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第6巻【近世・近代・現代編】- 第6章:くらし

第2節:回顧録・作文

大塚基氏「私の100話」

21 薪づくり

 私の薪づくりでの思い出には、いつも雪がありました。
 昔はどこの家でも、冬場になるとやましをして、一年分の燃料を木小屋の中に納めていました。
 くずぎは直ぐにそのまま木小屋に入れました。下刈りした雑草木は桑畑などに持ってゆきました。間伐材などの棒はそのまま庭に積んでおきました。
 そして間伐材などは、股木などを利用して作った架け台に固定して薪の長さに切りました。
  この時に、子供などの手伝いがいたら棒に馬乗りさせたり、持って貰ったりしてガタガタしないように固定して切りました。誰もいない時には、自分で棒に足を かけて固定して切りました。そして庭に切った棒がたまると太いものは鉞で割って細かくし、直径35cmぐらいの薪束を作って木小屋の中に積み上げました。
 その薪づくりは、
 雪が降ってきたので、畑に行っても仕方がないから薪づくりをしよう。
 雪が積もっているので畑仕事が出来ないので薪づくりをしよう。
 仕事が中途半端になったので薪づくりをしよう。
と言った具合に、他の仕事が出来ないときに、冬場の仕事としたのが薪づくりでした。
 でも、私の思い出の中に出てくる薪づくりは、いつも雪がサッササッサと降っている光景が頭の中に浮かんできます。

大塚基氏「私の100話」

22 めじろとり

 秋も深まり落葉樹の葉が色づき始める10月の下旬頃になると、山から里にめじろが下りてきてめじろの季節となります。
 私は、小さい頃、6つ違う叔父に連れられてよくめじろとりに行きました。
 朝、夜が明ける前に、めじろの入ったさしこ(竹籠)を持って、鳥もちをもって、めじろの通り道であると思われる山に急ぎます。
  予定した山に辿り着くと、とりもちを巻きつけるための棒(肌がすべすべしていて、もちを汚さないで取り外しの出来る30cmぐらいの素性の良い木の枝)を 見つけて鳥もちを巻きつけて、めじろの来やすい木の枝にさしこを吊るして、鳥もちの棒をさしこの上に止まり木として挿します。
 夜が白々と明け始めると、眠りから覚めて活動を始めた野生のめじろと、さしこの中の囮のめじろとの鳴声の交信が始まり、やがてめじろの群れが現れます。あたりの様子を伺うような仕草をしながら、囮の入っているめじろのさしこに近づいてゆきます。
 そして、野生のめじろが、鳥もちが巻かれた棒に飛び移った瞬間、めじろはもち棒にくっついてくるりと回ってもちの棒に逆さに吊下ります。
 その瞬間を逃さずに、めじろに駆け寄って、めじろを捕らえて足についている鳥もちを綺麗に取り除き、囮の入っているさしこか捕獲用のさしこの中に入れます。
 でも、このことに気づかなかったりした時には、大変なことになる事があります。
  鳥もちを外して逃げてしまう分には、残念で済むことなのですが、めじろが鳥もちを外そうと暴れて体中に鳥もちを付けてしまうとたいへんです。鳥毛がべたべ たと汚れてしまい、綺麗なめじろがだいなしになってしまいます。それよりも悲惨なのは、羽についた鳥もちがついてしまって飛べない状況で下に落ちてしまっ た場合には死にもつながります。
 私の叔父はめじろ捕りの名人でした。口笛でめじろの鳴声を真似るのが上手で、囮のめじろを鳴かせて野生のめじろを誘き寄せるのが得意でしたし、めじろを汚さないでもち棒から取り上げるのも上手でした。
 また、やまがら鳥も飼っていてやまがらとりもしました。
 そして私の得意分野は、めじろの入ったさしこを持ったり、もち棒を持ったり、叔父の言うことを良く聞く、めじろとりの梃子でした。
 叔父が大きくなってめじろとりを卒業したあと、私もめじろを何年か飼いました。
 でも、末っ子と長男の違いなのでしょうか。私のめじろとりは、さつま掘り、麦まきのときに、畑のそばの山の中に囮の入ったさしこを吊るしておいて、めじろの鳴声が聞こえてくると、仕事の手を休めて飛んで行って見張ることでした。
 めじろの餌は、叔父の場合は容器の中に入れて与える摺餌が中心で、よい声がするとかしないとか言っていたような記憶があります。
 私の場合は、サツマイモを蒸かしたり、小遣いでみかんを買ってきて、さしこのうえに乗せて与えました。
 そして、そんな餌がなくなり、農の仕事が忙しくなる春の頃には逃がしてやりました。
 しかし、お正月に年神様の注連縄に飾られたみかんを何時食べられるのだろうかと心待ちしていた想い出を持つと言うのに、小遣いを叩いてみかんを買って、自分で食べるのを我慢してまでめじろに与えた想い出を持つのも不思議です。
 それに、その頃は、物を買うというよりも自分でつくって使うと言うことが原則的な時代でしたから、ある面では当たり前のことでした。
  母の実家から竹を貰ってきて、めじろを入れるさしこ作りにも挑戦しました。竹を細く割ってひごそぎ器(小さな鉄板状のものに丸い小さな穴が開いているだけ の単純なもの)で、さしこの棒を作ったり、きりで穴を開けたりして組み立て、買ってきたものとは違いがあるものの出来映えを喜んだものです。

