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第6巻【近世・近代・現代編】- 第6章:くらし

第2節:回顧録・作文

大塚基氏「私の100話」

41 帰ってきた伝書鳩

 昭和30年代初めの頃、我が家の蚕屋の前の西側の隅のにわとり小屋の上に鳩小屋が置かれました。
 その頃は、中学生、高校生あたりで伝書鳩を飼育することが流行っていて、電気屋の叔父がどこからか買ってきて卵を孵化させたりしましたので、多い時には伝書鳩が10羽ほどにも増えたことがありました。
 鳩は遠くから放しても、自分の家に戻ってくると言う習性があるので、その訓練のためにも、だんだんと家から少しずつ離れたところから飛ばしました。そんな時には、鳩の入れた箱などを持ってたりして手伝いました。また餌くれを手伝ったりもしました。
  近所にも叔父の友達が鳩を飼っていましたので、伝書鳩はみんなで飛ばすと大きな群れになって飛び回るので、とても空が賑やかになりました。しかし中には浮 気な鳩もいて、一緒に飛ばすと他の家の鳩に釣られて行ってしまう鳩もいました。でも普通は、遊び疲れるとそれぞれの家の鳩小屋に戻って来て、鳩小屋の入り 口から入るのでとても可愛く思っていました。
 ところが、その伝書鳩が、少しの間に2回にわたって餌や水を与える入れ物ごと全部盗まれてしまいました。
 その後、電気屋の叔父も職業人となり、家族も鳩を新たに飼うほどの余裕も無かったので、鳩小屋はそのまま鳥小屋の上に放置されていました。
 それから1〜2年たったでしょうか。ある日、見覚えのある1羽の伝書鳩がやってきて鳩小屋の中に入りました。少し薄茶色の羽の混ざった白い鳩です。
 驚きました。間違いなく盗まれた鳩の1羽でした。盗まれてからどのような経緯をたどったのかはわかりませんが、この鳩は自分の家として舞い戻ってきたのです。本当に驚きました。
 しかし、この頃には、叔父も職業人となり、私も鳩をかまってやる余裕もありませんでしたので、時々餌を投げこむぐらいで、水もくれず出口も開けっぴろげにして構わずにいました。
 それから鳩小屋に戻ってきた鳩は、1〜2ヶ月間ぐらいは鳩小屋に出たり入ったりしていました。しかし、急に居なくなりました。
 鳩にとっては、せっかく見つけて戻ってきた我が家でしたが、誰も関心を示さずに面倒を見てくれないので、寂しくなって放浪のたびに出たのかも知れません。しかし、いなくなってしまうと私も何とも寂しく悲しく感じました。

大塚基氏「私の100話」

42 なっとう屋さん

 子供の頃、熊谷の方から納豆屋さんが自転車の荷台に納豆の入った籠をつんで、私の家の前の県道を小川町の方へ行きました。
  小川町まで行くのだとの話を聞いたような気がしますが、その納豆屋さんの「なっとうなっとう」と言う掛け声は、とても澄んだ大きな良い声をしていたので、 遠くの方からも良く聞こえました。ですから、余裕をもって前の県道に行って納豆屋さんが来るのを待つことが出来ました。
 そして納豆屋さんは、お願いすると、辛子をたくさん納豆に付けてくれました。
 その納豆屋さんが来なくなって何年か後に、別の納豆屋さんが自転車でやって来るようになりました。その納豆屋さんの呼び声は、なぜか「ねっとうねっとう」と聞こえる掛け声でした。
 昔は拡声器も無かったし、車もほとんど無かったので、自転車などで声を張り上げて物を売る商売がいろいろありました。
 いずれにしても、あの「なっとうなっとう」と言う掛け声は、今も耳の中に残ります。

