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第6巻【近世・近代・現代編】- 第6章:くらし

第2節:回顧録・作文

大塚基氏「私の100話」

61 ひるね

 昔はどこの家でも麦わら屋根(茅もあるときは混ぜました)で、家の中は田の字の間取りでした。ふすま障子などで区切られていた家でしたので、夏になって障子を外すと家中を風が吹きぬけました。
 そこで農家の人達は、夏は日が長いので朝早くから起きだして、涼しい午前中に仕事をして、昼飯を食べると3時過ぎまで昼寝をして、その後いっぱいお茶でも飲んでから、暗くなるまで農作業をしていました。
  どこの家でも夏になると、座敷の薄縁の畳を上げて板の間にして涼を求めました。私の家でも夏になると板の間にして涼を求めましたが、板の間にすると雑巾が けを毎日して板床をきれいにしておかなければなりませんでした。そこでおのずと、雑巾がけの主力として子供である私に声がかかり、よく雑巾がけをした思い 出があります。
 そして、その板の間の上にちょっとござなどを敷いたりして、昼飯が終わると家中のものが大の字になって昼寝をしました。子供だった私は、沼に水浴びに行って帰ってから家の人達に混ざって昼寝の仲間に加わりました。
 でも、あの冷たい板の間の感触が忘れられません。それに、麦わら屋根の開けぴろげの家の中を頬を撫ぜながら通り過ぎていく涼しい風の香りも未だに忘れられません。
 瓦葺屋根の家に住んでいた隣りの光一小父さん(祖父の弟の蒟蒻屋)は、「ここんちは涼しいから寝かしてくんない」と言って、よく昼寝に来ました。
 そんな麦わら屋根の私が生まれ育った家も、痛みがひどくなったので、昭和38年(1963)に建て替えて瓦葺屋根にしました。
 しかしそれから以後、瓦屋根はあたためられ、家の中もあつくなって前のように涼しい風を楽しみながら昼寝をすることができなくなりました。そして、光一小父さんの言い分がわかりました。

大塚基氏「私の100話」

62 溝あげ

 今では死後になりつつありますが、水田の中に溝を作って水田を乾田化させる作業のことを溝上げと言います。当地方の粘土質で水はけの悪い水田では稲を収穫するために、麦を蒔きつけるために遣らなくてはならない作業でした。
 昭和50年代頃までは、稲の刈り取りが11月に入る頃から本格的に始まりました。そこで稲刈りが本格的に始まる前の秋のお日待ち(10月19日で神社の秋の祭典がおこなわれる。)を目処に、どこの家でも稲の刈り取りを安易にするために溝上げを始めました。
  この作業は、排水口を起点として排水溝を作るところを1mぐらいの巾で溝刈り(稲の刈り取り)をして、その後に草刈り鎌の刃を土の中に全部差し込むような 感じで30cmぐらいの平行した線を引きます。そしてその線の中を万能で掘り取って溝を作り、溝の中の不平らなところを鍬などで平らに浚って水田の排水を はかりました。
 溝は水田の中周りに作りますが、大きい湿田では、水田の中を碁盤の目のように、東西南北に何本も溝を掘って水田の乾田化をはかりました。
 また、ぬかるみの中で行なわれるこの溝上げの仕事は、子供の手伝いの対象でもあり、水田を乾田化させて稲の後作として麦を蒔くための準備でもありました。
 子供の頃の溝上げの手伝いで、裸足の底に感じた深秋のぬかるみの冷たさは、それから50年以上の月日が流れても忘れられないものです。
 そして、溝刈りされた稲はハンデイ棒に掛けられて乾かされて、一足早く納屋に運ばれて、その農家の都合で一足早い新米ともなりました。

大塚基氏「私の100話」

63 いっそう作り

 いっそうとは、どのように漢字で書くのか分かりませんが、稲、麦、桑などを安易に束ねる稲藁で作る縄の代用品みたいなものです。縛るところがわらのままなので弾力性もあり、縛るものを束に絡めて結わき目を捻って差し込むだけで縄よりもしっかりと固定できるものです。
  このいっそうの作り方は、10本ほどの選った藁の3分の1ほどの上の方を注連飾りのような感じで縄のように2本なって、その2本の先端を絡ませ結び付け、 そのまた先端を捻ったところを絡ませて結びつけたところの間にできた輪の中に差し込んで、2本の藁を左右に引っ張って作ります。
 作る時間は、雨降りの仕事として、冬場の暇なときの仕事として作りだめしておきます。
 しかし、麦刈りや稲刈りが始まってたりなくなると、夜なべをして作ったりもしました。どうしても忙しい最中になると藁の先端を結わえるだけの安易ないっそうを作って使いました。
 ちゃんと作ったいっそうはしっかりしているので、桑切りなど繰り返される作業においては2〜3回ぐらいは使いますが、その後は蚕の残渣などに使用してそのまま捨てます。
 しかし、強くて便利ないっそうの作り方も、いっそうと言う言葉自体も仕事の移り変わり、社会の移り変わりの中で消え去る運命なのかも知れません。

