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第6巻【近世・近代・現代編】- 第6章:くらし

第2節:回顧録・作文

大塚基氏「私の100話」

11 竹馬

 冬は、昭和30年代頃までは、やまし(山仕事)や麦踏の手伝いはありましたが、仕事も落ちついて子供たちが遊びに専念できる季節でした。
 その遊びのひとつに竹馬遊びがありました。
 手頃な薪を見つけて、竹馬の足場にちょうど良い長さに切って、それを半分に鉈などで割って、それをまた半分にして、手頃な真竹に縛り付けて作ります。
 足場には、角材を使う子供もおりましたし、丁寧に竹に合わせて切込みなどを入れた子供もおりましたが、見よう見まねで子供たちが工夫して作りました。
 竹馬乗りは、初めは地面から少し上がったところからだんだんと高くしてゆきます。
 中には親などに作ってもらう子供もおりましたが、子供たちは先輩に教わりながら夢中になって作りました。作ること自体が遊びであり、勉強でした。

大塚基氏「私の100話」

12 どこらふきん

 どこらふきんは、子供たちが2組にわかれて見つけっこする遊びです。片方のチームの者が場所を定めて、その場所あたりに隠れて、もう一方のチームの者が指定された場所あたりに行って、隠れたチームの全員を探し出すという遊びです。
 場所の指定は、隠れる者が、納屋など隠れる場所の多い家などを指定します。
  昔の農家の納屋は開けっぴろげで、藁や木の葉や薪等が積まれており、農家で使う用具なども積み上げられておりました。それに、納屋の中にはさつま床などの 穴が掘ってあったり、家の周りには、氏神様などの小屋があったり、大きな木があったりして、隠れるには最高の場所でした。その頃は、どこの家でも明るくて も60Wぐらいの裸電球が家の中に2〜3個ある程度で、外灯は無い時代でしたから、明かりと言えば月の光ぐらいでした。
 そこで、指定した付近に隠れるチームの者は、そこに行って藁の中に潜りこんだり、むしろを羽負って壁にぴったり張り付いたり、さつま床に入ったりして、それぞれに見つからないようにしました。しかし、だんだんと見つける場所が狭められて見つかってしまいます。
 藁の中などに居るらしいと判ると、わざとその上で飛び跳ねてみたり叩いてみたりして、隠れて居た者が耐えられずに声を出すように仕向けたりもします。そんなふざけたことをしながら見つけることも、遊びの一部でした。
 この遊びは、子供の夜遊びの時などに主流の遊びとして行われました。昼間のどこら付近と違って何となくわくわく緊張するものがありました。
  特に夜遊びでのどこらふきんは、隠れようとして、見つけようとして、さつま床に落ちたとか、肥溜めに落ちたとかとの話や、藁などの中に隠れたら眠ってし まって、見つけるほうも見つからないので家に帰ったのだろうと判断して家に帰ってしまったとか。気がついたら朝だったとかの笑い話が絶えない遊びでした。
 でも子供たちは、餓鬼大将が中心になって行なわれるこのような遊びを通して、いろいろな生活の仕組みを肌で感じ、知恵を学び、たくましく育てたのだと思います。

