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第6巻【近世・近代・現代編】- 第6章:くらし

第2節:回顧録・作文

内田講『想』

第7章 尋常科六年 大正六年度 1917

担任は杉山の内田正之助先生。

1 ソロバンの課外授業

 これは特筆感謝すべき仕事でした。週一回多分木曜日だったと思ふが、一応四則全体を教わった。殊に割り算は、二、一、天作の五で表現される、「亀井算」とかで夢中で暗記した。九、九、一番分らなかったのは「検一、無答作九の一……から検九無答作九の九」でしたが、埼師四年、教生の時、「月末統計」を課せられた時、寄宿に戻って、色々と考えて一切の九、九がはっきりし、卒業後、八和田では毎月月末に全職員で、出席統計をしたが少々鼻を高めたものです。今でも、年なりの自信はあるつもりです。本当に教育ばかりではあるまいが物事は基本が第一です。

2 教育手牒

 今まで一年毎の通信簿を改めて一生使えるのだと申して厚表子、十三糎―十八糎、の重々しいのになりました。(今手許に持ってる)卒業年月日記入は尋常科六年、高等科三年、実業補習第五学年」まで可能に作られてます。発行は小川町三星社、全県的か、比企郡内だけだったかは知りません。

3 自転車を買って貰ふ

 多分この年だと思います。自転車を買って貰いました。嬉しくて嬉しくて兄の子を背負ってよく乗りました。台所で雨の日に一生懸命習った記憶がはっきりしてます。その時父が「三十六円だよ」と申された言葉は今も耳底に残ってます。緑色の中古車、二十六吋。
 自転車は村内に極めて少なく、全体で十名位の大人が持ってたと思ふが、この頃から急に増加しました。高級車は舶来で、トライアンプ、とか、ラーヂ等何れも百円以上した由、高等になると冬の辨当は家まで食べに来られたので本当に嬉しかったです。

4 走って負けた話

 八年間唯一回あったのだと思ふが、此の年菅谷部会内、五小学校の体育会が菅谷校庭で開かれ、私はリレーの第一走者で、鎌形の子供に負け二番になって、くやしくって出た涙が止まった様な不思議な思をした事が思出されるが他の事は一切記憶してません。

内田講『想』 1987年(昭和62)9月記
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