大塚基氏「私の100話」

23 お蚕様

養蚕は昔から農家の主要な収入源でした。
ですから蚕は、お蚕様と言って崇めてきました。
そんなお蚕様との子供の頃の想い出は、

1)蚕室
 お蚕様は、家で掃き立てたので、蚕の飼育が始まる4月下旬までに蚕室をつくりました。
  20畳ぐらいはあったでしょうか。蚕屋の一区画を障子で囲い目張りをして、温度が逃げないように密封した部屋を作り、その中に水洗いした蚕棚を組み立て、 そこに通称「竹かご」と言う{蚕ぱく}と言う蚕を飼育するための竹製の平籠を差し込み、何時もは蚕室の中の床下に隠されている囲炉裏を開き、近所の養蚕農 家と一緒にホルマリンによる共同消毒をおこなって掃立を待ちます。
 その年の桑の芽吹き状況を参考にしながら、掃立て日が決定され蚕種が運ばれてきます。
 そして、お蚕様が掃立(蚕の卵から孵化した幼虫を羽箒で蚕種紙から掃きおろし初めて桑を与える作業)てられると、通常2令まで蚕室において温度管理に気をつけながら24時間体制での稚蚕飼育が行なわれました。
 私も、物心ついた時には蚕室の中にいました。そして、大きな真名板の上で、大きな包丁で小さく刻まれた桑の給餌や除さを手伝っていました。
  ですから、生暖かさの混ざった甘酸っぱいような蚕室のあの臭いは忘れられません。それとともに忘れられないのは、5〜6歳のころだったでしょうか。蚕室の 中の囲炉裏の中に足を突っ込んで火傷をしてしまって、びっこを引いている時に、蚕屋の前の下道を源三叔父が山羊を引いて通りかかったのを覚えています。

2)お蚕(こ)あげ
 私の子供の頃のお蚕あげは、透明状のきいろの色に体がなったひきり(熟蚕)を、一匹ずつ拾い上げて藁まぶしに入れてやることでした。
 ですから、その頃のお蚕あげは、ひきりが出始めると一斉に何万もの蚕を拾わなくてはならないので、近所や親戚の人にも応援を求めて手伝ってもらいました。
  お蚕様は時期が来て暖かくなると、一斉にひきりになってゆく習性を持っているので、夕方ひきりがいくつか見えると、明日は10時から学校を早退、朝方何匹 かひきりが見えると、今日の午後から早退して手伝えと親から言われました。どうしようも無いときには、学校へ行って教室の黒板に名前を書いてくるだけで、 早退扱いになったので、駆け足で学校まで行って黒板に名前を書いてきたこともあります。
 お蚕上げの時には、学校を早退して手伝うことは当たり前のこととなっていました。そして、お蚕あげの手伝いは、正職についたあとも許される範囲内で蚕をやめるまで続きました。
 お蚕あげの私の小さい頃の仕事は、みんながひきりになった蚕を拾い集めて入れたざつき(おぼんのようなひきりを入れる容器)から、蚕を箕の中に移し変えて、屋根裏の3階又は2階でまぶしの中にひきりの蚕をいれている父の所へ持って行くことでした。
  6〜7人前後の拾い手から「ざつきがいっぱいになったからお願い」との声が、矢継ぎ早にあるのを駆け足で巡りまわり、駆け足で3回又は2階(2階の蚕は3 階に上げ、1階の蚕は2階に上族)に持って行きました。大きくなるにつれて私の仕事も力仕事へと変わってゆきました。それよりもまして、お蚕あげのやり方 も、昭和26年から普及が始まった回転まぶしが30年代後半には主流を占めるようになったので、お蚕様拾いも、一匹一匹の手拾いから簡易条払い機、そして 動力条払い機と推移し、桑条からお蚕様を無理やり振り落とす方法に変わりました。そしてその上に網をかけて、網の上にお蚕様を這い上がらせて、ゴミと分離 して回転まぶしの中に振り込んでいく方法に変わりました。
 なぜか生産工場方式になったようなきがしますが。

