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第6巻【近世・近代・現代編】- 第6章:くらし

第2節:回顧録・作文

大塚基氏「私の100話」

31 たにあ

 県道熊谷、小川、秩父線のバス停尾根入り口の西側あたりに、県道が出来るまでは「たにあ」と言われる、直径4〜5mの小さな溜池がありました。
 この溜池は、いつも綺麗な水を蓄えていたので、近辺の農家の風呂水などの生活水に利用したり、池のそばを流れる小川の所まで池の水をくみ出して洗濯などに利用していました。
 子供の頃、どんな申し合わせでこの溜池の浚渫が行なわれたのかは知りませんが、溜池から吉田の長竹に通じる農道の上に重ね上げた形で浚渫した土が帯状にあけられました。
 そして、その土をかっぱくと、泥鰌(どじょう)がいっぱい出てくるので、近所の人と一緒に何回も取りに行った記憶があります。
  また、この溜池は、危険もいっぱい孕んでいました。私も小学1〜2年生の頃に一人で海老蟹(えびがに)釣りに行って足を滑らせてこの池に落ちてしまいまし た。口の中に水が入ってくるのを感じながら、バチャバチャもがいてやっとのことで池のへりの杭に捕まることが出来ました。小さい子供心にも、たにあに落ち たと言うと家の者に怒られると思って、たにあのそばの堀で転んでしまったので濡れたと嘘をついたことを思い出します。
 また、真中の妹もこの溜池 に落ちました。ちょうど祖父が上りはなで盆棚を作るための縄をなっていて、私が勝手の方にいる時でした。近所の子供が母屋の入り口のところに来て、あわて たような顔で祖父に何か叫んだような感じがしたと思ったら、祖父が形相を変えて子供と一緒に外に飛び出しました。その慌て振りに驚き、私は二人の後を追い ました。
 そしたら、たにあの中ほどに、おかっぱ頭が見え隠れするような感じでぷっかり、ぷっかりと浮いていました。妹の頭です。
 飛び込もうとする祖父を制して、中学1年生頃になっていた私が溜池に飛び込みました。すると妹がかじりついてきたので、私は自由を奪われてあせりました。
 しかし、小さな池でもありましたので、少しのあがきで池のそばに生えていた木の池の方に垂れ下がっていた枝にどうにか捕まることが出来たので、池の端に寄って妹を池から引き上げることが出来ました。
 そして祖父が、池の堤で妹を逆さ吊りにして水を吐かせて妹は助かりました。
 私の兄妹のように、この池で危ない目にあった人が沢山いたのではないかと思われます。
 しかしこの池には、優しい河童が住んでいて、池の外に押し出してくれるのか、この池で人が亡くなったとの話は聞きませんでした。
 しかし、昭和30年代に入ると、地域の生活を支え続けた「たにあ」も、生活の近代化に伴う多様化した生活排水や、酪農家の汚水などが側を流れる小川を流れるようになり、小川から自然と溜池に差し込むようになって、生活水としての利用ができなくなりました。
 そして、昭和40年代初頭に計画された、県道熊谷小川秩父線の新設道路敷地となって、地元との深い結びつきをもっていた小さな溜池「たにあ」は寂しくも姿を消しました。

大塚基氏「私の100話」

32 馬内

 私は、高校1年生のときに初雁秀男さんの紹介で、郵便局の年賀状の配達アルバイトをしました。その時の馬内(もうち)集落の印象がとても強烈でいまだに忘れられません。
 私も古里の住民ですし、新井慶治さんの家が親戚なので使いもしていましたし、それに行った事もありますので馬内集落の存在を知らないわけではありませんでした。
 しかし、昭和38年(1963)元旦、初めての郵便配達で古里の第一支部に年賀状を配り、第二支部の馬内集落に行ったときのことです。どこもかしこも霜柱が立っていて、庭や通り道などの生活空間には藁や籾殻が敷いてありました。
  そして同じ古里というのに、どこの家かも通り道もぜんぜんわかりません。それで、今のような住宅地図もありませんでしたので、苛々しながらも家を聞き聞 き、通り道を聞き聞き年賀状を配っていると、霜柱が溶け出してきて庭も道もべたべたしてきたのでビックリしました。庭や通り道に藁や籾殻が敷いてある意味 がそれでわかりました。
 それに、馬内集落は大通りに接していなかったので、部落の人達以外の往来が少なく、他人に気を使う必要がなかったせいなのか、人々の生活と身なりがとても地味に思えました。何故か一昔前に逆戻りをしたような錯覚に陥った感じでした。
 そんな驚きの中で、行ったり来たりとウロウロしているうちに、馬内集落でお昼のサイレンを聞いてしまったことも忘れられない想い出となりました。
 馬内集落が終わると、勝手知ったる私の部落です。それまでの遅れを取り返すように年賀状の配達も順調に進みました。
 そして翌日からは、馬内集落の驚きにもなれ、家も覚えて、すべてが順調に進みました。
 年賀状の配達は中学3年生まで行ないましたが、2年生からは年末から頼まれ、年賀状を配達の順番に組めるようになりました。