大塚基氏「私の100話」

43 盆やぐら

 昔は1ヶ月と10日遅れの8月23日(蚕の都合で2〜3日前後した年もあったそうです)が迎え盆でした。しかし、昼間はお盆を前にした仕事もいろいろあったので、盆迎えは夕方の薄暗くなるころになってしまいました。
 墓場に行って、先祖様をお迎えして、提灯の中の蝋燭に火をつけて、提灯を先頭に先祖様と一緒に帰ってくると、いつも常会場の庭に建っている盆やぐらの提灯に火が入ったころで、薄暗くなった常会場の庭に盆やぐらが浮かび上がっていました。
 そして夜になると、近郷近在から若衆が集まってきて、太鼓のリズムにのっての踊りの輪が庭いっぱいに広がりとても賑やかでした。若衆達の中には、スイカなどのお面だか帽子だかをかぶって仮装している者もいて、子供心にも興味しんしんで楽しんで見ていました。
 その頃の若衆に聞くと、今年は農作物が不作だから盆やぐらは止めようと決まっても、夜遊びに集まってきた若衆で建ててしまったとか。のことです。盆やぐらは、夜遊びの最高の行事で、盆踊りを通じて若衆の行き来があったり楽しみがあったのだそうです。
 私も、ありの巣会の仲間と一緒に滑川町の盆やぐらに行って踊ったこともありますが、尾根常会場に建った盆やぐらの頃の夜遊びと雰囲気はまったく違いました。
  でも、盆やぐらは少なくても、3階はあったと思いますが、尾根常会場にそそり立つ盆やぐら提灯に映える盆やぐらと、太鼓に合わせて若衆が踊りまわる光景、 そして、盆踊りが始まることを知らせる迎え太鼓、終わったことを知らせる送り太鼓として奏でられる古里の祭り囃子の音は未だに忘れられません。

※盆やぐらの4本の通し柱は、下の倉庫の庇に長く保存されていましたが、欲しいという人があって譲ったそうです。
 その後、昭和49年に盆やぐらの話が持ち上がり、材料がないので嵐山郷の建設予定地から盆やぐらの柱にするための木などを切ってきて盆やぐらが復活しまし た。でも、復活したやぐらも立派なものでしたが、想い出の中にある昔の盆やぐらの方が高さも趣も違うと思いました。盆やぐらの4本の通し柱を処分したの が、盆やぐらが復活する1〜2年前だったと聞いた覚えがありますが、もしも昔の材料を使ったとしたならばと、いまだに残念に思っています。

大塚基氏「私の100話」

44 四郎次さん

 飯嶋幸良さんの祖父の飯嶋四郎次さんは紫雲と号してとても芸達者な人でした。
 私の子供のころの八坂神社のお祭りには、今の遊園地(旧八坂神社敷地跡)から関根弘子さんの家の方まで灯籠が並んで立ててありました。そして、その灯籠には、社会を風刺したものや滑稽なものなどの絵がまねかれていて、子供も大人も見るのがとても楽しみでした。
 肖像画や写生も得意で、兵執神社社務所に掲げてある龍泉寺の絵は、昔のそのままの龍泉寺が其処にあって、時が刻まれている活動感が溢れていて、自分があたかもそこに居るような錯覚さえするほどです。私の子供の頃をいつも思い出させてくれます。
  四郎次さんは、若いときから浪花節も得意で、いろいろなところへ招かれて語っていたとのことですが、私が子供の頃には、四郎次さん宅前の隠居屋にいつも居 て(40歳代に家業の農業を息子である正治さんに任せて隠居を宣言し浪花節や絵画に没頭したとのこと)、絵を書いたり浪花節を練習していたのかも知れませ んが、私たち子供がその前を通りかかると、呼び込まれていつも浪曲を聞かされました。
 四郎次さんはいろいろな面で芸人だったとの話を良く聞きま すが、父がいつも言っていたエピソードもまた面白いものです。それはある日のこと、今の嵐山郷の方から牛の手綱をとって、浪花節を唸りながら牛に荷車を引 かせて家に着いたら牛だけで荷物がありません。そこで慌てて来た道を戻ったところ、薮谷沼の曲り角のところに外れてあったそうです。
 荷車の牛の掛け方にも問題があったのでしょうけれども、それ以上に荷車が牛から外れる音に気づかないで、浪花節を唸っていた四郎次さんの表情が浮かんできそうな逸話です。
  四郎次さんの父親は、飯嶋福次郎と言い、みんなから福さん、福さんと言われていたそうですが、私の父が言うには、父の祖父(藤左エ門)と仲が良かったせい なのか、福さんは毎晩のように私の家に遊びに来たそうです。そしてとても面白い話をしてくれるので、父の兄弟は福さんが来るのを毎日楽しみにしていたそう です。来ない日は詰まらなくて迎えに行きたいくらいだったと、父がいつも言っていました。四郎次さんは福さんの血が高じたのでしょうか。