3)わらまぶし作り
 我が家の蚕室の3階には、藁を交互に折っただけの簡易まぶしを作る機械があり、その機械で編まれたまぶしに蚕を上族していました。
 しかし、戦後になってからの普及だったのでしょうか。それとは別に、藁でまぶしを編む機械があって、私が小学生のころには、そのまぶし織り機械で編まれた改良まぶしが主体となっていました。
 今は編み方を忘れてしまいましたが、簡単な編み方であったので、親に頼まれて冬場の仕事として、足りないからと言われて、ずいぶん多く作りました。
  しかし、昭和26年から普及が始まったとされる回転まぶしの普及により、徐々に藁まぶしは主流の座を追われ、昭和30年代後半になった頃には、回転まぶし に上族しても繭を作らずにいたお蚕様を「もしかしたら、繭を作るかも知れない」との理由で、藁まぶしの中に上族しておこうとの残務処理的な使用方法になっ ていたように思われます。

4)桑つみ
 昭和34年(1959)に年間条桑育の技術体系が確立されて普及が始まって桑摘みの仕事がほとんどなくなりましたが、私の子供の頃には、春蚕の4〜5令期はいずれにしても、初秋蚕や晩秋蚕はほとんど摘み桑で飼育しました。
  ですから、学校から帰ったり、休みの日などは桑爪をつけて、親たちには負けないように桑摘みを歯を食いしばって頑張ったものです。お蚕様は、昼夜を問わず 気候に関係なく、温度が適温であれば桑を食べ続けますので、桑が無いとなれば、雨でびっしょりになっても、月の光の中でも桑を取り続けました。
 昭和34年の七郷中学校一年生の夏休みの作文をまとめた「ある夏休みのことです」にあるえみこさんの作文のように、私も桑摘みの手伝いを当たり前のこととして、朝早くでも、雨が降っても、夜になっても、何のためらいもなく積極的に手伝いました。