大塚基氏「私の100話」

33 きのこ

 私の子供の頃には、山は綺麗に手入れされていて、山にはきのこがいっぱいありました。
 初茸は尾根台から長嶺沢の畑に通じる山道の側の山の中に生えました。ですから、きのこの季節がやってくると、畑の帰り道に山道の法面に生えているのを採ったり、ちょっと山に入って一掴みほどの初茸を採って家に持ち帰り、その晩の煮込みうどんに入れて楽しみました。
 ち茸は、山道の側にも生えましたが、岩根沢の今の大久保キリスト教会の入り口あたりが松山で平らな山でしたので其処に良く生えました。
 また、字清水の我家の畑の隣の山(今の嵐山郷の食堂あたり)の大松の根元に、千本しめじが毎年のように生えましたので、きのこの季節になると楽しみでした。
  そしてある年の秋も、山に行くと千本しめじが生え始まっていました。でも、まだ小さかったので、大きくしてから採ろうと思って木の葉などで覆い隠そうとし ていると、どこかのおじさんがやって来て、「知っているんだから駄目だよ」と言いました。そのおじさんも、楽しみにしていた一人だったのでしょう。
 また、きのこ採りの好きな人は一本しめじの生える場所を知っていて、大きな一本しめじを採ってくるとみんなに見せびらかしました。
 でも、そのように毒キノコも含めて豊富に生えていたきのこも、今では、見つける機会がなくなりました。もちろん、千本しめじも一本しめじも見つけたという話を聞かなくなりました。
 自然のきのこが生えなくなったのは、山が荒れただけでなく、大気汚染による酸性雨が原因であるという人もおります。しかし、原因はいずれにしても、数十年前までは豊富に生えていたきのこは、本当にどこへ行ってしまったのでしょう。
 栽培されたきのこではなく、古里でとれた自然のきのこをもう一度食べたいものです。

大塚基氏「私の100話」

34 飯島稲荷

 飯島稲荷は、駒込共同墓地の東側にありました。ちょうど古墳を開墾したような感じの円形の敷地が1mほどこんもりと高くなっており、4〜5段の石段を昇ると、両側には旗さし棒の土台があり、その次にさ2〜3柱の丸太で出来た赤い鳥居があり、その奥に社がありました。
  そして、敷地全体に斑入りの笹が覆い茂っていて、なんとも稲荷様という趣がありました。私が小さい頃には、春の暖かな風が吹きはじめる3月25日がこの稲 荷様の縁日で、稲荷様の西側に舞台が組まれて福引が行なわれてとても賑いました。籤がいくらで買えたのか忘れましたが、箒や箕などの家庭用品がいろいろ当 たって、はずれ籤がマッチがつけ木であったような気がします。
 いずれにしても、飯島稲荷の縁日での籤引きを毎年楽しみにしていました。
 その縁日が、いつまで続いたのか知りませんが、今では飯島稲荷も舟窪沼の南側に移転され、古い稲荷様の社がそのまま残り、朽ち果て始めているのを寂しく感じておりました。
 しかし今は、立ち木等に昔の面影が残るものの笹もなくなり、社も取り壊されて小さな祠があるだけとなりました。

