ページの先頭

第6巻【近世・近代・現代編】- 第6章:くらし

第2節:回顧録・作文

大塚基氏「私の100話」

51 藤塚の阿弥陀如来像

 昔の古里から寄居町に抜ける主要街道は内出から柏木沼の弁天様の西側を通って馬内に通じる道路でした。
 ですから、その道路沿いには沢山の石仏や馬頭観音などの板碑が建っていて、往時の主要道路ぶりを忍ばせます。そして、藤塚の阿弥陀如来様は柏木沼の弁天様から馬内にむかって150mばかり進んだ、その道路沿いの左側の山の中に道路に向かって建っております。
  我が家の行事として、お正月の初詣には御嶽様にお参りした後、御嶽様の裏の道をぬけて、阿弥陀如来様にお参りして柏木沼の弁天様にお参りするのがコースで した。そして、阿弥陀如来様にお参りするときには、父は口癖のように「重輪寺が今のところに出来る前にあったところ」だと言いました。
 そこで、 周辺の山林の所有者を調べてみましたところ、馬内にぬける道路と、御嶽様への進入道路との交差する地点を中心に奇妙な形で5筆の重輪寺所有の山林があり、 その中心部の山林の中に阿弥陀様が鎮座していました。ここに重輪寺(阿弥陀堂かも)があって、そこのお坊さんであった開山和尚が、ここを起点に布教をして 重輪寺を開基したとの説話も頷けます。
 いずれにしても、重輪寺が開基されたのが、豊臣秀吉が没した前年の慶長2年(1597)で、我が家の最初 の仏様が天正10年(1582)、初先祖様が文禄3年(1594)没ですから、古里に土着した我が家の先祖様が藤塚の阿弥陀様に関わっていたことは当たり 前のことですし、父がいつも「明治時代に重輪寺が焼失するまでは、重輪寺の位牌堂の正面に我が家の大きな位牌があったのだ」と言っていました(開基に功が あり位牌堂の正面に有った位牌の中に重輪寺が開基したときの我が家の当主であった茄兵衛の名があり納得)が、重輪寺の開基に携わった先祖様は、藤塚に鎮座 する阿弥陀如来像を深く信仰していたのだと思います。
 ですから、我が大塚家の先祖様の信仰が、いまだに引き継がれてきたのかも知れません。なんとも、気の遠くなるような話ですが、深い関わりを感じます。

大塚基氏「私の100話」

52 小便町

 古里には通称小便町と昔から言われてきた地域があります。
 その地域は、昔から賑やかな町並みが並んでいたわけではありませんし、トイレが並んでいた訳でもありません。しかしその地域は、小便町と言われてきました。
 そこで何故に「小便町」と言われてきたのかと、その昔のその地域の状況を思いその理由を推測してみました。
 小便町と言われるところは、熊谷宿(現熊谷市市街)と小川宿(現小川町市街)とをつなぐ主要街道(現主要県道熊谷、小川、秩父線)に沿ってあって、昔は嵐山町古里の尾根集落と熊谷市塩集落との間に挟まれた、人家が一軒もない平らな平地林の続くところでした。
  ですから、街道を往来する人々が催してしまったお小水を安易に放水することを、住宅の建ち並ぶ古里集落や塩集落の中を通り過ぎる時には、何処から誰に見ら れているか分らないのでためらい、じっと我慢するのですが、人家から離れた小便町に差しかかると、心おきなくお小水をとき放すことができたのでしょう。
 そこで、そんな人が次から次へと賑やかなほどに沢山いたので、何時のころからか、誰言うとなく小便町と言われるようになったのだと思われます。
  今や新興住宅街の様相を見せて、沢山の人家が建ち並んでいますが、その賑やかさをもじっておまちだからとの冗談も飛び出します。しかし、昔のその地域のこ とを思い、お小水を我慢しながら歩いてきた老若男女の通りびとが、小便町にたどり着くと忙しく木蔭に駆け込み、用を足すその有様を思い浮かべてみると、飯 嶋四郎次さんの灯籠絵の世界に引きずり込まれるような心持にもなって楽しくもなります。
 今では人家が建ち並び、自動車が矢のように走り、徒歩で往来する旅人の姿も消えて、忙しく道路わきに駆け込む人も見受けられなくなり「小便町」は死語となりつつあります。でも、昔のその地域の風色を物語る言葉として言い伝えられてきました。
 なお、小便町の場所は内緒です。