5)繭だし
 繭だしも昭和30年代中頃までは、牛の引く荷車に積んでの出荷で、繭の出荷場所は、七郷村農業協同組合(今の埼玉農業協同組合嵐山支店)でした。
 そして、物心ついた時には、出荷のたびに繭だしの手伝いをしていました。
 繭を出荷する朝は、まだ暗い内に起きて、父母、祖父母と一緒に、色つき繭などに気をつけながら、繭袋の中に繭をつめて秤で量って荷車に積み込みました。そして忙しく朝飯にして、私は学校に行く支度をすませて父と一緒に家を出ました。
 農協に着くと、繭の袋を荷車から下ろして順番を確保し、繭の傍に私が監視役として居て繭の選検が始まるのを待ちます。その間に父は、手頃のところに荷車を置き、牛を手頃のところにつないできます。
 やがて受荷の受付時間が近づくと、養蚕組合の先生や職員、それに繭の出荷を手伝う人達がやってきます。そして選繭係、計量係、記録係、積み込み係と、それぞれの係が持ち場に着くと受付が始まります。
 受付が始まると、選繭台の上に繭が乗せられて、選繭係が選繭台の上に乗った繭の中から、色つき繭、玉繭などの悪い繭を取り除き、良い繭を選繭台の掻き出し口から製糸会社の集荷用の繭袋につめてゆきます。
 このときに養蚕の先生は、選繭台の繭を手にとって繭の品質の等級を決めます。等級は繭価にも大きく影響しますので、先生の言葉に養蚕農家は一喜一憂しました。
 そして、袋詰めにされた繭は、所有者によって計量係のところの台秤に乗せられます。計量が済むと養蚕組合に引き渡されます。その後は養蚕組合の関係者によって、製紙会社が引き取る所定の場所に積み込まれます。
 また一人、また一人と選繭が終わるたびに、順番を待つ人達は自分の繭袋を前に進めてゆきます。そして選繭台に近づくと、順番の人の繭袋を選繭台の上に乗せて空けるのを手伝いっこして、スムースに選繭が出きるように協力しあいます。
  私の仕事は、他人の繭袋と混ざらないように管理すること、選繭台に近づいたら手伝いっこをして順番がきたら繭袋を選繭台の上に乗せて繭袋を空けて(選繭台 の上に乗り、近くの人に繭袋を台の上に乗せてもらって、その袋を空にすることが多かったです。)選繭が終わったら、帰るまで繭袋を保管して置くことでし た。
 父の仕事は、選繭が始まると、選繭人の傍に行き、選繭され袋詰めにされた繭を計量台秤に乗せ、すべての計量が終わったら、家で量った数量と出荷量を比較確認し、荷受票を受け取ることでした。
 そして、荷受の終わった父に繭袋を渡すと私の仕事は終わりとなって学校に急ぎました。
 繭だしの手伝いは、中学校まで同じような形で続き、高校に入ってからは、都合の許す限り自転車で父の後を追って手伝いました。
 役場に奉職してからは、私のトラックに繭袋を積んで父がバイクで私の後を追い、荷受が終わりしだい私は職場へ、父はバイクに繭袋を積んで家に帰りました。
 私の住んでいる古里地区は、いつも繭だしの順番が早い地区に入っていたので、出勤前の繭出しが可能だったので、養蚕をやめる平成11年まで、ほとんど繭出しに携わりました。

6)桑原きっかけ
 山の仕事も終わり、冬場の仕事も一段落して春の芽吹きを待つ3月下旬頃から4月の上旬にかけてが、その年の良い桑園を作るための手入の季節です。
 桑の畝間の一方の桑株の根元に、畝間にある草やゴミをけずり寄せ、その上に桑園専用の(桑)肥料を施し、そのまた上に、山で刈り取った下草などを敷き込みます。そして反対側の方の土を桑で切り取って、その土をかける作業を桑原きっかけと言いました。
 この作業は、桑の生育に必要な元肥となる金肥を入れ、下草などを入れて土をつくり、古根を切って新根を増殖させて、桑木を若返らせて良質な桑葉を量産するためのものです。
  ちょうど学校が春休みの時期の作業でしたので、桑原きっかけには毎日のように狩り出されましたが、桑原きっかけには楽しみもありました。一生懸命に土とに らめっこしてする仕事なんどえ、矢尻とか、石斧とかが見つかるのです。その発見に興味を持っていましたので、そんな石を見つけると手にとって喜んだり、 がっかりしたりも仕事の合間のひとこまでした。
 そんな仕事の楽しみの中でひろった矢尻や石斧などは、家に持ち帰り引き出しなどに入れておきましたが、母屋の建て替えをする中で、どこかへ行ってしまいました。
 残念に思っています。

大塚基氏「私の100話」

24 子供の夜遊び

 昔は、おおっぴらに子供が外で夜遊びできる日がありました。
 秋の十五夜と、十三夜と初冬のとうかんやの夜です。
 十五夜と十三夜の晩にはお供え物の饅頭を食べて、とうかんやの夜はぼた餅を食べた後に、それとなくだんだんと集まってきました。そして遊びの主流は、集まった者が2組に分かれて行なう「じんとり」とか「どこらふきん」でした。
  しかし、私の住む尾根上郭では聞いたことはありませんが、内出地区の先輩たちの話を聞くと、西古里の子供たちと新川を挟んで石を投げあったりの遊び喧嘩を したのだとの話を聞きます。また、尾根の下郭の方でも、吉田や塩の子供達との川を挟んでの恒例的な遊び喧嘩があったようです。それぞれの地区で、それぞれ のやり方で子供の夜遊びが行なわれていたようです。
 また、とうかんやの夜にはどこの家でも藁鉄砲を作り、もぐらが庭や農地を荒らさないように、 病害虫から農作物を守るように、あらゆる願いを込めてたたきました。ですから、とうかんやの夜には、あっちこっちの家からとうかんやの音が聞こえてきまし た。そして、たたいた藁鉄砲は、柿の木に吊るすと豊作だと言い伝えられ、どこの家でも柿の木に吊るされていました。