大塚基氏「私の100話」

45 ほたる

 「ほ、ほ、ほーたるこい、こっちのみーずはああまいぞ、あっちのみーずはかーらいぞ」と言っ て、子供の頃は麦わらでほたるを入れる籠を作ったりして、箒を持ってよくほたるを捕りに行ったものです。と言っても、そう遠いところに行ったのではなく、 今の消防小屋の南側の道の南側に沿って3〜4畝の畑がありました。その畑の南側をたにあの方へ流れる小川(堀)の畑側の方面に草が繁茂していて、そこがほ たるの溜り場でした。
 しかし、光るのはほたるだけでなく、蛇の目も光るから気をつけるようにとも言われて、用心しながら草むらをかっぱきました。
 また、ほたるの季節になると、家の周りまで飛んできましたので、追いとばかして捕まえてビンの中に露草とともに入れました。そして、布団の中に入れたり棚の上に飾ったりなどして、ピカピカのほたるの光を楽しんだり眺めたりしたものです。
 今では考えられないことですが、ほたるが我が家の周りを飛びまわり、そのほたるを追っかけまわったことがあるのです。
 なつかしい想い出です。

大塚基氏「私の100話」

46 水あび

 お昼を食べると、尾根ん台を上がって行って尾根ん台の三本辻を嵐山郷のほうに曲がって右側の畑が途切れるところの十字路を左に曲がって、3〜40cm行ったところを右に曲がって、薮谷沼に通じる山道を下っていって薮谷沼で水あびをしました。
 水あびに何歳頃から行き始めたのか記憶がありません。しかし、尾根ん台を上って行くとまわりからだんだんと子供が集まってきて、山道に入るころには何人も一緒に歩いていました。
  今では山は荒れ、山に群れていた草花や花木などは盗掘もあって見る影もありませんが、私たちが水あびに行ったころは、どこの家でも山しをしていましたし、 盗掘する人も居なかったので山の中はとても綺麗でした。今ではほとんど見られることもなくなった、じじいばば(春欄)や薮柑子、山つつじ、山ゆりなど四季 折々に花がいっぱい咲いていました。
 水あびの頃は山ゆりの花の季節で、山ゆりの花の香りがぷんぷんするほどに山の中にいっぱい咲いていました。その香りを楽しみながら沼へ通いました。
 小さい子供の水あびは、沼の浅瀬の危険の少ないところでバチャバチャと泳いだり、つんむぐったりしてからす貝をとりっこしたり、石を投げて見つけっこしたり、つんむぐっている時間を競争したりなどで、いろいろなことをして遊びました。
 水あびに行ってパンツを穿いて水あびをするのは、少し恥ずかしさが出てくる小学校高学年になってからで、それまでの小さい子供は、ふり(パンツなど下半身になにもつけていないこと)で水あびをしました。
 今から考えると、下半身が不安定で、心もとなかっただろうとも考えられますが、その当時の子供は、当たり前のこととして、その事をとらえていたように思います。
 水あびのことを決して水泳とは言いませんでしたが、水あびをしながらだんだんと泳ぎを覚えました。先輩があらためてコーチしてくれるわけでも有りませんでしたが、それぞれに見よう見まねでバチャバチャしているうちに浮くようになり、前に進むようになった気がしています。
 意を決して薮谷沼を横断したのが、小学4〜5年生頃だったでしょうか。最後は疲れてきたところを、飯嶋一郎さんに押してもらった記憶があります。
 薮谷沼に水が無くなったからなのか、興味本位で行ったのかはわかりませんが、柏木沼にも行った覚えがあります。また、前の川の堰の水たまりに飛び込んだ記憶もあります。
 そして、中学生や高校生頃になってからは、清水や上土橋の畑に仕事に行って昼に家に帰るときには、薮谷沼の上沼が深くて綺麗な水で有ったので、飛び込んで少し泳いで、さっぱりして家に帰ったものです。
  いずれにしても、昔の子供は沼で水あびをしながら泳ぎを覚えました。そして沼から田植え水を出すときには、段樋の沼が少なかったので危険が伴う底樋を抜か なくてはならない沼が多く有りました。そこで、そんな沼は泳ぎが得意で冒険心のある人が、沼に潜って樋を抜いて水を出しました。
 また、沼で命を落とした子供や大人もいたのだとの話もよく聞きました。

