第6巻【近世・近代・現代編】- 第6章:くらし
内田講『想』
1 ニッカボッカスタイル
大正三年(1914)四月一日(当時は卒業式が三月廿四日、入学式が四月一日、其の後色々変更あり)学校内が変に落着かない、変だなと思ってると皆が揃って庭に出て登り道を見下している先生達もだ。自分も出て行き誰かに聞くと「今日は宗順の子が入学するんだ……」宗順とは襲名で明治二十三年(1890)初代七郷村長に二十六才で就いた七郷第一の豪農、家は太郎丸だが、東京で金融業か何かやってた人。
校庭から見下ろして居ると、来た。祖母らしき人に連れられて登って来る。今迄に見たことも聞いたこともない服装。やわらかげな学帽子、黒っぽい洋服、ズボンは膝下僅か。その下には矢張り黒っぽい長い靴下。靴は黒の編み上げ。これが慶広帽とか、紺サージとか又この洋服姿をニッカボッカーだとは、リーダーで読んだ等して相分った次第。唯思出せないのは上衣の襟がどんな形だったかだ。が多分小さなネクタイ姿だったろう。2 ソーカ廻り
待望の長距り走だったが、どの位で走ったか、苦しさは等は全然記憶にない、唯残念だったのは毎月一回だったのが年二回になった事(大正六年頃中止)。
3 テニス流行のこと
その頃学校の職員は休み時間によくテニスをしたものだ。尤も岩鼻時代によくやったと叔父から話された。この年替った校長が大のテニス好きで、昼休みにはよくやった。子供達は見物、庭が山にあるので時々球があの下に落ち畑にまで行った。自分等は見ていてそれを拾って来るのが一種の誇りで競争で拾い合った。先生から拾って来いと命ぜられた事は一度もない。此の年だったか、はっきりしないが、眞白の洋服の女性が来てテニスをした時は唯々驚き、且つ球拾ひは本当でやったった。
4 馬の鼻取り
水田作りは馬耕で、迚も手間をかけたのだ、つまり耕起も、代掻きも二回ずつした、耕起は第一回が三月頃、二回目が四月頃、五月の終り頃から荒代と称して掻き、植える直前が植代、よく馴らされた馬だら鼻取りはいらないが当時鼻取り無しの馬は見なかった。耕起の時は一米位の竹竿と手綱、耘ふのは、通り路が分らなくなる。すると後取から平に掻けないからと叱言を言われる。而も掻くのは縦横各二回、本当に途が分らなくなる。子供がやってもまあ間に合ふから、大体鼻取りは子供の役目、でも学校を休んで迄、私はしなかった。これが三年生からの家事手伝のきまり、何処の家の子も同じ様に皆やったのだ。
5 比較試験(六年だけ……兄が該当)
時期と、県、郡何れだったか、兎に角全県だったと思ふが六年だけがやった。これは先生達が相当考えさせられた様だった。家でも子供達が教えっこすりゃーよいとか、問題が前に分らないんだから困るとか。その時父が「昔もあったんだ、俺の時は代表が小川に集められ祖父に連れられて俺は行ったものだ」。歴史は繰り返すと言ふが昭和二十何年かに新制中学三年の県下一斉試験が一回だけあった、この時各校からお互いに不正の起らない様監視職員を交換して行った。自分等は三年で何の関係もないので平気の平左であり又その結果についても何も記憶してない。後の中学の方は、当事者だから色々裏話を知ってる。
6 青島出兵(山東出兵)
九月に入ると対ドイツ宣戦布告があり、日本では四国善通寺は上尾陸軍中将の率いる第十一師団が、ドイツの東洋艦隊根據地、支那山東半島の青島に出征、上陸。十一月に完全占領、大勝利。学校では校内の村社(古里、吉田、広野、太郎丸、越畑と思ふ、他には行った記憶はない)にお礼参りといふか、歌を高らかに歌いながら旗行列を全校でやった。田圃は稲刈が終ってなかった。その頃の稲刈は雪がふってからだったと思ふ。
その歌の一節だけ頭にある「今や青島陥落し」夜は大人達が提灯行列をしたと思ふ。此の時青島を脱出した巡洋艦「エムデン」について色々あるがただ一つだけ記せばこの時日本にはエムデンに追付ける軍艦は一つも無かったのだとか、公表速度は二十七節とか、ノットは知らないだらうな大方の人は。排水トンは二千七百屯。7 農事手伝
(い)田ころがし 水田除草の第一回目の前に株間を小さな万能で掘り起すのだが、家には長さ二十糎位の鉄の平らたい釘の打ってある物があって、腕で押し歩くと、まあ掘った形になるので子供でもやれるので、暇のある時は兄と二人でよくやったもの。
(ろ)大豆打ちの投げ込み 昔は可成り大豆を作ってたので、よい天気に、根を切ったのを庭一杯に、十本位をまとめて地上に立てて乾かし、土蔵の軒下で六人位の大人達が向きって「■棒=連が」で調子を合わせて豆木を打つ、庭に干してあるのを一つずつ投げ込む。これも大人でも、子供でも一人前の仕事なので、十五時頃帰ると、丁度間に合うのでよくやったものだ。この時私は私になりに一つの計画を持つ、やった人でないと分らないが振り棒打ちは、リズムに乗ってやるもので狂ふと肘を棒の先で打つ、とても痛い、これをやらせたいわけ、それもわざとらしくなく、一生懸命本気で、そうなる様に仕組むので工夫がいる。一回(小一時間)のうち一回位は成功、唯一人心の中で拍手。
8 比企郡下青年団運動会
多分大正三年(1914)秋だったと思ふが、若しかしたら昨年大正二年だったか、青年団(男)の町村対抗の陸上競技会が松山第一小の庭で初めて開かれた。私は上の兄と歩きで、鬼神社の辺から入って松山原を通って見物に行った。各町村からの選手達も歩き。竹沢青年団は、ラッパを吹いて元気に来たのに原の出口で、出会って、その元気さに驚いたが終って見たら竹沢が全体で優勝だった。内容に就いては何も憶えてない。
内田講『想』 1987年(昭和62)9月記