大塚基氏「私の100話」

25 しょいたとやりん棒

 昔、私の家の前の水田耕地は圃場整備がなされていなかったので、これといって車で 通れるような道路はほとんどありませんでした。そこで、水田から荷車の通れる道路までの運搬、水田から家への稲束の運搬は、はしご形をしたしょいた(背負 た)か、両端を槍のように尖らしたやりん棒を使用していました。
 しょいた(背負子とも言う)には、5〜6束も稲束を括り付けて背負います。やり ん棒には、前後に1〜2束ずつ稲束を括り付けて背負います。今では考えられないような仕事をやっておりましたが、それを子供が手伝うのは当たり前のことで したし、私も年毎にしょいたに結わえ付ける稲束が増えていくことに、大きくなっていく自分に誇らしいような嬉しさを感じたものです。
 納屋に積み上げられた稲束は、脱穀され、籾摺りされてお米になります。もちろんこれらの作業も子供のお手伝いの対象でした。
 また、全部の水田に麦も作りましたが、その麦束も同じように、しょいたとやりん棒で狭い畦道を担いで家まで持って来て脱穀しました。

大塚基氏「私の100話」

26 氏神様と井戸さらい

 昭和27〜28年前後の、私がまだ小学校へ上がったか上がらなかったかの小さかった頃のこと、裏の氏神様の前に筵(むしろ)を敷いて高波宮司に祝詞を上げてもらったのを覚えています。
 家族の者が皆服装を整え、神妙な面持ちでむしろの上に並んですわり、何とも厳かな式典であったことを覚えています。
 昔の氏神様は、安藤光男さんの畑に生えている柿の木の根元にあったのだとの話は常々聞いていましたが、私の覚えている氏神様の式典が、そこから現在地に移すための行事であったとの事を、近年になって父より聞いて、そうであったのかと思いました。
  明治初頭の頃までは、我が家の母屋は裏の畑のところにあって、蔵は裏の井戸の裏の畑のところにあったとのことです。ですから氏神様が昔の母屋の配置からし て、柿の木のあたりにあったことは当然のこととして頷けます。井戸の裏の畑には小石がいっぱいあって、その小石を、蔵のあとだからと言われながら子供の頃 によく拾わされました。
 それに小さい頃、裏の井戸と、安藤貞良さんの畑の中にあるおくりの井戸の井戸底に溜まった土を浚(さら)って綺麗に掃除 したのを覚えています。井戸の浚渫の目的は、隣りのこんにゃく屋で水を多く使うようになったためなのか、井戸の底にあまりにもへどろが溜まってしまったか らなのか分りませんが、井戸浚いの人が来て浚ってくれたへどろを、家の者がバケツなどで井戸の底から引っ張りあげていました。その光景と、深い井戸だなあ と言うことが、いまだに脳裏に焼きついて残っています。
 また、昔は水を水桶で井戸から汲んできて台所の水瓶に入れておいて、勝手(台所)仕事に 使っていましたので、水桶での水汲みは日課でした。学校から帰ると祖父が私を待っていて、裏の井戸はこんにゃく屋でも使っていたので直ぐになくなるので、 おくりの井戸まで行って水を汲み、天秤棒で水桶の前後を祖父と二人でよく担いで運びました。
 このおくりの井戸のことですが、子供の頃は安藤貞良 さんの畑の中の井戸から水を汲むことは当たり前のこととして何の疑問も感じていませんでした。しかし、疑問を持つ年頃になった時に父に聞いたところ、我が 家が貧乏した明治の初め頃に、安藤貞良さんの家では子供が出来ず、祖祖父の姉(大塚浩介さんの祖母)を家とり娘として養女にしたいと申し入れがあったそう です。(その後男の子が生れて大塚浩介さんの祖父に嫁に行きました。)
 この頃は、土地を縁故関係が無ければ自由に動かすことが出来ない時代で、 安藤さんの家で井戸のある土地を欲しいと思っていたこともあり、他に持たしてやることも出来なかったので、養女に行く娘が可愛がってもらえるようにと付け てやったのだそうです。しかし、水の少ない地帯にとって井戸は死活問題、それで井戸の権利だけは保留したので利用できるのだとのことでした。そしてこの井 戸には、何時の頃に掘ったのか分りませんが、飯島健司さんの先祖様が越後から出て来た時に、この井戸の水を使って、井戸の傍で酒作りを始めたのだとの言い 伝えも今にあります。
 祖父との水汲みも、こんにゃく屋の水道管がおくりの井戸まで通じ、我が家にもガッチャンポンプが入るとほとんどなくなりましたが、今では懐かしい思い出です。
 いずれにしても、うらの畑に母屋があって、井戸があって、蔵があって、その周りが大きな杉などの裏山で囲まれていた時代、先祖様たちがどんな生活をして過ごしていたのか、末裔として興味が尽きません。
 そして、我が家400余年の歴史を見守ってきてくだされた我が家の氏神様に、これからも子孫繁栄なることを祈りたいと思います。