大塚基氏「私の100話」

35 おまいり

 私が小学4〜5年生頃だったでしょうか。私の祖母から、お参りに行けないので行ってくれと頼まれて、毎月1日、15日の朝にお参りに行くようになり、それが習慣となりました。
  朝5時頃に起きて、半紙を半分に折った中におさご(白米)を包んで、始めに氏神様にお参りして、次に自転車で兵執神社に行って、おさごをチョンチョンと横 に3箇所並べてお供えして、本殿にお参りしたあと、同じようにおさごをお供えして三峰神社、鎌倉稲荷神社をお参りし、階段を下りてだんだんと下の方へ向 かって鎮座している神々にお参りしました。最後の社が天満宮でしたが、龍泉寺にも手を合わせました。そして次に、御嶽様の参道の入り口に自転車を置いて、 185段の階段を昇って御嶽様にお参りしました。最後に飯嶋稲荷様に行ってお参りしました。家内安全で家族が健やかに幸せに過ごせるように、それぞれの神 様に手を合わせました。忙しい時には、兵執神社の御嶽様が見えるところから、御嶽様を望んで手を合わせたこともありました。飯嶋稲荷様に向かって手を合わ せたこともありました。泊りなどで家を離れたときは、前日か、翌日に行ったこともありました。
 神様に手を合わせると、神様を信じる信じないの時限を越えて、何故か清々しさを掻き立てるものがありました。心に清々しさを感じさせるものがありました。
 ですから、お参りに行かないと何か忘れごとをしたようで、悪いことをしたようで落ち着かなかったのです。
 高校を卒業し、家を離れて習慣が途切れてからも、出来るだけお参りに行きました。
 そしてまた、息子が生まれ物心つくようになった頃から、息子にもその清々しさを感じて欲しいと、「嵐山町の圃場整備事業が一日でも早く完了しますように」との願掛けとともにお参りを習慣づけるようになりました。
 なお、お参り場所について追記しますと、

○兵執神社(へとりじんじゃ)
 兵執神社は、格式が県から幣帛(へいはく)を賜っていた郷社でしたので、私が子供の頃にお参りに行っていたときの鎮守の森は、ふた抱え、み抱えするほどの大きな杉の木や籾(樅?)の木などで覆われ、昼間も薄暗く威厳に満ち ていました。
  しかし、昭和41年(1966)9月25日に関東地方を襲った台風26号により、鎮守の森の大半の木が倒伏して大きな木がほとんどなくなってしまい、その 頃の面影はなくなりました。また、倒れた木によって本殿の屋根は破損、神社の社務所としていた龍泉寺は破壊され、それぞれに修復、新築となりました。そし て、大きな木がなくなり明るい神社となったために、時間があるとお参りの時に眺めていた、本殿の西側に掲げられていた中村清介先生の剣豪奉納額、愛宕神社 の正面に掲げられていた、梅などの色彩豊かな絵で縁取られた俳句の奉納額の絵や文字がほとんど消えてしまったことが残念です。

○御嶽様(おんたけさま)
  御嶽様は前の御嶽、後の御嶽(馬内地内)とありますが、私がお参りに行ったのは前の御嶽様で、標高が90mほどの高さにあります。私が子供の頃は、185 段の石段を登る周りの山も綺麗でしたし、御嶽様のまわりには修験場としての威厳が感じられ、お参りを済ました後には清々しさが残りました。しかし何時ごろ か、石段の側にあるなあと思っていた何本かの竹が御嶽様のまわりを埋め尽くし、今は竹林に囲まれた御嶽様に閉塞感と堅苦しさを感じるようになりました。

大塚基氏「私の100話」

36 たなぐさとり

 水田除草剤が開発される昭和30年代頃までは、水田に植えられた早苗が根づき、水田の雑草が生え始める7月中旬頃より、稲の株間が塞がって雑草が生えなくなる8月中旬頃まで、水田の雑草防除のためのたなぐさとりが行なわれました。
 たなぐさとりは、手指で引っかくような方法で稲の株間の雑草を取って手の中に溜まったら土の中に突っ込んで除草する作業のことを言いますが、雑草繁茂を防除し水稲の生育を促進させるためにやらなくてはならない重要な仕事でした。
  この仕事は、子供から大人まで家族が横に並び、それぞれの力量に応じて、稲株の3列から6列ぐらいを受け持って行なうのですが、早いものが遅い者の手助け をしながらも、だんだんと離れてしまいます。それに、稲株が小さい時のたなぐさとりは良いのですが、2番ご(2回目)、3番ご(3回目)になってくると、 稲が大きくなってきて、稲株の中に顔を突っ込んでたなぐさとりをするような格好になるので、稲の葉がやたらと顔にあたったり手にあたったりして、切り傷が できたり擦れたりして痛かったりヒリヒリしてたまりませんでした。
 子供の頃の田植えの時には決して、「早苗を結わえた藁の中に稲が植えられると その稲の葉でたなぐさとりの時に目を突くから結わえた藁は前に投げるように」との言い伝えをうるさいほどに言われましたが、葉の先で目を突いたり、顔を突 いたりの危険も伴う作業ですので、長い稲つくりの歴史の中には、目を突いて失明した人がいた事も頷けます。
 今は、水田の除草剤が開発されて、昔 のようなたなぐさとりは無くなり、腰を曲げながらのたなぐさとりの苦労が偲ばれますが、腰を伸ばしたときに涼しい風が頬をなぜて通り過ぎると、その感触と 香りに、何とも言いがたいほどの心地よさと、宝くじを引き当てたほどの儲かったような気分になったことも思い出します。

