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第6巻【近世・近代・現代編】- 第6章:くらし

第2節:回顧録・作文

大塚基氏「私の100話」

71 蚕屋の煙突と屋根裏

 我家の大きな麦わら屋根の蚕屋には6尺×4尺よりも大きいと思われる煙突がありました。
 その煙突にたどり着くには階段で2階に上り、2階からはしごで3階に上がって、3階から籠などを足場にして、屋根裏の枠組みの横棒によじ登り、その上の横棒によじ登りしながら行かなければなりませんでした。
  ちょうど煙突の下に棟木があって、そこに腰をかけて、煙突の扉を押し倒すように開くと、古里の耕地が小川町の西古里から江南町の塩の方まで一望に見渡すこ とができました。私が何時頃から蚕屋の煙突に行くようになったのかは思い出せませんが、屋根裏の枠組みの横棒を一つ一つクリヤーして上に登って行って、煙 突にたどり着こうとする冒険心と体力が一致した小学3〜4年生頃からではないかと思っています。
 蚕屋の煙突まで登って棟木に腰掛けて外を見渡すと、新しい世界が其処にあるように思えました。そこでちょっと間が出来たときなどに登って、新しい世界を見渡すような面持ちで、屋根裏の煙突の下の棟木に腰掛けては外を眺めました。
 そこから宿題の絵を書いたこともありました。
 それに屋根裏には、ぼろぼろになった茣蓙に包まれた鞘も痛み刀身も錆付いている2本の日本刀が差し込んでありました。初めて刀を見たときはビックリ魂消ましたが、興味しんしんで、時々刀を鞘から抜いてみて刀の重さを確かめていました。
  大人になってから父から聞いた話では、2本の刀は先の大戦の敗戦処理として、米軍の刀狩が始った時に、「どんなに隠しても金属探知機で探し出し、違反した ものは大変な罰を受ける」と言うデマが流言したので、見つからないように蚕屋の裏の樫の木の根元に何年も埋めておいたので錆びてしまったのだそうです。火 縄銃もあったそうですが、それは命令に沿って供出してしまったのだとのことです。
 他にも屋根裏にさしてあった物があったような気がしますが、思い出せません。
 いずれにしても、蚕屋の屋根裏と煙突は、子供の頃の遊び場でした。