大塚基氏「私の100話」

27 我が家の母屋

 我が家は、明治時代の初め頃に貧乏して母屋まで売り払ってしまったとのことです。
 そしてその母屋は、飯島孝司さんの先祖様が、飯島武雄さんの家から分家するときに買い取って分家住宅にしたのだそうです。
  私の母方の曾祖母(そうそぼ)、いわゆる私の母の祖母は、飯島武雄さんの家に生まれ、小林英助さんのところに嫁に行きましたが、その祖祖母が16歳の時 に、尾根台の坂を、私の家を解体した材料を積んだ荷車が引き上げられるのを見たことを、その孫であった私の母によく言っていたそうです。
 父が言 うことには、飯島昇さんの家のような形の家であったけれども、大きな家すぎたので故意にしたとも考えられますが、大工さんが主柱を切り間違えてしまったの で、全部の柱を同じように短くしたので、丈の低い家に成ってしまったのだとのことでした。そして、その柱はもったいないから縁の下にほうり込んで置いたら しいと何時も言っていました。
 何年か前の新年会の時に飯島孝司さんの話がほぼ一致するので、この話は、故意か間違いであったのかはいずれにしても、本当なんだなあと改めて思いました。
 そして、その時に我が家の門が飯島家に引き取られ、重輪寺の門を飯島家で寄進したのだそうです。
 私の母の言うことには、しんごやのおばさん(私の家の生まれで安藤貞良さんのところに養女に行き、そのあと大塚浩介さんの祖父の妻となった)が、昔の家は長屋門だったといったという話も聞いています。
 書き物でもあれば、今の重輪寺の門は、私の家の門をそのまま飯島家が引き取り寄進したのか、長屋門であったので改装して寄進したのか、新たに門を作って扉だけを使って寄進したのか判るのですが、無いことが本当に残念です。
  私の育った母屋は、昔の蔵や物置などを解体して作られたとのことで、柱は四方から板が張ってある柱が沢山あって、板をはがしたら臍穴いっぱいある柱でし た。また、あっちこっちにほぞ穴がいっぱいある材料が使われていました。まさに我が家の栄枯盛衰に揉まれた材料で組み合わされて建てられた家だったのだと 思われます。
 そして今は、昭和37年(1962)に建てかえられた母屋に住んでいます。大分ガタガタしてきたり、今風でもなくなってきました が、「父ちゃんのためならえいらこっさ」の土突きによる基礎固めの最後の年代に建てられたものの、その頃の農家では珍しい玄関があり、小江川の電気屋叔父 が腕を振るって配線した電灯が煌々と輝く近代的な家でした。