追筆
 昔の沼の水は、沼の中で泥遊びなどするとそれなりに濁りましたが、今では考えられないほどに綺麗でした。

大塚基氏「私の100話」

47 雨ごい

 私の子供のころに異常旱魃があって、農家の人達が雨ごいをしたところ大雨が降って、田植えを終わらせることが出来たとの想い出があります。
  そこで、それが何年であったのか町の報道縮刷版の頁をめくったところ、昭和33年(1958)7月30日発行の報道に、「50年ぶりの旱魃に対処するため に菅谷村議会協議会も開かれた、干害対策費も110万円を超えた」との記事がありました。ですから、私が覚えている旱魃になって雨ごいが行なわれたのは此の時のことなのでしょう。
 田植えの時期となり、田植えをする準備が出来ると農家の人は落ち着かなくなりました。春から旱魃気味で溜池の水も少なく、田植えの準備が出来ても日照り続きで、いっこうに田植えに必要と思われる雨が降らないからです。
 それで沼の関係者が話し合って、沼にある水で平等に田植えをしようと言うことになりました。初めは4分植え(各農家の4割の水田を植える)だったと思いますが、沼下各関係者の4割の水田を決めて、それぞれに役員の立会いで水を引いて田植えをすることになりました。
 そして、役員の立会いで各関係者の4割の水田を植え終わりました。でも、沼に水が残っていたので、次は2分(2割)植えをしようと話し合って田植えを終わりました。それでも水が沼に少し残っているのでどうしようかとの話も始まりました。
  農家の人達は、少しずつでも田植えが進むことを喜びながらも、田植えを終わらせるほどの水と養い水のことを考え、日照りの空を眺め、雨が降ることを祈るば かりでした。雨が降らなくて田植え作業が出来なくても田んぼに出て、イライラしながら鍬を担いで行ったり来たりしていました。そんな農家の人の話は決まっ て雨が降って欲しいとのことばかりでした。
 そこで、雨ごいをしようと言うことになり、兵執神社の社務所(龍泉寺)に農家の人(役員だけだったとも思われます)が集まり、雨ごいの行事(熊谷のどこからだか水を汲んできて……【上之神社(上之村神社、雷電神社)?】と言う話でしたが、内容については よくわかりません)が行なわれました。
 私も、大人たちと同じ思いでいましたので、田んぼの中で日照りの空を恨めしく眺めていました。
 そしてその時に、兵執神社の社務所で打ち鳴らされた雨ごいの鐘の音が、妙にはっきりと耳の底に残っています。
 そして、雨ごいの御利益は不思議とたちまち現われて、大雨(報道では7月4日に恵みの雨)が降って、天水を利用している北田地区以外の古里では田植えを終えることが出来ました。
 私の記憶の中に、それより1〜2年の間に、雨ごいはなかったもののもう1回旱魃があったとインプットされています。しかし報道をめくる限りでは、前後の年に記載されていないので、そう酷いものではなかったのかも知れません。
 しかし、雨ごいをしたころは、すべての農家が自然と向き合い自然と真剣勝負をしていたように思います。村をあげて自然と真剣勝負をしていたように思えます。