大塚基氏「私の100話」

64 つばめ

 私の子供の頃には、春になるとつばめが南の国からやってきていっぱいいました。
 麦刈りが始まると、つばめが麦畑の上にいっぱい集まり、麦畑から飛び上がって逃げる虫をめがけて競争で飛び掛ります。
  田植えの頃になり牛で代掻きを始めると、その回りにツバメがいっぱい飛んできます。そして、水田に巣食っていたオケラやクモなどの虫たちが、代掻きで水の 中に放り出され水面でバチャバチャと泳いでいる虫たちを狙ってつばめが急降下してきます。キュ、キュ、キュ、キュと鳴きながら何羽ものツバメが代掻きの周 りを回りながら、水田の水面でアップアップしている虫をめがけて急降下して無視を奪い合います。
 それはまさに、代掻きのお祭りのようにも思えました。そして五月雨の中で、牛の鼻どりをしながらその様子をいつも楽しんでいました。
 子育て中のつばめにとっては、麦畑も水田も絶好の餌場なのです。
 毎年同じつばめが来るのか、つばめの寿命は幾つなのか知りませんが、5月になると必ず蚕屋の一階の土間の梁のところに一対のつばめがやって来て巣を作りました。2〜3回子育てをして、秋には帰ってゆきました。
 ですから、つばめの来る頃からつばめの子育てが終わるまで、蚕屋の入り口を少し開いておいてやりました。
 土間の真中につばめの雛の糞をいっぱい落とされても、つばめは家族の一員でした。
 ギャーギャーと泣き叫ぶ雛に、親鳥が食事を運んできて、与える仕草を眺めるのも楽しいひとときでした。

大塚基氏「私の100話」

65 さつまいもほり

 私の家でも、私の子供の頃にはさつま芋を畑で栽培して農協へ出荷していました。
 全部で面積は20〜30aぐらいだったと思いますが、岩根沢の畑の東側部分と、上土橋の東部分の一部に作っていました。
 そして、10月下旬の頃になると家族総出で畑に行ってさつまいも掘りをしました。
 品種は、定かではありませんが、食用は「農林?号」と「たいはく」で、でんぷん用のさつまいもは「おきなわ」と言ったような気がします。
  掘り取る前に、まずは芋蔓をまくって、(くるくると後方へつるを巻くように切り取る。)蔓のなくなったさつまいもの畝株をめがけて万能を振り下ろして掘り ます。そして、掘り上げたさつまいもの土を払い落として、良いものと悪いもの(傷物や小さいもの)を分けて所々においておき、最後に集めて俵につめて、牛 車に積んで所定の場所にもって行って出荷しました。
 食用のさつまいもも出荷したと思いますが、食用のさつまいもは、納屋の中に作った保存用の竪穴に入れて、穴の上に丸太棒を敷き、その上をむしろや藁などで蓋をしました。寒さに弱いさつまいもが悪くならないように保温したのです。
 さつまいもが冬場の主食という訳ではありませんが、仕事休みに食べたり、具の材料にしたり、乾燥芋にして保存したり、今のように何もかもの食べ物が豊富な時代と違って、楽しみの食べ物でした。
 また、食用のさつまいもは、農協の斡旋で東北地方のりんご農家に送られたのだと思いますが、毎年りんご(紅玉)一箱と交換して、お正月のかけがえのない楽しみの果物としました。
 さつま芋はりんご1箱とさつま芋なん俵と交換したのか知りません。
 いずれにしても、さつまいも掘りは、秋も深まり初霜の便りが聞えてくる10月中旬頃に行なわれ、さつまいもが収穫された畑は整地され麦まきが行なわれました。

