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第6巻【近世・近代・現代編】- 第6章:くらし

第2節:回顧録・作文

内田講『想』

第2章 尋常科一年 明治四十五・大正元年度 1912

1 校名の事

 南北合併前は何と称えたか、高等も無い、合併してから、七郷村立七郷尋常高等小学校と呼称し、昭和十六年(1941)国民学校と改まる迄これが続いたのだ。他町村も同様と思う。

2 入学式に当り家人の心配

 六つ上に姉、三つ上に兄が居たので三人で行った。家人全体から「氏神様にお詣りして行って参りますと称えて家を出るんだよ、学校で先生に呼ばれた大きな声でハイッと返辞するんだよ」本人は何も分からない。唯新しい着物が嬉しかった事末っ子だったので袴が作って貰えなかった事はよく憶えてる。又学校では返辞はよくしたと思ふが、とに角緊張してたのたらう、誰とも話せず椅子に腰掛けてると、廊下を通る上級生が誰を見て言ったのか不明だが「あいつ姿勢がいいなー」等言ってた事も思い出される。

3 ハシカに苦しむ

 七月二十日頃ハシカにやられて学校を休みました。一週間だったと思ふ、蚊屋の中で、ぢっと我慢してると明治天皇の御病気で、家人達が何か重大な事が起る様な気を揉む話をしていました。又祖母が「何か食べたいか」と言ったので「ミカンが食べたい」と言ふと「今ミカンは買えないなー」との返事、又今十日すれば夏休みで欠席無しで行けるのにと頻りに大人達がコボしてた事も思い出す。当時無欠席は大変なので翌大正二年(1913)六つ上の姉が高二で八年間病欠二日といふので県の表彰で父に連れられて行ったことです。勿論無欠も一日欠も無く二日欠の姉が表彰されたのです。

4 明治天皇崩御

 ハシカが治って出た日が八月卅日、自分はまだ頭がボーっとしていたと思ふが。先生が重苦しい口調で何か話されているうちに、高等科の女性が何人か入って来て衣服の左胸に小さな黒布を縫いつけてくれた。つまり喪章をつけたのです。そうして歌舞音曲停止といわれたその後文字が解ってから意味も解った次第。ラヂオもテレビも無い時、でも家では国民新聞をとって読んでたので、大人達は大変の話題にして、「これで日本は暗闇になる」と悲しんでいたものです。月改まって十三日が御大葬でその夕刻乃木夫妻が殉死されたので又又大人達は大騒ぎだったのです。

5 家事分担と遊び日

 農家は全部人の力でやるのだから、子供も学校へ上る頃になると、立派な労働力で、気儘にぶらぶらしては居られない。勿論宿題がでていればそれをやるがそれ以外は皆何かしら家人の手傳いをしたもの、そこで「遊び日」が決ってたもの。一月が三ヶ日、七草、十五、六の小正月、二月は無し但し家では十五日に釋迦の涅槃と称して草餅をついて寺に持って行き先祖に供えて貰った。三月は女の節句で(その頃は旧暦でするから不定期)も一日、彼岸の中日一日、四月は無かったと思ふ。三日は神武天皇祭で学校は休み、越畑では鎮守のお祭り日、五月は男の節句一日、六月は無、七月は田植上り(大体七月七日頃終る)の十日を中心にして三日間、八月無、九月には男遊びと称して二百十日に各戸一名ずつ大人の男達が出てジザイ餅と称して大きな、アンコロ餅を作ったもの。
 三月で落としたが女遊びが一日あって小豆と粳米を出し砂糖は共同で買って、団子に作るのだが、前前から希望の量を出し米は洗って置いて当日粉にして夕方作り上げ、各家からは容器を持って取りに行き夕食にしたのです。何処の家でも主婦が出るので三才迄位は子供も行ってたものです。私も一度、船戸さんの家に行った記憶がある。
 後は彼岸の中日一日、十五夜は旧暦であり夜だけ、生家は山の名がなので八年間夜の遊びには殆ど出なかったと思ふ。十月になると十三夜で越畑の薬師様のお祭りで是は仲々の人出で母に連れられて行ったこともある。十一月は十日夜、両手で掴めるか稍稍多日の藁に細縄をぐるぐる巻きつけ(藁丈の半分位迄)十日夜藁鉄砲と呼称し乍ら大地を叩き廻る夜の遊び。麦蒔時期になるので地中の土竜逐いとかの由、自分は山の中の一軒家だから他処には行かないが家の庭で遊んでると方々から音だけは聞えたもの、十一月は二十三日が新嘗祭で学校は休みだが余り出て歩いたとは思ってない。十二月は十日中心に三日間の農休み。以上以外は毎日家事手傳いをしたもの。
 一年に上っての私の家事分担は毎朝お茶入、炊事場の出越しに置いてある急須を盆に載せ男達の数の茶碗に注ぐ前に炊事場の流しの上にある恵比須様と座敷にある佛様に上げる仕事、勿論私の分は無く、どうも女衆のも無かったと思ふ。冬の日等に山越に置いた急須の蓋が凍て付いて、囲爐裡の燃え火で焙った事等本当に記憶に新しい。

6 マラソン熱

 この頃学校ではマラソン論が頻りに起り、走ることは総べてマラソンであり学校では毎月一回、ソーカ廻りをした。学校から駆け下り眞直ぐに走り十三間沼を右に見て、小川、熊谷間道路を右に折れて、三ツ沼を左に登り、岡島屋の角を右に切れて、坂を登り、新沼の堤を通って学校へ登る。総巨離七粁内外と思ふ。子供は三年以上、私は走る自身があったのか、早く三年になって走りたいなと本気で思ったもの。後で思い当るのは、明治四十五年は、第五回世界オリンピック大会が、スエーデンの首都ストックホルムで開かれ、日本は金栗四三氏のマラソンと、三島某の百米の二種目参加、金栗氏が十四位かになったので急に走ることが、もてはやされ、人々は走る事は全てマラソンといふ人さえあった。昭和六十二年(1987)の今でも走ることをマラソンと呼ぶ人は可成り多いと思ふ。大衆の慣れの恐ろしさだ。

7 草競馬見物のこと

 十一月頃の麦蒔き前の事と思ふが何かに、とてもきびしい祖父が「今日は学校をヒマを貰って来れば能増の競馬を見に連れて行く」と言はれたので、父母にも、姉兄にも話さず独りヒマを貰って来て、待った祖父と能増まで(五粁弱)歩いて行った。内容は憶えて
ないが落馬した人もあったので危ないなーと思ったのととぱ昇り旗が何本も立ってたのを憶えてる。

内田講『想』 1987年(昭和62)9月記
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