大塚基氏「私の100話」

53 粘土シャンプー

 まだ私が小さかった昭和20年代の後半の頃まで、私の祖母やおばさんは粘土で頭を洗いました。そこで、たのまれて粘土を取りに行ったのを覚えています。
 場所は長峰沢の谷津の西側の山沿いを流れる小さな小川で、その小川の水にえぐられて露出した青みがかった粘土を手で掘り取りました。そして掘り取って来たぬるぬるとしたその粘土で頭を洗うと、とても気持ち良いと祖母やおばさんから言われたのを覚えています。
 頭髪用の洗剤が広く普及するようになると、何時の間にかそんなことも無くなりましたが、まさに良質な粘土シャンプーでした。
  でも、ぬるぬるとした肌触りの良い粘土は、ファンデーションや口紅、マニキュア、保湿クリームなどの材料として利用されているように、頭髪にも肌にも潤い を与えてくれる性質を持っていたのです。ですから、その粘土を生活の中に取り入れてきたのは、古の昔からの長い間の経験から生まれた生活の知恵であったの だと思います。
 また子供の頃は、子供に引き継がれた場所(残念ながら忘れました)から黄土色の粘土をとってきて、神輿などを作ったりして遊びま した。でも掘り出してきた粘土は直ぐに乾いてひび割れて形が崩れてしまうのでせっかくの作品が駄目になってしまいます。そこで湿気を保つために粘土に塩を まぜたような気がします。
 私の思ってきたことが正しいかどうか、いつか粘土に少し塩をまぜて、湿気が保てるかどうかやってみたいと思っていますが………。
 いずれにしても粘土は、その特性からいろいろな利用方法がありますが、自然のままで生活に生かした使い方もあったのです。

大塚基氏「私の100話」

54 さわ蟹とえび蟹

 古里の山の中の沢の水が流れる小川には、いまだにさわ蟹が生息していると信じています が、地元でさわ蟹を見かける機会が無くなって久しくなります。でも、昔は人家の周りの普段は水が流れないような小さな水路にもさわ蟹が生息していて、思い もかけないところからさわ蟹が出てきてびっくりしたり、こんなところにも居るのかと思うことがたびたびありました。そんなさわ蟹を家に持ち帰りビンなどに 砂利などと一緒に入れて楽しんだこともありました。
 しかし、それよりも夢中になったのがえび蟹とりでした。えび蟹は我家の前の水田耕地の中央を流れる新川にも、田んぼの中を流れる小さな水路にもいっぱい居ました。ですから、居そうな所を網でさらってみたり、堰の壁を登ってきたえび蟹をすくってとったりしました。
 でも、えび蟹を捕るのに一番の方法はえび蟹つりでした。
  えび蟹つりの方法は、手頃の長さの篠ン棒などを釣竿として見つけて紡績糸(細くて強い糸なら何でも良い)を結わえ、糸の先に釣り餌として煮干しとか殿様蛙 を捕まえて蛙の足の皮をめくってつけました。タニシの身を取り出して糸につるってえび蟹釣りをしたこともありました。スルメの足をつけた餌はえび蟹つりの 餌としては最高品でした。
 釣り餌をつけた釣り糸をえび蟹の居そうな所に下ろすと、えび蟹が餌にかかると手ごたえが釣竿に伝わってきます。そこで 釣竿を引き上げると、釣り餌にえび蟹がしっかりとしがみついたままあがってきます。そこで逃げないようにそっと陸に上げて捕らえるか、網でさくって捕獲し ます。そして、捕ったえび蟹は家に持ち帰って、卵を沢山産むように鶏にくれました。
 えび蟹は、実益も兼ねていた子供の遊びだったのです。