大塚基氏「私の100話」

37 アイスキャンデー屋さん

 夏になると、私の家の前の県道熊谷・小川・秩父線の道路を熊谷の方から、のぼ り旗を立て、自転車の荷台に白い箱を積んだアイスキャンデー屋さんが、学校の小使いさんが授業の始終の知らせに鳴らしていた手振用の鐘と同じ鐘をハンドル に吊るし、チリンチリンと鳴らしながらやってきました。
 そのキャンデーの値段は5円、割り箸のような棒に刺さった幅4cm×厚み2cm×長さ15cmほどの大きさでしたが、ガリガリとした甘っぽい舌ざわりと冷たさは、何とも言えないほどの美味しさでした。
 キャンデーを一本丸ごと食べたことがあっただろうかと言う思いが未だに残っていますが、時々祖父が気を使ってお金をくれたので、アイスキャンデー屋さんの鐘の音が聞こえてくると家の外に飛び出し、アイスキャンデーを買ってみんなで分けてたべました。
  それに、真夏のたなぐさとりの時、今日はキャンデー屋さんが来たらと言って渡された5円を持ってたなぐさとりを頑張り、キャンデー屋さんのチリンチリンの 鐘の音が聞こえてくると、県道まで飛んで行って待ちかまえたこともありました。父や母と分けて食べた美味しさはまた格別でした。
 ですから、真夏のなんとも言えないほどの暑さの中、砂利道を汗をかきかき自転車のペダルを踏んで、冷たい食べ物を売りにくるキャンデー屋さんの姿は、いつもたなぐさとりとともに思い出します。

大塚基氏「私の100話」

38 稲刈り

昭和50年頃までの稲刈りは、秋のお日待ち(昭和40年代ごろまでは9月19日と決まっていて、神社の大祭りが行なわれ獅子舞が奉納されましたが、今は一 月(ひとつき)遅れの10月19日の前の日曜日となる)の頃から田んぼの溝上げ(田んぼが乾くように田んぼの周りや中に30cm巾ぐらいの排水用の溝を掘 る作業)が始まり、田んぼが乾いた10月下旬頃より本格的な稲刈りが始まりました。
稲刈りはすべて手作業でしたので、子供も貴重な労働力でした。ですから、稲刈りの時期が来て日曜日ともなると、どこの家でも家族だけでなく、親戚までも総動員して稲刈りを行なうので、前の水田耕地は賑やかでした。どこを見ても稲刈りの花が咲いているような光景でした。
しかし、子供の頃は、まだ田んぼが整備されておらず、これといった道路もないところがほとんどでしたので、稲刈りに田んぼに行くときには必ずハンディ棒か、ハンディ棒の足などを担いだりして材料を運びました。
それぞれの田んぼごとに稲刈りが終わると、父がハンディを作り始めます。みんなは選って水で濡らしておいた藁で、7〜8株の刈り取った稲株をまとめて結わ え始め、結わえ終わるとハンディの側に寄せておきます。人が多いときは結わえるのとハンディ掛けを手分けして始めたりもしますが、その手順は、梃子の人が 一結わえの稲を取り上げて、その5分の1ぐらいの稲株をつかんで分けてから吊るし掛けする人に渡すと、受け取った人は直ぐにハンディ棒に吊るし掛けできま す。ですから二人の呼吸によって早くも遅くも作業が進みます。
ハンディ棒に対して稲の方が少し多い場合には、吊るし掛けした稲の上に、一結わえを半分にして、人が馬に乗るような形で重ねて掛けます。ですから、重ね掛 けを『馬に掛ける』とか『馬掛けにする』とか言いますが、天日により初冬の空っ風の中でハンディに掛けて自然乾燥させるから美味しい米が出来るのだと言わ れています。
そのように重労働ながら、家族が力を合わせて一田んぼ、一田んぼと稲刈りを終わらしていくときの達成感はなんとも言いがたいもので、一田んぼ、一田んぼ、終わった終わったとの喜びでがんばりました。
中学1〜2年生の頃だったのでしょうか?定かではありませんが、暗くなってきたので稲刈りを終わりにして帰ることになりました。でも、大きな月が昇ってきたので、家族の者が帰った後に驚かせてやろうと思い、3畝ぐらいの田んぼを月の光で刈ってしまった事がありました。
今の子供に比べて、なんとも逞しく意地もったものよと、自分で思い出しても感心する稲刈りの思い出でもあります。