※この時の町の報道に、7月1日現在で植付けできない水田が42%あったが、7月4日の恵みの雨によって稲の植付けがほぼ完了し残るのは1.8%になった事が報じられています。
 また、1.8%の中に入っていた天水場である北田地区は、部落総出で杭で田んぼに穴を開けて植え込む方式の葱植えで、植付けを終えたとあります。

大塚基氏「私の100話」

48 道草

 私の子供の頃、安藤幸男さんの家では、塩や砂糖も扱っているたばこ屋を営んでいました。
 お店の中には、塩、砂糖がそれぞれに1かます以上も入る大きな木箱があって、その中に塩と砂糖を入れておいて量り売りをしていました。
 外で遊んでいる時に、タバコ屋のおばさんに「手伝って」と頼まれて、かますから塩や砂糖(玉砂糖)を箱に入れるのを良く手伝いました。そしてその時に、お駄賃として玉砂糖を頂きましたが、ほろ苦さの混ざる甘い玉砂糖に喜んだものです。
 そして、学校へ行く時の尾根上郭の集合場所が、なんとなくタバコ屋の前あたりでしたので、時間ぎりぎりまでタバコ屋の前あたりで遊んでいて、タバコ屋のおばさんに学校に遅れるよと言われて、駆け足で学校に行ったものです。
  そのころは、これといった大きな事件もなく全てが大らかであったので、今のような学校の行き帰りの保護者の監視は有りませんでした。ですから学校の帰りに は、いつも同級生ぐらいでグループを作って、あっちの山へふらふらと行って山道を登ったり降りたり滑ったり、ナイフで木を切って細工をしてみたり、つつじ の花やどどめなどを食べたりつまんだりしました。
 また、こっちの田んぼへふらふらと行ってかえるを捕まえてみたり、笹舟を作ったり、草笛を作って鳴らしてみたりなどなどしました。いつも、自然をいっぱい味わいながらの下校でした。
 また、誘われるままに、吉田のほうへふらり、越畑の方へふらりのこともありました。誰にも監視されないで、学校帰りの道草を腹いっぱい摘んだり食べたりして過ごしておりました。
 親から勉強、勉強とは言われずに、親から忙しいと言われれば一生懸命に手伝い、頼まれればなんでも言うことを聞いていましたが、それでも小学校のときの学校の登下校の道草は変化に満ちていて楽しいものでした。

大塚基氏「私の100話」

49 丸木橋

 私の家の6aの三角の水田の尖ったあたりに、松の丸太木を3本ならべて新川を横断させた橋があ りました。この橋の下にコンクリートが打ってあり両側にもコンクリートでしっかりしている橋げたがあったので、コンクリートの橋を作る予定でお金がなく なったのでやめたのか、違う用途でコンクリートを橋げたのように打ったのかわかりませんが、その橋げたを利用して3本の松の丸木で新川の上を渡した橋があ りました。
 この橋は、3本の丸木を渡しただけの橋でしたが、無くてはならないとても大事な橋でした。この橋を通るのが学校の行き帰りの一番の近 道でしたし、新川の向こう側に行くのに、この橋がなかったら遠まわりをしなくてはなりません。私の家も田んぼが川の向こうに半分ぐらいありましたので、農 作業の行き帰りはこの橋を利用しました。
 田植えの時には、稲苗をいっぱいに入れた籠を背負ってこの橋を渡りました。稲刈り時期には、ハンディ棒を担いでこの橋を渡りました。夏草を刈るころには、夏草をいっぱい入れた竹かごを背負ってこの橋を渡りました。
 何でもかんでもこの橋を渡って農作業が進み、近辺の農家の生活がありました。
 でも、小さいころの渡り初めから暫くは、ゆっくりゆっくりと這って橋を渡ったことを覚えています。そして、少し大きくなってからも恐る恐る橋を渡り、最後の一歩は橋から堤に向かって逃げるように飛び出る仕草で渡り終え、落ちなかったことにその都度ホッとしていました。
 それよりも大きくなって、雨の中で稲苗を背負って渡るときなどは、丸木橋が濡れているので、丸木をつかんで離さないように、足の全部の指に神経を集中させて、滑らないように滑らないようにと恐る恐る渡りました。
 稲束などを背いたで背負って渡る時には、丸木橋が重みに耐えられるか心配しながら丸木橋から足を踏み外さないように恐る恐る渡りました。
 いずれにしてもこの橋は、子供たちにとっても大人にとっても、遊びで通るときでも仕事で通るときでも、いつも恐る恐るどきどきして渡る橋でした。
 でも、不思議とこの橋から落ちたとかの話は聞きませんでした。みんなも気をつけて気をつけて通っていたからだと思います。
 しかしこの丸木橋は、昭和45年(1970)度に実施された圃場整備事業により道水路が整備され、永久橋が新川の上に何本も架けられたので必要性がなくなりました。
 そして、地域にとってどのように重要な橋であったのか、どこにも記されることもなく、誰もしらぬ間にとり除かれました。