大塚基氏「私の100話」

28 こどもの使い

 昔は、電話や宅急便などありませんでしたので、物日などに作った御馳走やちょっとした贈り物、伝言などの親戚などへの使いは子供の役目でした。
  昭和30年代後半までの乗り物は、バイクが流行始めたものの自転車か歩きでした。ですから大人は、忙しい生活の中でちょっとした親戚などへの使いをしてい る余裕はありませんでした。それに、子供が使いならば使いを出した方も使い先においても、忙しい生活の中で接待することに気を使わなくても済むと言う、今 から考えると生活の知恵もあったのだと思われます。
 初めての親戚などへ使いに行った時は、行く道をどう知ったのか覚えておりませんが、子供の頃から使いに行っていました。
  ですから、山にそった木の葉の積もった細い道を通って、一の入りのおばさんの家(昭和30年代までランプ生活)に行ってランプの光の中でお汁粉をご馳走に なった時に暗くておわんの中が見えなかったので食べた思いがしなかったこと、大塚洋一さんの家に行った時に、まだ中学生ぐらいだった洋一さんの姉さんが手 をついて挨拶してくれるので、小さな私はどのように挨拶したらよいかと戸惑ったこと、中尾のおばあさんのしっかりとした目での挨拶、などなど、いろいろな ことの思いでがいっぱいあります。
 それに私は、大塚こんにゃく屋での運び手伝いもしていました。秋から春にかけて、隣のこんにゃく屋の光一おじ さんが、注文があったので蒟蒻やところてんを運んでくれと時々頼みに来ました。行く場所は、ほとんど熊谷市(旧江南町)の大沼公園にあるお店か、県立農業 教育センター前の大阪を熊谷方面に下った所にあった店でしたが、自転車の後ろに、こんにゃくやところてんを入れる特別製の箱を積んで、光一おじさんに頼ま れるままに運びました。
 しかし、お店に行ったらお店の容器に箱から出して移し変えてくるのですが、間違って落としてしまったら大変です。蒟蒻はぐにゃぐにゃしていて壊れないので安心なのですが、ところてんを落としてしまったら、ばらばらになって商品にならないので大変です。
  ところてんは、持って行ったところてんの一丁を12個ぐらいにする道具で、お店の容器に入れてくるのですが、容器に入れるのをお店の人は良く見ています。 どんなに丁寧にお店の容器に入れようと思ってもこばが少し欠けるので、見られながらの作業は非常に子供ながら嫌なものでした。
 そんな思いもしながらも、子供の頃、おじさんに頼まれるとお使いをしていました。でも、5つ違いの私の弟に聞くと、そんな想い出はないと言いますが、それは、長男と次男の家族の感覚の違いとともに、5年の間の大きな時代の変化の大きさかとも思います。

大塚基氏「私の100話」

29 古里駒込墓地の話

 飯嶋昇氏宅の東にある安藤家の墓地は、今から200年前頃までは内出から尾根にかけての共同墓地で、いろいろな苗字の墓地があったとのことです。
 しかし、少しずつ関係者の分家等により戸数が増えて墓地が狭くなると、墓地の利用権利をめぐって、内出地区を拠点とする安藤家と尾根地区を拠点とする人達との墓争いが起きて裁判沙汰になったのだそうです。
  その内容がどのようなものであったか知りたいところですが、今のところ知る由もありません。しかし、今は面影があまりありませんが、その昔は、安藤家の墓 地から駒込基地にかけて古墳が犇めき合うように並んでいて、古代の大きな墓地地帯を形成していたようです。ですから、安藤家の墓地から駒込基地にかけて、 その昔は無造作に墓地が作られ点在していたとも思われます。でも、時代も戦国時代を経て平穏な豊臣、徳川の時代になると、治世は日本の隅々まで行き届くよ うになりました。そして、土地に対する所有権、利用権も確立されるようになり、安藤家の墓地となっている区域は地域に住居を構えている人達の共同墓地とし て確立されていったのだと思われます。
 しかし当初は、地域の墓地として仲良く共同利用がなされていたのだと思われますが、分家等の墓地の増加に 伴って狭くなってくると、自分の家系の者に優先して墓地を与えたいとの思いから墓地の権利をめぐって家系間での勢力争いが生じてきて、墓地の使用について 奉行所に訴訟がなされたとのことです。
 伝え聞いた話として訴訟の結果は、本当の内容は定かではありませんが、奉行所への気遣いで安藤家に傾き安藤家の勝訴となったとのことです。そこで、墓地を守るために苗字を安藤に変えた家もあるとのことです。
 そして、安藤家との裁判に負けた大塚家等の家系は敗訴となり、新しい墓地を入手せざるを得なくなりました。そこで埋葬も安易な今の所が検討され、駒込共同墓地を作ったのだそうです。この共同墓地は約4000uと言うほどに広い面積です。
 これは、安藤家との墓地争いという苦い経験から、後世において子孫の間で墓地争いが起こらぬように考えた判断によるもので、まさに先見の明のあった決断だったと思われます。
  しかしそれには、当然土地所有者もあったでしょうし、土地の取得問題から共同墓地を確保するという奉行所への申請、許可等など大変なことだったとの言い伝 えも聞いています。ですから土地所有者も含め当時の関係者の後世に残した贈り物としての墓地の確保であり、そこに携わった多くの人々の努力の賜物だと思い ます。
 ですからその後、墓地の世話人は、殆んど固定されて運営されていたとのことですが、役員の持ち回りになった後も墓地の増加はほとんど尾根所有者の分家に留まっておりました。
 ところが、昭和57年(1982)に安藤宗吉氏、本田清作氏よりの墓地使用願いをきっかけにして、当時の役員であった飯島文八氏、飯島良作氏が中心となって古里尾根に根を下ろした人も受け入れる規則を定め、今に至っております。

