第6巻【近世・近代・現代編】- 第6章:くらし
内田講『想』
1 母の病気 四才
母が脚全体腫れて小川町の医師に診て貰った時、多分三ツ沼迄歩いて(千米位)馬車で小川町へ行ったのだらうが、帰って来て、上り鼻に腰掛け、ぶくぶくに腫れた両脚を見せながら「ああかったるかった、『乳幼児がいたら乳を飲ませてはならない』と言われたよ」と家人に報告した姿今でもはっきりと思い出されます。赤紫に腫れ太った脚、本当に印象的でした。電話も、自動車も無い時です。季節は六月〜八月の間だったと思います。
2 明治四十三年(1910) ハーレー彗星と大洪水 五才
ハレー彗星 家人達は新聞で知ったのでしょう、頻りに箒星の話をする。そうして何か悪い事が起るかもと、心配気(げ)に何かソワソワしてる。当時科学的知識が進まない人も多勢居たので、迷信が相当信じられ、天地が暗闇(くらやみ)にでもなるかの如く思ってた時代。多分六月頃だったろう。家人達が「今夜あたり見える筈だ」と夕食後庭に出たが、何も見えない。と、裏口へ出た誰かが「あ!!見えた見えた」と叫ぶ。一同ガヤガヤと行って見るとよく見えた。家と山とのホンの僅かの隙間に、相当大きくぱはっきり見えた。眞中を縛って両端がばらけた様に一米位の長さ、二本―四本位の光る棒状のものに点々と光る物が着いていた様に覚えてる。今迄大人達が何か起るかもと、言ってた故か背中が寒くなる様なきがしたったが、毎晩夕食後見上げたもの。而し何日位見たかは全然覚えてない。
大洪水 多分八月だったでしょう。毎日々々雨の続いた或る日蓑笠跣(はだし)の父が「大水だ。大沼の堤が切れるかも知れない。膝っきし水が越してる。大沼の堤が切れるかも知れないから、大沼へ集まる様にとの觸れ継ぎを出すんだ。講、お前は穂切谷の家へ行くんだ」。穂切谷の家は、田、畑、山と五百米位前方の家、私には十四才上の兄(草津に行ってた)、九才、六才、上の姉と三才上の兄が居たのだがこの時家に居たのは私だけ。私も蓑笠跣で駆けて行きその旨を傳えた。家に戻って少し経つと沼下耕作者が皆夫々蓑(みの)笠跣で鍬を担いで急ぎ足で沼に向ふ。[その]人達を眺めて俺も役に立ったなーと思ってた。この年沼の堤は切れなかった。唯後で非常に寒かったのを記憶してる。3 越畑学校 四〜五才
当時の学校は南の杉山、北の越畑学校とのニ学区だった。尤も越畑学校と言っても本校は今の坂本幸三郎氏宅の前、水田の北側にあり越畑の後といふ小字名の地に、朝鮮へ引越して空き家になっていた相当大きな農家がありそれを使っていた。三つ上の兄に連れられて見に行ったのだが、吉田の学校は長い間口で如何にも学校らしく見えた。が、庭は、相当傾斜していたったと思ふ。その下の端つまり水田に近い所に廻りブランコ、大地から四本足で立ってる木目丸出(もくめまるだし)ほ木馬、があり更に遊動円木が一台あって、兄に勧(すす)められて、それでも落ちずにワったが、二度ワる気はしなかった。又後(うしろ)の船戸家を利用した方にも兄に連れられて行ったが、昇降には廐が使われてた事だけをよく記憶してる(当時馬を持ってる農家は殆どが馬と同居、つまり大体家は南向きに中心に作られるから、東端に厩が作られる。私の生家もそうだった)
4 南北合併のこと