大塚基氏「私の100話」

72 屋根の葺き替え

 昭和30年代後半頃からボチボチと麦わら屋根の家屋の建て替えが始まり、かわら屋根などに変わってゆきました。しかし昭和40年代頃までは何処の家も麦わら屋根で、我が古里集落も麦わら家屋が軒をならべておりました。
 私の家は、母屋がだいぶ傷んでしまったので昭和38年(1963)に建て替えて瓦葺にしました。しかし、それまでは母屋も蚕屋も牛小屋もみーんな麦わら屋根でした。
 ですから、どこの家でも麦を作り、麦わらを家の周りで天日干しして納屋などに保管しておきました。そして麦わらの量のことや手伝いの手間のことなどもあって、いっぺんに屋根の葺き替えができずに毎年少しずつ屋根の葺(ふ)き替えを行なっていました。
 私の家でも、田植えが終わり麦の脱穀が終わって梅雨が明けると、麦わらを我家の母屋と蚕屋の間を走る県道(旧県道)に、家から消防小屋(旧)までの100mぐらいの両脇に干して乾燥させて牛小屋の屋根裏などに保管しておきました。
  旧県道は乗り合いバスも走っている主要県道でしたが、まだまだ一般的には馬車、牛車が幅を利かす時代でした。自動車が走るのは稀で、道路は牛車の轍(わだ ち)で砂利を砕いて舗装道路のように踏み固めるので埃(ほこり)もたたなかったので、県道の両側には麦わらだけでなく安心して稲籾も麦も干せました。
 屋根の葺き替えは、屋根屋さんも農家の副業にやっていましたし、農家も忙しい時に来てもらっても困るので、農作業のなくなる冬場の仕事でした。
 そして、私の家に来てくれるのは、西古里の親戚のおじいさんで、来てくれる時期は決まって5月下旬から6月上旬ころの春蚕が忙しくなる頃でした。
 親達はその理由として、「頼まれた家に行くのに農家が忙しくなってからでは悪いから、濃い親戚が最後になるんだよ」と言っていました。その話を子供心にも納得していました。
 しかし、農作業が忙しくなってからの屋根屋さんの手伝いは、子供が頼りになります。
 屋根屋さんは、いつも親戚のおじいさんが親方で子分の屋根屋さんを1〜2名連れてやってきました。そして屋根屋さんが来ると、いつも私が頼りにされました。
 屋根屋さんは、初めに稲株を吊るすはんでい棒で足場を組んでから始めます。足場を組み終わると、屋根の古い麦わらを剥ぎ取る作業と合わせて麦わらを屋根の上に上げる手伝いがあります。そこに私の出番があり、一生懸命に手伝いました。
 そして、麦わらの取替えが始まると屋根裏に陣取ります。麦わらを屋根にしっかりと固定させるために、屋根裏の垂木棒に巻きつけ縛り付けるための作業の手伝いです。
  先のほうの穴に縄を差し込んだ槍ん棒を、屋根屋さんは屋根の表から屋根裏に差し込みます。屋根裏にいる私は、その槍ん棒に差し込まれている縄を抜き取り、 ハイとかイイデスとかの縄を取り外した合図を屋根屋さんにおくります。すると屋根屋さんは、槍ん棒を抜き取って、次の屋根裏の垂木棒の間を目がけて槍ん棒 を差し込んできます。その槍ん棒がちょうど良いところに来たときには、OKの合図を送って外してあった縄を槍ん棒の穴にいれてやります。
 駄目なときは上とか下とか右とか左とかと、屋根裏の者が、屋根裏の垂木棒に槍ん棒の縄がよく巻きつかるような場所に誘導してやらなくてはなりません。
  それが私の手伝った屋根裏の仕事でした。一生懸命に手伝って、屋根屋さんに褒められるのも嬉しいことでした。それに、屋根の上にもはんてい棒で横に平行し て何本も足場が組まれます。その足場に上っていって外を眺めるのも、煙突に登ってみるのとは気分の違う気持ちの良いものでした。
 また、「屋根の古い麦わらを抜いていたら冬眠している蛇を掴んでしまった」との屋根屋さんの話もいまだに忘れられずにいます。

大塚基氏「私の100話」

73 桑の木の皮むき

 5月になって桑の木の目が吹き始めると春蚕が始まります。そして、稚蚕から中蚕になると給桑のために桑は条桑のまま収穫され、桑置場の前で条桑についている桑の葉を摘み取って桑ざるの中に入れると残った桑の木の皮をむきました。
  また、蚕が大きくなり条桑のまま蚕座に給桑するようになると、蚕座からはみ出した桑の木(昭和30年頃までは年間条桑育でなく、春蚕だけが条桑育だったの で、春蚕の条桑は長く40〜50cmぐらいも蚕座からはみ出した)を切り取り、切りとった桑の木についている桑の葉をもぎ取ると、その桑の木の皮をむきま した。
 木っ端などを台にして、その上に桑の木の切り口を乗せ、皮むきを容易にするために金槌で叩いて傷を付けてそこから皮をむきました。
 そして、むいた皮は天日で乾かして紙の材料として売りました。養蚕組合に売ったのか、農協に売ったのか、それとも業者が買いに来て売ったのか定かではありませんが売りました。
 この仕事は、どちらかと言うと年寄り子供の仕事でした。桑くれが終わると合間を見て一生懸命に行ないました。時にはおばあさんの外に父や母や妹も手伝ったかも知れませんが、賑やかに桑の皮むきを行なうこともありました。
 桑の皮のほかに、晩秋になると長峰沢の畑の土手に生えていたこうぞの木も、紙の原料として切って束ねて出荷していました。
 何年ごろまで続いたのか忘れましたが、桑の皮をむいたり、こうぞの木を切って売ったりした農家の生活が数十年前まではあったのです。