大塚基氏「私の100話」

30 八坂神社

 今の古里2区の遊園地の ところは、国策として発令された神社は合併すべきとの布告によって、大正2年(1913)9月23日に兵執神社へ合併するまでは、八坂神社、愛宕神社が鎮 座していて、尾根郭の鎮守として崇められていたところです。その鎮守の森は、うっそうとした大きな木に覆われていたそうです。私の祖母からも子供の時に来 たときには、大きな森があったのだと聞いたことがありますが、安藤昌夫さんの家が森下という屋号で呼ばれるように、それだけ大きな森があったのだと思われ ます。
 私の家には、大きな木の幹の表面を残した板が何枚もあります。父が言うには、これは、私の曾祖母がとうじゅうから嫁にきましたが、曾祖母 の弟がもとじめを手広くはじめていて、八坂神社の鎮守の森の木も切ったのだそうです。そして、その木を板などにして売ったのですが、商品価値のない外側の 不整形の板を、何かに使えるだろうと義兄である曾祖父にくれたので、家にあるのだとのことです。
 大正9年(1920)生れの父が子供の頃には、 森下の東側の道路に沿って大きな木を切った根株が並んでいて、その上で遊んだ記憶があるそうです。すぐに伐採とのことは考えられませんが、神社が合併され た大正2年(1913)に伐採されたとしても、大きな根株が残っていたことは充分納得のいく話です。しかし、大塚右吉さんに聞くと、知らないと言いますの で、年齢4歳の差の中で根が朽ち果てて土の中に埋まってしまったとのことが考えられます。そして、境内地を取り巻く鎮守の森は、開墾され畑地での利用が進 んだのだと思われます。
 そして、私の知っている境内地の回りは、畑になっておりましたが、遊園地になるまでは、神社の形状を整えていました。旧 県道から参道が図1【省略】のようにつながっていて、参道は図2【省略】のように坂を上がって、それから気持ち少しずつ上り坂が続いて社のあった場所に少し急な坂を上るよ うな形態でした。
 そして毎年、夏祭りには境内地にお仮屋を建てて、兵執神社から天王様が迎えられ、盛大に夏祭りが挙行されてきました。
 しかし、昭和54年(1979)から始まった老人会のゲートボール大会にあわせて、ゲートボールの練習場として利用するために八坂社跡地が遊園地となることになり、工事が行なわれたときに、大きな木の根がいっぱい掘り出されました。
  飯島良作叔父がちょうど神社総代であったのか、遊園地の工事には携わっていて、大きな木の根っこを私に何処かに飾っておくかと言ってくれましたが、まだ蚕 が盛んな時で、畑にも置いておく場所も無いときでしたから、ちょっぴり欲しいと思いましたがことわりました。しかし、叔父とのやり取りは、昨日のように思い出されます。

大塚基氏「私の100話」
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