大塚基氏「私の100話」

50 流れ人

 私の小さい頃は、歩きでいろいろな人がやってきました。
 その頃は、今のように何でも使い捨てではなく、なんでも直して直して大事に使う時代でした。箕を直す人、傘を直す人、釜や鍋などの穴が開いたのを直す人などなど、多種多様の直し屋さんがやって来て、いくらかの修理代で壊れたものを直してくれました。
 また、いろいろな芸人もやってきました。
 小さな俵を座敷に放り投げて転がす俵転がしの人、家の前で大きな声で歌を歌う人、三味線などの音に合わせて語りを唸ったりの人、手獅子の口をパクパクさせながら小踊りさせる人、5円か10円のお礼料を得るためにやってきました。
 また、画家や仏具や家具などの職人もやってきました。
 肖像画や小物の家具などの注文を受けて、泊まり込みで作る人もいたそうです。私の家の大きな位牌も、戦後のあるころ、仏具師が来ていく日か泊まり込みで作ったものだそうです。
 また、占い師やおがみ屋などもやってきました。
  私の家に来た占い師が、まだ2〜3歳の私の顔を見て、藤夫と言う名前に疑問を持ったのが切っ掛けで、父があっちこっちで藤夫の姓名判断をして貰ったそうで す。でも、どこでも同じ事を言われるので改名を考えて、馬内に住んでいる高波宮司にお願いし名づけられたのが基氏だそうです。その基氏は、熊谷の裁判所の 側の代書屋で書類を作ってもらって、裁判所へ提出したところ昭和40年(1965)3月1日に判定が下り、私の名前として戸籍にも記載されました。
 それに、私の子供の頃から私の家に来て、床の間で祝詞をあげてくれた通称おてんぐ様は、平成になっても秩父から米一升のお礼で時々やってきて祝詞をあげてくれました。
 また物もらいもやってきました。
 農家の入り口に立って食べ物などを乞う人に、麦御飯のおにぎりやさつまの蒸かしたものなどをあげると喜んでほおばりました。5円か10円のお金もあげることもありました。
 また、集落のお堂などには、流れてきた坊さんや身寄りの無い人などが管理人として住んでいるところがあっちこっちにありました。
 古里の尾根の阿弥陀堂(常会場)の庭には、阿弥陀堂にいたことのあるお坊さんであろう3基の石塔が立っています。近頃では昭和  年に亡くなったりょうぼっさんという坊さんが住んでいて、母の実家などにちょくちょく風呂をもらいに来たそうです。
 いずれにしても、私の子供の頃には何事も全体がひとつになっている中に人の流があり、静かに時も動いていたように思われます。
 しかし、これらの流れ人と農村の生活は、昭和20年代後半から始まった日本経済の急激な成長に伴う雇用の充実、社会構造の変化によって、昭和30年代に入るとどんどんと姿を消して、40年代には殆どなくなってしまったように思えます。
 人も物も全てが使い捨ての時代となったように思えるこのごろ、あの頃のことが懐かしく思い出されます。

大塚基氏「私の100話」
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