大塚基氏「私の100話」

74 井戸の水源探し

 比企地方の丘陵地帯は概して水源に恵まれておらず渇水期には生活水にも苦労していました。
 私の集落でも例外ではありません。どこの家でも幾つもの井戸を掘って水源を確保してきました。私の家でも、旧母屋の裏の井戸、安藤貞良さんの畑の中にある井戸、それに蚕屋の裏の井戸、私が作ったハウスの中の井戸と4つの井戸を使用していました。
 と言っても、安藤貞良さんの畑の中にある井戸は、昭和40年(1965)に町営水道が引かれて飲料水が豊富になってからは我家では使用しなくなりました。また、蒟蒻屋も昭和46年に駒込のほうに引っ越してからは使わなくなりました。
 今のビニールハウスの北側、ゆずの木の西側あたりに私の子供の頃にはくるみの木がありましたが、父が言うには、その根元あたりにも井戸があったそうです。
 ですから、水源の豊富な井戸を掘り当てることは生活を安定させるものでもありましたので、水源探知機もない時代の水源の探し方は、色々なやり方が伝承されてきたのだと思います。
 私が親から教えられた井戸の水源の探し方は、満月の月夜の晩に、水つぼに水を入れて、その水面に月がきれいに写るところに水源があるといわれました。
 ですから私も、昭和46年に蚕屋の前の畑(今のビニールハウスの中の井戸)に井戸を掘った時は、洗面器に水を入れて畑の中をあっちこっちもって歩きました。そして、その中で一番月の映りの良かったのが今の井戸が掘ってあるところでした。
 そこで、井戸側を用意して、少しずつ井戸側を上に足すような感じで掘りました。そしたら、2尺巾の井戸側を7本入れて深さが4mを超えたときに、土壌が砂目に変わり水が噴出してきました。そこで掘るのをやめました。
 それから以後、ハウスの中で水を出しっぱなしにして井戸を空にしてしまったこと幾たび、しかし気がついて水道を止めておくと、たちまち水かさが増して使用できるようになります。

大塚基氏「私の100話」

75 天気予報

 私の子供の頃はテレビもありませんでしたので、天気予報は1台の備え付けのラジオで聞くより他に方法はありませんでした。
 私の地方の天気予報 は、熊谷の気象台の予報をもとに発表されていたとの事ですが、器具も技術もまだまだ発達していなかった昭和30年代頃までは、天気予報があまり当たらな かったのかも知れません。熊谷の気象台の職員には失礼な言葉ですが、そんな私の子供の頃には、珍しいものとか心配なものを食べるときには、「熊谷の気象 台、熊谷の気象台」と言って食べれば食あたりをしないですむとの冗談が横行していました。
 そして、天気予報はもっぱら雲の動きで予想していました。
 笠山にどのように雲がかかると雨が降るとか、北西の方向に吸い込まれるように雲が流れていうと入り雲だから大雨が降るとか、自然の流れの中で天気予報を予測していました。そして、それが良くあたりました。
  テレビが普及し、人工衛星から眺めながらの天気予報は、自然の流れを基準とした天気予報よりも当たる確立が高くなり、今ではすっかり昔の予報の基準を忘れ てしまいましたが、今にして思えば、その頃の自然を主体にした天気予報のことをメモっておけばよかったと思うことしきりです。

大塚基氏「私の100話」

76 むじなの嫁入り

 私家の前の耕地向こうの長竹(ながたけ)(嵐山町吉田の小字名)の、ちょうど今ある使用されなくなった米麦乾燥場あたりですが、その辺の山すそを左の方から右の方へぽーとした火の玉がゆらゆらと流れることがありました。
 それを見て、「あれはむじなの嫁入りの行列の灯だ」とおじいさんやおばあさんなどから教えられました。
 ちょうど其処には墓場があって、むじなの嫁入りの灯の正体は、死んだ人の命が人魂となって墓場の中から抜け出しているのだとも言われました。
 そして、むじなの灯が現れるのが夏の夜の蒸し暑い夜であったように記憶しています。
 いずれにしても、私も子供の頃に何回もその光を見ました。怖いというよりも、何か神秘的な思いに駆られたのを覚えています。
 今はどこの家でも電気照明が豊富で、家の外まで赤々と照らし出しています。街灯もそこらじゅうに設置されていて、一晩中何処へ行っても不夜城のごとくに煌々と輝いています。
  そんな明るい現代では、むじなの嫁入りの灯は何処からも見られない明るさとなってしまったのでしょう。街灯なんてまったくなく、何処の家庭でも40W、 60Wの電球をいくつか吊るして生活していた時代だからこそ味わえた話だったのでしょう。もう二度と味わうことが出来ないと思っていますが、その時代の月 の光、星の光は、とってもきれいで明るく神秘的でした。