大塚基氏「私の100話」

55 うどんつくり

我家の夕食は、ほとんど毎日うどんです。物日(正月とかお盆とかの)には、その物日の主役である神仏にお供えする献立が決まっていますので、昼にうどんを食べて夜にご飯という日も多々ありますが、年間365日のほとんどの日にうどんを食べます。
そしてうどんを作る小麦粉は、自家生産した麦であることに拘(こだわ)って毎年10a位の農地に栽培していますが、その麦はらんざん営農で刈り取ってもら い、2〜3日ばかり天日乾しして水分が14%以下になったら唐箕で調製し保管しておいて、保管所から1〜2袋(1袋30kg)ずつ農協の製粉工場へもって いって小麦粉にしてもらって使用しています。
この、夜はうどんを食べるのだとの我家の伝統は、私の子供の頃にはすでに定着していました。しかし、夏場は麺切り機械を利用して今と同じように細長い普通 のうどんを作って茹でた季節の野菜を糧にしましたが、冬場になるとひ(へ)ぼかー(ひもかわが訛ったと思われ、ひもかわにこみうどんのこと)でした。ひぼ かーは小麦粉を捏ねて麺棒でほどよく伸ばして薄くしたら麺棒を横に置き、魚の背に包丁を入れるような感じで背を割いて麺棒を取り出し、右方から2センチ程 度の巾に包丁で刻んでつくります。
それを煮干しで出汁をとった鍋の中に、季節の野菜などの具や野良帰りに道端で採ったキノコなど、時には廃鶏とするにわとりを料理(今では考えられないこと ですが、にわとりが弱ったり死んだりすると料理しました。鶏肉は鶏肉としてジャガイモなどと煮てご馳走でしたが、鶏の骨は回りにたかっている肉と一緒に鉈 で刻んだり、鉈の背でたたいたりして細かくし、肉団子にしていろいろなものと煮込んで食べました。)した肉などいろいろな季節のものを入れて煮込んだ中に うどんを入れて煮込んで食べました。
ひぼかーはいろいろな具がふんだんに入っていて良く煮込まれているので、寒い季節には体中がホカホカするこくのあるご馳走でした。
そしてひぼかーは、温かいときだけが美味しいのではなく、夕飯に食べ残って冷えても美味しかったので、次の朝にご飯と一緒に食べるのも楽しみの一つでした。
そして、夕食作りには子供も加わっていました。農家はいつも農作業が忙しいので、自ずとあまり技術と力を必要としないうどん作りは子供の役割となったのです。
記憶はあやふやで農閑期には母がやったのだと思いますが、私も6歳違いの叔父から夕食のうどん作りの担当を小学5年生の頃に譲り受けて、3つ違いの妹が夕食を手伝うようになるまでの小学6年生まで行なった記憶があります。
いずれにしても、昔は家族総出で家業を支え、家族を支えていました。
勉強しろ勉強しろと言って、子供を家族の生活と分離した場所に置いておくなんてことはありませんでした。

大塚基氏「私の100話」

56 はたおり

 昭和41年(1966)に到来した26号台風で倒壊してしまった我家の蚕屋の隅に、農閑期に 機織りに使用する繭(主に玉繭や汚れ繭)などを保存するために、下に炭を入れて、上に繭をならべた竹かごを差し込める9尺真角ぐらいの乾燥施設がありまし たが、昔は女の仕事として、どこの家でもはたおり機械があって、農家の副業として機織りが行なわれていたのだそうです。
 ですから、娘の縁談の中で機織りの器量も判断の基準になっていたとの話も聞きましたが、昔の男衆の夜遊びでは、機織りをしている娘の所に押しかけて機織り娘と談笑をするのも楽しみの一つだったとのことです。
 そして、私の家でも私が物心ついた昭和20年代半ばまでは祖母が機織りをしていました。
 機織り機は母屋の入り口を入って上がり端の次の部屋の南側に縁側に沿って西側を向いてありました。
 小さかった私は、その機織り機の中に潜りこみ、探検隊員気取りで行ったり来たりして遊び場にしていました。普通の機織り機でしたが、小さな私には大きな機械におもえました。
 祖母が機織り機に腰を下ろして足で機織り操作を始めると張ってある縦糸上下に開き、その間を祖母は素早く糸車を潜らせ、その糸をトントンと機織道具で手前に寄せ打ちつけるような感じで布を織ってゆきます。
 私は、その糸車がシューという音をたてて糸の間を走りぬけ、その糸がトントンと寄せられてどんどんと調子よく布が織られていく様を感心しながら何時も祖母の側で眺めていました。
 また、繭を鍋の中に入れてゆでて、その煮えたぎった鍋の中から繭の糸口を何本か見つけて、それを手繰りながら一本の糸にして糸巻き機に巻きつけていく祖母の手の動きと、糸を引かれて鍋の中でくるくると踊っているような繭の様子を面白くいつも眺めていたものです。
  ちっちゃかった頃の思い出として、祖母が煮えたぎった繭鍋から糸を取り出して糸車に糸をくくる様子と機を織る様子、そして機織り機の中を潜り抜けて遊んだ ことが思い出されますが、そのことの思い出が断片的なので、その頃の我が家の機織の事をもっと知りたくなりましたが、父が呆けてしまって聞けないのが残念 です。
 しかし、風呂に入る手ぬぐいが、家で織った絹の手ぬぐいであったことは覚えています。