大塚基氏「私の100話」

66 熊谷の花火

 松と松の間から丸いものが出てきたと思うとパンとはねる。みんなが「今のはきれいだった」と「わあ」とかんせいをあげる。ちちばしのほうからも「わあ」というかんせいがこっちのほうまできこえる。
 これは、私が偶然に昭和34年の中学一年生の夏休みの作文集を見つけて、平成6年に編集発行した「ある夏休みのことです」の中の私の近所の女の子が書いた作文の一部分です。
 私の子供の頃は、車もなくテレビもなくお金もなくて娯楽の少ない時代、熊谷の花火大会と言うと大人も子供も楽しみの一つでした。ですから、花火大会の見える高台などにみんなで集まって花火大会を一緒に見て楽しみました。
 この作文の中のちちばし(上土橋)と言うのが、尾根台より400mばかり北東にある江南地区板井が望める私の家の畑沿いの農道のことで、熊谷の花火には毎年たくさんの部落の人がうちわを持って集まりました。
 その頃は、山の中もきれいに管理されておりましたので、子供たちは花火の観賞とともに山の中を駆け回ったりガシャガシャ取りをしたりもしました。きれいな花火が上がると「わいわい」しながらみんなで喜び合いました。
 私も、熊谷の花火の時には、家の前の耕地を隔てた高台ののうてん坂にも行ったことがありますが、もっぱら上土橋に行っての花火見学でした。
  上土橋の花火見学のところの畑に一度だけスイカを作りました。スイカが大きく生ったので、そろそろ食べごろだと思ってとりに行ったらなくなっていました。 これがちょうど花火大会の頃と重なっていた時期だったので花火大会で見つかってしまって、戯れに盗まれたのかなとの思いが、未だに頭の中に残っています。
 ともあれこの頃は、自家用車なんて考えもつかない時代、行動範囲も限定されていて娯楽も少ない時代でしたから、熊谷の花火大会は大人も子供も楽しみだったのです。
 今から考えると、その頃は近所の交わりも深く、近所の人達はみんな根っこまで知り合う仲でしたので、何の気兼ねもなく付き合い助け合っていた時代だったのかと思われます。

大塚基氏「私の100話」

67 野良弁当

 私の子供の頃の農作業の運搬用具は主に牛車でしたので、牛の歩みに合わせての野良通いは、近い長峰沢の畑でも片道20分ぐらいかかっていました。
 ですから、岩根沢と上土橋の畑の中に麦とサツマイモを交互に栽培する20〜30アールの畑がありましたが、其処の麦の刈り取り、サツマイモの掘りあげ、そして麦蒔きの時の時間のかかる仕事の時には必ず弁当を持参していきました。
 それは、仕事の時間を多く確保して仕事の能率をあげようとすることだけでなく、往復の時間を休憩時間に当てて体を休めようとの生活の知恵でもあったのだと思います。
  やましの時も山弁当をしていましたが、真冬の弁当と違って初夏の香りいっぱいの青空の下での家族総出の麦刈り、また寒さ深まりわびしさが漂い始めた晩秋の 中でのサツマイモ掘り、麦まき時の野良弁当、母が早起きして作ってくれた弁当を山から取ってきた木の枝などを箸にして食べる野良弁当は、またまた格別な味 がしました。
 なお、野良弁当を食べて作業して収穫した麦は、家で脱穀、精麦し俵詰にして、自家用分を残して出荷しました。食用のサツマイモは、納屋の中の保存用の竪穴に入れて保存しておき、その中から出しては食べました。
 そして、「おきなわ」と言うでんぷん精製用のサツマイモは俵に入れて農協に出荷しました。
 また農協を通じてだったような気がしますが、食用サツマイモとりんご「紅玉」一箱と交換しました。何年続いたのか分りませんが、子供にとってはとても楽しみのりんごでした。

大塚基氏「私の100話」

68 花祭り(潅仏会)

 お釈迦様の誕生日は陰暦で4月8日です。
 しかし、花祭りの頃は若葉あふれてつつじが咲きそろっていましたので新暦で1ヶ月遅れの5月8日だったと思います。
 小学校が半日で終わり、お寺に行くとお寺の本堂に誕生仏の像が飾られ、その像を入れた小屋の屋根はつつじの花できれいに飾られていました。
 そこで甘茶を誕生仏の像に頭から注いで手を合わせて供養しました。
 本堂の中の東側にちょっとした舞台があって、その上で学年ごとだったような気がしますが、みんなで学校で習った童謡を歌いました。
 誰がどのように主催したのか、また観客を呼びかけてくれたのか分りませんが、舞台の前にはおじいさん、おばあさん達がいっぱい座っていて拍手をしてくれました。
 そして、お寺の前の庭には、つつじがきれいに咲いていました。
 それはおぼろげながらの思い出ですが、昔は子供の頃から菩提寺と檀家の関係が強く結ばれていて、お寺に親しみを持っていました。
 今でもお釈迦様の誕生を祝う花祭りが毎年5月8日にお寺の本堂で行なわれております。しかし、お寺の関係者の努力にも関わらず、お寺の総代さんとお寺の近所の人が少しきただけの、その頃と比較すると何とも寂しい花祭りに思えました。