大塚基氏「私の100話」

77 ひーおばあさん(曾祖母)

 私のひーおばあさんは喘息だったのでしょうか、私の覚えている時にはいつも布団の中にいました。ひーおばあさんの枕元にはいつも小さな鉄火鉢の痰壺が置かれてありました。
 そして私は、いつもひーおばあさんの枕元に居て、ひーおばあさんが痰をしたくなって私に鉄火鉢を頼むと、私は直ぐにその痰壺をとって渡してやりました。
  そのひーおばあさんが亡くなったとき、ひーおばあさんの座棺の上に真っ赤なきれいな屋根が載せられ、その座棺は漆塗りの真っ赤な輿の上に乗せられて家の前 の県道の少し中心から家の方におかれました。親戚や近所の人達の見守る中で、真っ赤な漆塗りのきれいな椅子に座ったお坊さんに拝んでもらいました。
 そして輿が担がれて葬列は家の前の県道で何周りか回り、葬列者が着物の袖から小銭を出して投げました。葬列を見守る人達はその小銭を夢中で拾いました。
 それから、葬列は尾根の常会場(阿弥陀堂)に行き、常会場の庭でも堂まわりをして小銭を投げて葬列は墓場に向かいました。
  ひーおばあさんが亡くなったのは昭和27年2月4日のことですから、私が満5歳と2ヶ月の時のことです。しかし、よほど印象深かったのでしょう。私の母が 生前『基氏は痰壺を嫌がらない』と祖祖母が感謝していたと言っていましたが、ひーおばあさんの枕元に居たことと、痰壺と、葬式の情景は鮮明に覚えていま す。
 私の覚えているひーおばあさんは、布団の中に居ましたが、体を布団の中で動かすことは自由でしたから、まだまだ自分の用は足りていたのでしょう。でも、枕元で自分の言うことを良く聞いてくれるひ孫には、可愛く嬉しく感じていたのだと思います。
 なお、葬儀で拾った小銭は、その日の内に使ってしまわなければならないとの言い伝えもあったので、葬儀のある日は隠居(お店の名前)は混みあいました。

大塚基氏「私の100話」

78 ガラスうけ(筌)

 4月の声を聞いて南からの風が吹き始めると、川の魚も活発に動き始めます。
 子供たちも春の暖かさにつられてガラスうけを川に設置して、小魚を捕ることに目覚めます。
 あちら此方の店でガラスうけを売っていたので、子供は買ってきて川に設置しました。
 設置の方法は、手ぬぐい等の布を四角に切って、ガラスうけの口にかぶせて、ガラスうけの首の所に輪ゴムで止めたり、紐で縛って口を塞いで魚が逃げないようにしました。
  そして、煎って芳ばしい香りをもたした小糠を、小魚が入ったら出られないようにすいはく(当地方ではすいはくと言うが、漏斗と書いてロウト、ジョウゴと呼 ぶ地帯がおおい)の形になっているガラスうけの尻からいれて、魚が居ると思われる場所に持っていって水の中に尻のほうから入れて沈めました。
 ガラスうけの口のところにかぶせた布の目が細かくて、中の空気が抜けずに水が入らないときには、口にかぶせた布に釘などを刺して空気穴を開けて水を入れて沈めました。
 そして、ガラスうけを沈めても引っ張りあげられるように、ガラスうけの首のところに紐を縛り付けて、その紐の端を杭や川辺に生えている木などに縛り付けて固定しておきました。
 ガラスうけを設置する深さは、川の中を泳ぎまわる小魚を対象にするのであまり深くない所にしましたが、場所によっては結構深いところに設置してしまうこともありました。しかしそんな時には、どじょうや海老蟹などが入る確立が増えてきます。
 ガラスうけで魚を取る方法は、ガラスうけを川底に設置すると、中に入れた煎り小糠がガラスうけの尻の穴から少しこぼれだし香りが周りにたちこめるので、その香りに集まってきた小魚がガラスうけのすいはく形になっている尻穴を見つけ出して中に入るというものです。
 入った魚は、煎り小糠を食べるのに夢中になったり、出ようと思っても入った所がすいはくの形になっているので見つからず、ガラスうけの中に閉じ込められてしまうというものです。
  ガラスうけは、ころを見計らって縛り付けてあった紐をほどいてそーと引き上げます。ガラスうけが水面に浮かんできて、中にしらんぺたやあかんぺた、鮒など の小魚がいっぱい入っているのを見つけたときは、「やったー」と言う言葉が自然に口をついて飛び出してしまいます。嬉しさ100倍になって浮き浮きしてし まいます。
 しかし、ガラスうけの中に一匹も入っていないときにはがっかりです。
 でも、もっとがっかりするのは、川底の石などに当たってガラスうけが壊れてしまっていて、紐を引っ張りあげると壊れたガラスうけが出てきた時です。ひどい時には、ガラスうけの首の部分しかないこともありました。
 でも、春になりなんとなく浮き浮きする頃になると、毎年ガラスうけを持ち出して、いそいそと小糠をほうろくかフライパンで煎って前の耕地の中を流れる新川に急ぎました。
 私の家には竹で編んだ筌もありましたので、その中にジャガイモを煮たのを入れて設置したこともありましたが、海老蟹が何匹か入って魚が取れなかったのでやめた記憶があります。

