1918

校長は高谷の千野幸三郎先生。

1 アメリカからの教育視察

 五月頃だったろうか、アメリカから、来たのは、何人来たか、何を視たか全然記憶にないが翌朝校長から「昨日はアメリカから学校を視に来た。子供の総員をきかれたから、四五〇人(だったと思ふ)と答えると、非常に驚いて、『この山のどこにそんなに居るのだ、アメリカでは此の様な所では皆、自動車で迎え送りするよ』と言ってたよ」と話されて私達には何の譚も解らなく、唯、ヘーと思っただけでした。

2 明覚の長距離競争に出走しなかった事

 この頃もいわゆるマラソン熱は冷めず学校では昼休みに前山一周(八百米位)をしたり体操時間には、ソーカ廻りをしたりしていたがたまたま明覚では尋常科一里、高等科二里(一里は約四粁)の競争に近辺の学校を招待するから七郷も出るといふので唯一回走っただけ(ソーカ廻りを古里「正重店」から右折吉田へ出て蟹沢を出て学校に戻る道)だがその時私は一年上の馬内の千野廣司先輩に次いで二位だったが、一校三名といふので、出る事になったが、気性がヤクザだったのか(今でも気は極めて弱い)前日どうも風邪気だったので受持の井上先生に告げたら、大変力を落とされた態だったが、病気では仕方ないやと不出走代りは高二から出で、三名出走した。自分も去年買って貰った自転車で応援に行きました。結果は、千野先生は二位(大したものです)一位は入間は川角の平井金平氏(埼師で一級下に入って来た)だった。他の事は憶えていない。

3 インフルエンザ始まる

 この事は後で分ったのだが此の年から世界的大流行の、インフルエンザが流行始め、都会(つまり世界に開かれた土地)に始まったのが、そろりそろりと山の方へ来たのか、十一月頃担任の井上勝先生が二十五才の若さで急逝されました。本当にお気の毒であり残念でたまりませんでした。後は越畑の馬場覚嗣先生が担任されたったと思ふ。

内田講『想』 1987年(昭和62)9月記
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