大塚基氏「私の100話」

57 お風呂

 昔のお風呂は、どこへでも簡単に動かせる風呂桶が主流で、風呂桶の側にタライがあって、たらいの中に足場台がおいてあるというものでした。どこの家でも母屋の片隅の影になるようなところにありました。
 そして、母屋にも蚕を飼っていたので、蚕が大きくなって蚕座が広がってくると、蚕に風呂場が占領されるので、軒下や物置の片隅に周りを囲って仮の風呂場を作りました。
 私の家の風呂は、母屋とは県道(一級県道熊谷・小川・秩父線)を隔てて一段下がった大きな蚕屋の中にありました。と言っても、風呂桶が足場台の入っているたらいとともに広い土間の中ほどにおいてあるというものでした。
 ですから我家でも、蚕が大きくなると蚕屋の中が蚕でいっぱいになるので、風呂を前の軒下に出してまわりを戸板などで囲って風呂場にしました。
 そして、蚕の時期を過ぎると、また蚕屋の中に戻しました。
  ですから、屋外に備え付けられた風呂に娘が入ったのを知った夜遊びの男衆達が、みんなで田んぼの真中まで担いで行っておいてしまったとの話しを、私より幾 昔〔一昔が10年〕か前の若衆から酒の席などでよく聞かされました。風呂に入っていた娘さんは、裸のままなので風呂から出るに出られず、困ったでしょう が、どうなったのでしょうか。その結末は聞いたような気がしませんが、どうしたのか心配です。
 いずれにしても、昔はどこの家でも風呂桶のお風呂で母屋の隅にあり、仕切りがあれば最高でした。
  そして風呂水は、今のような水道はありませんでしたので、井戸なり溜池などから水桶等で汲んでこなければなりませんでした。それに毎日入れ替える手間もあ りませんでしたし、それよりも豊富でない水を使用していましたので、少なくとも2〜3日は風呂水替えをしないで風呂水を汲み足すだけで使用していました。
 子供の頃に、風呂の中に突っ込んだ棒が垢で立つようになったから、風呂水替えをしなければとの笑い話があったのを覚えていますが、水の少ない地方だったので、渇水期になると一週間位はそのままで風呂をたてざるをえませんでした。
 また、風呂の中の垢をすすると体にいいとの話も聞いたことがあります。
 私の家は、井戸の水がなくなると、今の尾根入り口のバスの停留所あたりにあった小さな池「たにあ*1」 の水を汲んで風呂に入れたのでそれほどでもありませんでしたが、それでも風呂に入る前に風呂水の上に浮いている垢をすくってから風呂にはいり、風呂から出 るときには、体を揺すって体にまとわりつこうとする垢を振るい落して風呂から出た子供の頃の記憶が、今もまだ頭の片隅に残っています。
 それでも、物日には、どんなことがあっても風呂桶を洗い新しい水で風呂をたてました。天王様の日には、昼風呂をたてて、男衆は風呂に入って身を清めてから支度をして神輿を担ぎに出かけました。
 しかし、戦後の著しい経済成長とともに生活様式も大きく変化をはじめた昭和30年代に入ると、ガッチャンポンプの普及で水汲みは楽になり、風呂場の意識も変わりはじめて周りを囲む固定した風呂場が多くなりました。風呂水のたてかえも多くなってゆきました。
 特に、水源の少なかった私の地区に劇的な変化をもたらしたのは、都幾川を水源とする昭和48年(1973)に七郷地区を中心として施行された水道工事でした。
 このことによって、水に心配の無い生活となり、風呂も毎日たてかえられるようになって、垢をすくって入るお風呂は、夢のまた夢の昔話となりました。

