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第6巻【近世・近代・現代編】- 第6章:くらし

第2節:回顧録・作文

内田講『想』

第3章 尋常科二年 大正二年度 1913

1 俵木校長の話した事

 お辨当の時俵木校長が机間を廻られて、皆の辨当を細かに見て「皆の家の米は白くていいなー自分の方(小見野か吉見の人)は四十三年の大水で米は眞黒だよ……あの時は小見野学校の屋根に馬が上ったままだったよ等々」とその時の状況を話された。自分等には余り感銘は無かったと憶えている。

2 高等科の者と遊んだ事

 当時の遊びに「捕り鬼」と称するものがあり、お互陣地を隣り合わせに作り、三十米位前に目標を置き一人が自陣から走り出しその目標を廻って自陣に帰る、それを後から走りだし追付いたら相手の何処かを捕えて「タンモ」と叫ぶ、捕えた人は自陣の奥に置いて番人をつけておく、捕えられた方の誰かが旨く駆け込んで捕えられてる人のどこかをんで「タンモ」と言えば成功、元の陣に戻れる。さうして人数が多く残った方が勝ちとなる。捕えられてる人に届く前に相手に見付けられ捕えられれば、逆に捕らえられて相手陣内に置かれる。
 或る休み時間私が一人でブラリと出て行くと高等科生がやって居り、丁度相手を待っていたのだろう。私を見ると「オイ交ザレヨ」と言ふので、ジャンケンして仲間に入った。高等科相手だから、走り出す元気は更に無く、ボンヤリして相手陣の奥を見ると、捕えられた者が五人位手を継いで味方を待ってる。私は関係無い第三者風に走らないで、フラフラと入り込み「タンモ」とやって大成功、大分皆から何や彼と褒められた記憶がある。

3 大洪水

 多分九月末だったと思ふ、大暴風雨があってこの時は杉山の内越沼と越畑三ツ沼の中沼の堤が切れた。越畑の三ツ沼は上の谷も多く深く、沼下の水田が少ないので(七町五反)(十三間も、大沼も十町以上)十八年とか干た事がないので、大蛇がいるとか、燕を取って食った大鯉を見たとか、それが堤が切れたために魚捕りができるといふので字中の大騒ぎ、私も行った、鯉は二貫匁内外のが七本位上ったが待ちに待った鰻は一本もない、必要があって水を出したのではないから相当残水が多く寒さばかりが身に滲みて、水が濁らないから鰻が弱らないので土中にもぐり表面に出て来ないのだ。それでも夜は出るかもと、早夕飯で行くと可成りの人出で、ヒデ(松の切り株の芯だけが腐り残ってる燃え易いもの、戦時中松根油を採るので何処の山のでも掘って供出したもの)の篝り火や石油のランプ(当時ホヤと称して硝子の銃の中で芯が燃える仕組で堤灯代りにされてた、私はこれだった)を左手に右手には打ちヤス「一米位の棒の先方、二十糎位の場所に特殊の釘(本は四角で先は細く円く鋭くなってて長さ十糎、一糎置きに二十本打ってある)今私の手許にある」を持って水際を廻る、風は吹いて来るし、段々と寒くはなるが誰にも鰻には出会ない、どうした事か、私は五十匁位のを二本止めた、隣の小父さんに「沼ソーロクは講ちゃんだ」と大ほめされたのはまだ昨日の事の様だ。

4 野球とリレーの試合

 十月頃と思ふが高等科生が大河へ野球の試合に行くといふので兄に連れられて私も行った、結果は11−4の敗戦だった。其の時の用具だが捕手以外は素手、捕手も普通の内野用のグローブ、バットは七郷は市販物で今のものと同じだったが、大河のは手作りらしく少々長目で私は家人にメン棒見たいだったと話した記憶がある。ボールは市販物だが布製で、何かで芯を作り糸を巻いて堅くしたのに亜鈴型の布を二枚組み合わせ縫ったもの。私も六年生位からよく作ったものだ。これも大河だが、十月頃だったろう、尋常科のリレーに参加して優勝した、当時リレーは一組五人だった。出走した人は今でも憶えてる(市川武市、市川本三、青木又三郎(五年)、早川義雄、長島寅三)の先輩達、此の時は兄も出走するためか又学校が休みでないからか、私は見に行かず家に居ると夕方暗くなってから十三間沼道を歌を歌ふか大騒ぎで通った事を憶えている。

5 自動車見物のこと

 十一月半ば過ぎと思ふ「明日は自動車見物に行くから辨当持って三ツ沼の山に集まれ」集ってると先生方も来られた。辨当も食べたがそれらしきものは何も見えない。そのうち板倉次席(当時は教頭と称えず次席と称えたと思ふ)が「今見て来たが今市の白坂下のタンボに落ちているのでこない、見たい人は勝手に行け今日はこれで解散」と叫んだ。大部分は家路に向ったが、家の近い自分達兄弟は何人かと連れ立って半ば駈足で(五粁位)行ってみると、黄色に実った稲田の中に、四輪を上に見事引繰り反っていた。稍々大方の軍用車なので道巾不足なのだ。白坂の方にはまだ十台位停ってる、色は軍食のカーキ色、附近の男達は自ら出たのか、呼び出されたのか大変の人出、女子供は見物、先導していたのだらう黒塗りの普通車が一台最前方に停っていて、長剣を吊った将校が降り出て市の川の木橋の巾を測ってた。陽は西山にかかってたので又半ば駈歩で暗くなりかけた頃帰宅した。

6 祖父の発病と雪中跣下校

 十二月十七日起きて見ると重苦しく曇った寒さが身に滲みる朝だった。例の通りの時刻に学校へ出かけたが、その時、祖父が起きないとか、頭が痛いとか家人がそわそわしてたが、姉、兄、と三人は出た、寒い冷い、痛いなー等言ってる内に粉雲が落ちてきた、授業中よく積って下校時には三寸位(十糎弱)積った。さぁ大変、大部の者は草履だし、もちろん靴も地下足袋もない時代、、座敷ではいてる足袋で歩けば家に帰ってから困るし、「オイハダシで行くべや」と数人で元気よく出たものの冷いのか、痛いのか夢中で帰宅した。して見ると家中人だかり、祖父が脳血で倒れたのだ。そのワイワイガヤガヤの中へ私が雪中を跣で来たといふので又大騒ぎ、大姉(九才位年上)だったか、私を上り鼻に腰掛けさせて、足を洗ってくれたのだが、その洗湯の熱く痛かった事。

内田講『想』 1987年(昭和62)9月記
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