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第6巻【近世・近代・現代編】- 第6章:くらし

第2節:回顧録・作文

内田講『想』

第6章 尋常科五年 大正五年度 1916

担任先は単級になって去年上った千野先生。

1 家事分担増加

 兄がこの四月から熊谷中に行き、下宿に入ったので子供は私一人家にいるだけ。そこで毎日ランプ掃除、風呂たきをする事になった。
 ランプ掃除等言っても、今は五十以下くらいの人達は知らないかも。だが当時夜のあかりは石油(菜種子油は行燈にだけ)。而も今程よく精製されなかったのだらう。一種独特の異臭があり、指に着くと、一寸除れない。で、若し食品を扱ふ人だったら移り香がして、少々食べ苦くくなるので、女衆は仕ない。結局子供の仕事になる。又油煙が多く出るので、ホヤ(焔を守る硝子の管だが燃え芯の巾広いのは四ツ手といって下部が丸く大きく先は細い、又、丸芯のは竹ボヤと言って細い円筒、何れも長さは三十糎足らず)にく煤が着くので毎夕掃除する。指が臭くなると大体草木灰で水洗した。石油を注ぐ、ホヤを掃除する、芯を切り揃える、仲々の役目だ。
 風呂たきも大変、秋口に用意した専用の薪が残ってると安心なのだが、秋も終り頃になると、追々心細くなり、自分で何とか工夫した事もある。唯一つの慰めは、とうもろこしを焼いて食べられる事だ。火を燃しつけておいて、畠から採って来て直ぐ焼く。金火箸に尻をさして、廻し乍ら吹き竹で吹く。パチパチと弾ぢけ、余りく焦がさず、狐色に焼き上げた香り、味、食べた人で無ければ分らない味。火の燃えてる下の灰の中に入れてもよいが、香りも、味も全然話の外。唯非常に堅く実ったのは、むし焼きと称してそれがよい方法だった。が旨くない。

2 朝草刈

 一人前の百姓に育てと言われ、五月一日から登校前に草を刈る。八十八夜の別れ霜ともいわれ、五月にはまだ寒い。否足の指尖が痛い。足は、足中と称して踵の無い草履様のものをはくだけ。また草もそれ程伸びてはいない。田植が終わると馬車と称して遠くの山へ馬で行ったが、時間がかかるので学校に間に合わないから夏休みだけ。

3 農繁休業(四年生から)

 去年書くべきだったが落したので追加。四年以上は農繁休業と称して、今、手許にある資料によれば六月は休んで、八月に出てないが、申訳無いが担任の記入もれと思ふ。

4 地下足袋盗難

 一般にまだ地下足袋は当方山の中へは来てなかつたと思ふ。労働用は、特殊の足袋(底は石裏の二重で甲も厚仕立てで指の上辺迄特別にかがってある)に草鞋ばき。だが「ハダシ足袋」が市販されてるのは何かで知ってた。九月か十月、父が隣の丈助小父さんと伊勢詣りをするので「みやげは何がよい」といわれたから「ハダシ足袋、踵にドイツ鋲の打ってあるのがね」と言ったらその通りのがあって、買って来てもらった。「ホラ土産、六十六銭だったよ」と目の前に出された。この時位嬉しかった事は他に無い。早速翌日はいて行って一時間終って出て見ると無い。さあ大変だ、息の止まる様なとはあの時だった。先生方も心配されて皆して探したが見付からない。と誰かが「ここにあったよ」と庭に色々印をつけるためにある石灰俵の中から粉だらけになったのを出してくれたのでチョン。此の足袋は底は皮、踵にはドイツ鋲が三本ある。甲は木綿、底には甲に縫いつけるための針の通る柔らかい皮状の物があるが、少々大き目で私の発育も悪かったのか(小供の時は大きくはなかった、高二の二月埼師受験の時の測定では身長四尺九寸五分、丁度一・五米)高二まではいた。底甲の縫い糸が直きに切れるのでこれは皆自分で縫い直した。おかげで糸の縒り合せを覚えた。また針を折ったり、メドを欠いたり指先に針を通したり何回もしたった。

内田講『想』 1987年(昭和62)9月記
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