*1:「31たにあ」を参照

大塚基氏「私の100話」

58 風呂たき

 私の家のお風呂は、母屋の前の県道を挟んで建てられていた蚕屋の中にありました。
 お風呂は、風呂釜のついた風呂桶で、風呂の中に水を入れて釜で火を焚いて風呂水を温めるものでしたから、風呂に入るには、風呂釜に薪をくべて火を燃やして風呂を焚かなければなりません。
 ですから、忙しい農家においては、おのずと風呂焚きは子供の仕事となりました。
  夏の間は、風呂がわくのも早いですし、日も長いし、それに家の者も遅くまで蚕屋に居ることが多いので、火を燃やしつけて置くと家の者がまきをくべたりして くれるので、みんなで風呂焚きをしているようで風呂焚きをあまり感じないのですが、つくづくと感じたのは冬場の風呂焚きです。
 「風呂をわかし て」「風呂の火むしをしろ」と言われて、母屋から真っ暗な蚕屋に行き、だだっぴろい土間にある60Wの電球をつけて、土間の真中に据え付けてある風呂の釜 に火をつけて、一人で火むしをしている時に、木枯しがガタガターンと雨戸を鳴らし、寒い風が隙間から吹き込んでくると、小さい子供の心にはなんとも言えぬ 怖いような心寂しい気持ちがわいてきました。
 それとともに、昔は外灯が一つも無かったので、雨の日や新月の時などは外は本当にすべてが真っ暗で した。ですから、母屋から県道を隔てた蚕屋に風呂に入りに行くのに、怖さをこらえて目をつぶるような面持ちで25mばかりの間を夢中で駆けて蚕屋に飛び込 みました。そして一人のときは、夢中で風呂に入り、夢中で母屋に帰ってきました。
 今になれば、これも懐かしい思い出ですが。

大塚基氏「私の100話」

59 さなぶり

 私の子供の頃は、春の蚕が6月上旬頃に上族すると、繭の出荷となる6月中旬頃までの間に、蚕座の片付けと桑畑の管理をして、繭の出荷が終わると麦刈りを始めます。
 麦刈りは、梅雨空の合間をぬってのことが多々ありましたが、そんなときは少し湿気っぽい穂に熱が篭らないように工夫しながら蚕屋に積み込みました。
 そして、麦刈りの終わった水田から牛に鋤を引かせて耕起が始まります。どこの家でも水田の耕起が終わる6月25日頃から各沼下での話し合いにより沼の水が放水されると、忙しく畦(くろ)ぬりと代掻き(しろかき)が始まりました。
 そして、田植え日に合わせて苗取りも始まりますが、田植えの時期になると親戚の人などの手伝いもあり、苗取りも苗代に何人もそろって、苗取り用の腰掛に座って四方山話に話を咲かせるので賑やかでした。
  苗取りの方法は、両方の手で交互に苗をむしりとって、それを合わせて直径7〜8cmぐらいの丸みになったら、左手で苗の根元の上を握り親指ですぐった藁を 1〜2本(基本的には一本)押さえて、右手でその藁をふたまわり苗に巻いて、親指のあった穴に藁尻を突っ込んで引き合って苗束を作りました。そして、右手 に持ち替えて苗代水でバシャバシャと上下に苗束をゆすいで根を洗って脇に置いてゆきます。
 そして代掻きが終わり、田植え日の決まった水田に苗を竹かごなどに入れて運び、水田の中に均等に投げ込みます。
 そして田植えが始まると小さい子供の仕事は苗配りです。植えての手元に植える苗が無くなると植えてから苗が欲しいと声がかかるので、植えてが手を休めないように苗を植えての側に持っていく役目です。それには忙しく動き回らなくてはなりません。
  田植えの時期には、非農家の人達が「植えて」と言った田植え作業を受託する組を作って頼むと田植えに来てくれました。私の家でも半分くらいの水田を委託し ていたような気がしますが、その日になると夜中の2時ころから代掻きの牛の鼻取りをさせられました。そして、お茶休みには、母が作った赤飯のおむすびが飯 台につめられて、背負い籠で田んぼに運ばれてきました。
 そして田植えの時は、小・中学校も農繁休暇となって家族総出の田植えとなりますが、親戚が手伝いに来てくれたり、早く終わった家が手伝いに来てくれるので、遅くなるほど賑やかな田植えとなりました。
 田植えの最後の田は苗代と決まっていました。苗代の田植えの準備が始まるとなんとも嬉しくなったものです。
  苗代の田植えが終わると、田植えが終わったお祝い「さなぶり」をします。早苗の根を良くゆすいで一束の苗を家に持ち帰り、大神宮様におそなえします。そし て白い米のご飯を炊いて大神宮様、氏神様はじめ神々に進ぜて、仏様に進ぜて、無事に田植えが終わったことの報告と、豊作であることをお願いして、家族もい つもより豪華な具のついたご飯を食べて田植えが無事に終わったことを祝いました。
 そして、町中の田植えが終わると、町より農休みのお知らせがありました。