大塚基氏「私の100話」

69 我が家のねずみ

 私の家では未だに我が家の家ねずみと同居していて、いろいろな物を食べられたり齧(かじ)られたりすることもありますが、本体を見かけることはほとんどなくなりました。
 しかし昔は、ねずみと共生している実感がありました。暗くなり静かになると、屋根裏から家の梁(はり)づたいにそろそろと現れました。まだ家族が起きているのに右や左や上や下をキョロキョロと首を振るような仕草で何かないだろうかと探しはじめました。
 裸電球の下で宿題などやっている時などに、大神官様の棚に大きなねずみがぞろぞろと並んだこともありました。
 そして蚕屋(かいこや)にもねずみがいっぱいいました。季節ごとに収穫され山積みされた脱粒前の米麦、豆類などを失敬したり、厳重に保管されている米麦、豆類などをねずみ小僧に負けじと狙います。
  ですから、そのねずみを狙う青大将蛇も蚕屋の屋根裏には巣食っていました。時として蚕屋の屋根裏の梁をゆっくりと移動して居ることがありました。蚕家のひ さしに積み上げられた燃料用の条桑束の上に赤みを帯びた大きな青大将がたぐろを巻いて動かないので、父が壁の隔てた家の中に、線香を立ててその臭いで追い 立てたことも思い出にあります。なんとも、私の子供の頃は、人とねずみと蛇が共生している生活がありました。
 そして、そんな生活の中に、私の妹の武勇伝が生まれました。
 春になっていよいよ蚕の季節になるので、蚕の掃きたての準備のために蚕屋の中を片付けていたときのことです。私も一緒になって片付けていたのですが、父が土間にあった米俵等を片付けていたところが、行き場を失ったねずみが飛び出したのです。
 その時、土間で遊んでいた幼い妹がとっさに手を出して、無意識にねずみの首元と背中をしっかり5本の指で掴んでねずみを捕らえたのです。
 ねずみを掴んで呆然とたたずむ妹の手の中で、ねずみが足をバタバタとして首を振っていやいやをしていました。
 そして妹は、ねずみを取った手の指がねずみに食い込んだまま、驚きで手がぎこってしまってねずみを放すことが出来ずに、「とっちゃった」と言って今にも泣き出しそうな顔になっていました。
 そのあと、どうしたのか思い出せませんが、父が妹の手からねずみを外し取り上げて処分したのだろうと思います。
 しかし、ねずみの話になると妹のネズミ捕りのことが思い出され話題になります。

大塚基氏「私の100話」

70 相生の松 大塚基氏

 相生の松(あいおいのまつ)は、古里の上土橋の私の家の畑の側の安藤貞良さんの山にありました。夫婦松とも言われ、男松と女松が抱擁しているかのごとくに絡み合っている姿は、夫婦和合の象徴として素晴らしい景観を醸(かも)しだしていました。
 それは、古里の鎌倉稲荷神社への参拝に行きかう人々の目にもとまり、夫婦円満、子宝を願う人達が近郷近在だけでなく遠方からも御願いにやってきたそうです。
 私の子供の頃は、相生の松も老齢による衰弱により先端からの木枯れも進んでいて、往年の元気な姿の面影を失いつつありました。しかし、我家の畑の隣の山にあったこともあって、相生の松に登ったりして松の周りでよく遊びました。
 ですから、相生の松が昭和33年に300余年の一生を終えて切られたことも知っています。松が切られた時に、松が絡み合っていた辺りに洞があって、その中に蛇が巣食っていたとの話も聞きました。
 その後、山林の所有者であった安藤源蔵さん(貞良さんの父)が、夫婦松2世の誕生を夢見て男松と女松を組にして相生の松の切り株の周りに何箇所か植えたようですが、育たずに枯れてしまったようです。
 しかし相生の松の勇姿は、飯嶋四郎次さんの写生絵として残っています。
 いずれにしても、古里の相生の松の容姿は江戸時代から昭和の時代まで、長きにわたって夫婦和合の象徴として、人々の信仰の対象として存在していました。
 そして、その松がなくなった今、相生の松の下で遊べたことを幸せに思っております。

大塚基氏「私の100話」
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