大塚基氏「私の100話」

79 さとうだんご

 私は子供の時に、さとうだんごの楽しみを2回持っておりました。
 1回は、集落の女遊びで作るさとうだんごです。
 春の香りがぷんぷんとしはじめた3月の半ばの頃に、私の集落においても女遊びと言うさとうだんご作りの集まりの行事がありました。
 女遊びのシステムがどのようになっていたのか分りませんが、女遊びの日になると尾根の常会場に奥さんたちが集まって、それぞれの家から注文されたさとうだんご作りをしました。
 そして出来上がったさとうだんごは、それぞれの注文した家に配られました。
 私の家でも、母が持って行った重箱の中にさとうだんごがいっぱい詰まって、母と一緒に家に帰ってきました。
 もう1回のさとうだんごは、学業成就のお寺として有名な熊谷市野原の文殊寺の2月25日の縁日に、野原のりん叔母さんが作ってくれるさとうだんごです。
 電話が個々の家に普及する前のこと、連絡をどうしていたのか知りませんが、文殊様の縁日の日になると家のものから『野原んちに行って来い』と言われて、自転車で野原の文殊寺の近くにある叔母さんの家に行き、用意してあったさとうだんごの包みをいただいてきました。
 女遊びの時に作ってもらうさとうだんごと、野原の叔母さんに作ってもらうさとうだんごは、本当に楽しみでした。そして、待ちわびてもらって食べる美味しいさとうだんごの思い出は、いまだに忘れられないものです。

大塚基氏「私の100話」

80 おなめ

 「紀州名産金山寺あみ清みそ(おなめ)」を食べるたびに、私のお祖父さんの美味しいおなめを思い出します。
 昔は多くの家でおなめを作っていました。そして、それぞれの味を持っていました。
 私のお祖父さんはおなめ作りが上手でした。作ったおなめは、金山寺あみ清(あみせ)みその味をしていました。
 お祖父さんは、初冬の頃になるとおなめの麹を作って、その麹を大きな瓶に入れて日当りの良い縁側の隅においていつも掻き混ぜていました。
 出来上がったおなめは、ご飯のおかずにしたり、ちょっとしたつまみ物にしたりしました。
 夏はとうもろこしを焼いて実をもぎ、おなめの中に入れてご飯の糧にするのが好きでした。その味はなんとも言えないくらいに美味しく、食欲を湧かしてくれました。
  家によっては、お茶菓子のかわりに出してくれて手のひらに載せてくれました。昔はちょっと家の周りへ出歩くのにハンカチなどを持って歩きませんでしたし、 ティッシュなどの手拭用紙などをどこの家でも用意してありませんでした。ですから、おなめを食べて最後に手のひらをぺろぺろとなめて手をきれいにしたので すが、ちょっと抵抗があったのを覚えています。
 おなめ作りの上手であったお祖父さんは、昭和37年(1962)1月11日に急死しました。
 その後、父がおなめ作りに挑戦したのは知っていますが失敗したのだと思います。
 それ以後、我家の食卓からおなめが消えました。
 しかし、頂いたりなどして金山寺あみ清みそを食べるたびに、お祖父さんのおなめを思い出して懐かしくなります。

大塚基氏「私の100話」
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