大塚基氏「私の100話」

60 かや

 かや(蚊帳)は、部屋の中を包むように吊って、その中に布団を敷いて寝ると、蚊に刺されることもなくすやすやと寝ることができるので、夏の夜には無くてはならないものでした。
 私の子供の頃、どこの家もほとんど麦わら屋根で、家の中の仕切りは主にふすま障子で、夏の間は障子を外して家の中を開けっ広げにして生活していました。
  その頃は、家の周りの排水等も整備されていなかったので、今よりも薮っ蚊がいっぱいいて、家はあけっぴろげだったので蚊がぶんぶん家の中に入ってきまし た。それに、蚊だけでなく家の中の電球につられてカブトムシやバッタなど夏の虫もたくさん家の中に入ってきたので、寝室に蚊帳をつって蚊などの侵入を防ぎ ました。
 ですから、蚊帳の中への出入りはとても気を使いました。
 蚊帳の中に入ろうとするときには、うちわで扇いで、蚊や虫などを追い 払ってから蚊帳の中に潜り込まなければなりませんでした。それでも間違って蚊が蚊帳の中に入ってしまったら大変です。蚊帳の中に入ってしまった蚊を手で叩 き取るまで追いかけまわさなくてはならないので眠れませんでした。
 また、ときには甲高い鳴声をした蝉なども加わって、蚊帳の上に点いている裸電球の周りを乱舞する様を、蚊帳の中から面白く見上げることも多々ありました。
 そして、蚊帳の使い方がもう一つありました。
 私の子供の頃は、暑い夏の日の午後になると、真っ白い入道雲がもくもくとわきがり、毎日のように雷様がごろごろとなって、恐ろしいほどの稲妻が空中を走り回り大雨を降らしました。
  そしてそんな時、子供たちは、「外に居ると雷様にお臍をとられるから早く蚊帳の中に入れ」「雷様が危ないから蚊帳のなかにはいれ」などと言われるので、一 目散に蚊帳をつって中に潜り込んだものです。私の家では、子供だけでなく御祖母さんなども一緒に潜り込んできて雷様のとおり過ぎるのを待ちました。
 そこには、昔の人達の自然への崇拝や恐怖や感謝とともに、長い間に学んだ「雷が来たら逃げる」のだと言う安全対策を子供の頃から植えつけることであったのかも知れません。
 いずれにしても、大きな雷が鳴って稲妻が鳴り出すと蚊帳の中に逃げ込んだものです。
 今でも、仲間に入れてもられないことを「蚊帳の外」と言いますが、蚊が襲ってきたとき、雷が鳴ったときに蚊帳の外に居る切なさを表現する言葉だと思います。

大塚基氏「私の100話」
このページの先頭へ ▲