亡父兵蔵の言に依ると村に学校が二つあると村全体の仕事が旨く行かない。一村一校がよいと、明治三十六年(1903)頃から話が出たが。日露戦争で中断、戦後間もなく話が持上りはしたものの、勢力争いやら利害関係やらで、遂に村長辞任。郡上山[?]道祖土(さいど)[道祖土半造]氏を派して管掌村長とした(が結局合併統一となった由)。場所は地図四つ折りの頂点となりあの山の中と決定。開校したのは明治四十四年(1911)四月二十三日。少々寒い様の気のする時、児童も夫々机や椅子を運んだのを私は家の前の道から眺めていたのが思い出されます
5 開校祝賀会と開校記念日祝賀会
開校祝賀の細かい事は憶えてないが、寒い時、水田はカラカラに乾いていた事は憶えている。中で一番、否唯一脳裡を離れないのが煙火。当時の揚げ筒は木製だったから、玉の大きさに随って筒が長くなるので地中に埋め立てた。筒の上口に手が届かないので足場を組んで其の上に上がり、玉を入れたり、点火の火種子を入れたりしたのだ。筒は醤油樽を大きく長くした態のもので、太い太い竹の箍(たが)を嵌(は)めたもので玉の大きさは三寸玉が中心的と思われたが、五寸とか七寸で、尺玉は普通はない。このような筒が長い間、秩父宝登山神社に務所の縁下に置かれてあった。今はどうか。煙火を打揚げる時は、煙火師によって朗々と口上がある。これは又素晴らしい聴き物だった。「次なる煙火(えんか)玉名(ぎょくめい)は……」と空に開かれる姿を大声で告(つ)げるのである口上は憶えていないが「つり傘(がさ)が出るとそれを手にしたいので大人も小供も竹竿を持って適当に見当をつけて風下(かざしも)に待機して、打上げられると大騒ぎして奪合ったものだ。此の煙火の筒だが大正八年(1919)に隣りの八和田で、増築落成祝の時見に行ったが鉄製で足場は無かった。
6 祖母の病気
昭和十年(1935)秋八十六才でなくなった祖母が、六十才の時、坐骨神経痛を病み、小川から関根温さんといふ大男の医者が来診された時の乗物(のりもの)が二人曳きの人力車。普通人力車は一人で曳くのだが大急ぎの時とか非常に重い人を乗せた時二人で曳く。この時は正にその両方だったわけ。方法は一人が梶棒(かじぼう)の中に入り一人が梶棒の前の横木に麻縄をつけ三米位前で肩に担いで走る方式(当時物を運ぶのは馬車か(運送車)馬力人の背、だった時代)。此の綱をどういふ譯(わけ)か「馬鹿綱(ばかづな)」と言った。
それから祖母は牛乳を飲んだが、これまた大変なもの。八和田の高谷に然るべき乳牛を飼ってる家があって(七粁位の所)持って来るのだが、当時飲用者がどの位居たか知れないが二重の手下げ桶で歩いて運ぶのだ。外側には冷却用の水、その中に牛乳の入った鑵がある仕組。長い垂直柄(すいちょくえ)のついた多分一合枡(ます)で計ったと思ふ。度々冷却用の水を取り替えたが暑い日等もう駄目。腐ったといって犬に飲ませた事も憶えてる。7 荒川大橋で帆船を見た事 六才
母の生家が御正村(みしょうむら)樋口(ひのくち)であり、叔母が熊谷市に住んでいたので「講も学校へ上がれば行けなくなるから」といふので連れて行かれたのだから明治四十五年(1912)三月下旬と思ふ(当時の一学期は四月一日始)。叔母の家では夜活動写真を観た。内容は全然記憶にないが何回かピストル(勿論紙製のカンシャク玉)が鳴らされたのは憶えている。連鎖劇(れんさげき)と称して相当流行っていたのだろう。叔母の家からの帰路、明治四十三年の大洪水で流された荒川の假橋の下流に白い帆掛船が浮かんでたのもはっきり記憶している。一つは眞新しく白かったが一つはうす汚れで黒っぽかったのも。
内田講『想』 1987年(昭和62)9月記