大塚基氏「私の100話」

39 麦まきと手入れ

 稲刈りが終わると麦まきが始まります。
 畑はサツマイモを掘った後に麦を蒔きつけました。
 そして田んぼの麦まきは、稲を刈った後の株のさくを中心にして両側にさくを切って、広巾なさくを作り麦を蒔きつけます。まだ刈ったばかりの稲がハンディに掛かっているときの麦まきですから、ハンディの足のまわりには気を使います。
 さくを切り終えると、金肥(化学肥料)を施し、その上に麦を蒔きつけて、その上に牛に踏ませた木の葉などを堆肥場(こえま)で発酵させて堆肥化した堆肥をその上にかぶせました。
 そして麦蒔きの一連の作業を終えると、麦を蒔いたさくの上に、さくを切った土を振り馬鍬の下についている掻金で土を細かくしながら振り入れて覆土します。
 この振り馬鍬は2人用で、馬鍬本体から両側に伸びる取っ手を、お互いにそれぞれ向き合って握り、気を合わせて振り馬鍬を振らなくてはなりません。特にハンディ棒の下とか、田んぼのヘリなどは、喧嘩などしてお互いの呼吸が合わないと作業が進まないものです。
 私も、この振り馬鍬振りを小学5〜6年生のころから父としたり、母としたりして手伝いました。
 そして、麦の手入れが始まります。
 麦が芽を出して伸び始める12月中旬頃から、麦踏みをしなくてはなりません。麦踏みはたくさん踏むほど麦が逞しく育ちよい実が出来ると言われますが、ひと冬に3〜4回ほど踏み足に体重をかけるような感覚で力づよく踏みました。
  暖かくなり麦が伸び始める3月下旬頃から、麦の中に麦と競争して雑草も伸びてきます。ですから雑草に麦が負けてしまわないように、3月下旬頃から4月中旬 頃までが麦の中の草取りの時期となります。それで、その頃は春休みの季節なので、まいにちまいにち麦の中の草むしりを手伝うこともありました。
  麦の中の草むしりが終わると、麦も大分腰を持ち上げてくるので今度は土入れをしました。鍬の刃の部分が網のようになっている土入れ道具でおこないます。麦 の根元をしっかりさせるとともに、除草の効果を高めるためだったと思いますが、鍬で土を浚うような感じで、畝間の土を浚い上げ、伸びあがってきた麦の上か ら麦の茎間の中に土をふるい入れました。
 麦まきをした後、麦踏み、草むしり、土入れなどの一連の麦の手入れが終わると、麦栽培における子供のお手伝いは麦刈りまでしばらくないことになります。

大塚基氏「私の100話」

40 にわとり

 我が家の蚕屋の前の西側の隅に、にわとり小屋があって、何羽かの白いにわとり飼っていまし た。とり小屋は平飼で中の一段高いところに卵を産む部屋と言うよりも大き目の菓子箱を置いたような産卵場所がありました。しかし、わざと外に出したのか記 憶が定かではありませんが、にわとりが蚕屋の庭や前の桑畑の方までうろうろしていたことも記憶が残っています。
 そして卵は、熊谷から鳥すいと言 う業者が2週間ごとぐらいの日曜日に、尾根の常会場に来て卵を買い取ってくれました。近所に人達もそれぞれの家の卵を持って常会場に集まり、竿ばかりで重 さをはかり値段を決める買受人の周りに陣取ってよもやま話に花を咲かせながら順番を待ちました。
 その当時も、今と変わらないほどの卵の値段であったような気もしますから農家にとっては貴重な収入源であったと思われます。ですから家でにわとりを飼っていても、卵は病気でもしなければ食べられないほどの貴重品でした。
 そして、ちゃぼっとりも飼ったことがあります。
 電気屋の叔父が、どこからもらってきたのだと思っていますが、牛小屋の周りで放し飼いにしておりました。ですから、堆肥場をかっぱいたり、家の周りをかっぱいたり、前の桑畑をかっぱいたりして家の周りを駆け回っていました。
 でも、卵を産む場所はほとんど決まった場所に産んでいましたが、時として卵の産む場所でない分りづらい所に幾つもの卵を見つけることがありました。惚けたちゃぼ(にわとりのこともありました)が産んでおいたものです。
 なんだかその時は、ただで儲けたような気分になって嬉しくて興奮したものです。

大塚基氏「私の100話」
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