大塚基氏「私の100話」

13 お正月

 あわただしい師走が、夜の12時を境にして、一瞬にして優雅さの漂うゆったりとしたお正月に様変わりします。
 ラジオから雅楽が流れ、家族の者同士でも、そしてだれでもが合う人たびに「おめでとう」「おめでとう」と挨拶を交わします。
 私の祖父は明治生まれの人で、何事にも神仏を敬い、四季おりおりの行事についても完璧なほどに几帳面な人でしたのでその季節の行事をするのが当り前として育ちました。
 私の家では、まだ暗いうちに起きて、家の中の神棚、氏神様をお参りしたあとに家中で兵執神社、御岳様、そして御岳様の裏の、重輪寺が始まったところの言い伝えもある場所にたっている阿弥陀如来像、柏木沼の弁天様、稲荷様の順に初詣して1年が始まりました。
  お正月の楽しみはいっぱいありました。小学生の学年ごとに小学○○年生という月刊誌がありましたが、毎月買って貰えるものではありませんでした。しかし、 12月の上中旬に学校で新年特集号の注文をとるので、なんとなく買って貰えました。それに、着替えを買ってもらえるのが天王様前の夏着、そして正月の前の 冬着でしたので、それも楽しみの一つでした。
 そして正月になると、遊びがいっぱい待っていました。
 コタツの中や、アンカにかけられた布団の中に足をつっこみっこしながら、トランプをしたり双六をしたり、かるた取りをしたりなどの楽しみがありました。
  角凧を作ったり、奴凧を買ってきたりして、新聞紙などを切ってつなげて細長い足をつけて近所の子供たちと競ってあげました。電柱もほとんど無い時代でした から、どこでも自由に凧揚げが出来ました。そして、こども達だけでなく大きな凧を作ってきて、子供たちの中に加わる大人もいました。
 前の耕地の真中を流れる新川には、お正月になる頃には氷が厚くはるので、みかんの木箱の前側に2本の縄を結わえて、その中の一人が木箱に乗り、2本の縄は両側の堤にいる子供が引っ張る遊びもありました。そして、代わる代わるみかん箱にのりました。
 ぶっつけ(メンコ)にも、べいごまにも夢中になりました。
 中心を決めて、その中心からその周りを蜘蛛の巣状に針を刺してだんだんと大きくしていくゲームで、行く先を妨害したり、すり抜けたりの楽しみのある「釘さし」と言う子供の遊びもありました。竹馬も馬乗りも、おしくらまんじゅうも子供の遊びでした。
 遊びの材料は、手作りや他愛の無い道具を使ったものが主流でしたが、お正月は、四六時中お手伝いもあまり頼まれずに遊びに没頭できる時でした。
 年神様の注連飾りに飾られたみかんが異様においしく感じられ、いつ食べられるか心待ちにする楽しみもありました。

大塚基氏「私の100話」

14 ガシャガシャとり

 私の子供の頃の昭和30年代頃までは、いろいろな面において本当に自然とともに生活があったような気がします。
 秋の虫も豊富でした。家の中まですいっちょ(馬追虫)が飛び込んできましたし、いろいろな虫も飛び込んできました。土間にはこおろぎの合唱がありました。
 そんな秋の楽しみの一つに、ガシャガシャ(くつわむし)とりがありました。
 8月中旬の熊谷の花火大会のころからガシャガシャが泣き出し、ガシャガシャとりが始まります。缶詰の空き缶を横にして、下から釘をさして蝋燭を立て、上側に針金で持つところを付けた照明具、今の棒電気を作ってのガシャガシャとりです。
 その頃の山は、何処も管理されておりましたのでとても綺麗でした。松林などの下草は、春に生えた下木や葉草で、ガシャガシャが生活していくのには最高の場所でした。
  ガシャガシャとりに行くときには、自分で作った照明器具を持って、ガシャガシャが鳴いているほうに近づきます。ガシャガシャは人の気配を感じると鳴き止ん でしまい、何処に居るのか判らなくなってしまいます。そこで気づかれないようにそーと近づいて、葉草などにとまって鳴いている所を捕らえるのです。
 照明の中に、ガシャガシャを発見したときの感動、捕まえた時の喜び、そして逃げられて周りを見つけ回る時の虚しさは、それぞれ子供心に強く焼きついています。
 ガシャガシャは、赤っぽい色をしたのを「赤す」と言い、青っぽい(緑色)色をした「青す」と言いますが、ガシャガシャを取った時には、赤すを取ったとか、青すを取ったとかの話を言い合って喜んだものです。
 そして、取ったガシャガシャは、取った数日間はかごなどに入れて茄子などを与えて飼ったりしますが、その後は庭に放してガシャガシャの鳴き声を楽しみます。
 しかし、台風が来たときには、いっぺんに遠くの方に行ってしまったり、急に鳴声が止んでしまったりして寂しさを感じたものでした。また、秋の深まりとともにだんだんと遠くの方で鳴くようになり、いつの間にか聞こえなくなると、子供心にも寂しさが込み上げてきました。

大塚基氏「私の100話」

15 やまし

 昭和30年代頃までは、食生活のための竃、囲炉裏での燃料、そして暖を取るための燃料もすべて燃し木に頼っていました。
 ですから、生活の収入源である春の養蚕から秋の稲の収穫、麦まきが終わると、冬場の農家の仕事としてやましがありました。
  やましは、山に生えている下草を刈り取り、熊手でくずぎ(松などの針葉樹の落ち葉が多くて竃や囲炉裏の燃料に適しているのをくずぎと言い、楢の木などの落 葉樹の落ち葉が多いところを木の葉と呼びましたが、松林がほとんどであったので総称で言う時にはくずぎはきと言いました。)はきをして、大かごに入れ、そ の後は、竹棒の先に鎌を結わえて、枯れ枝(不必要な枝もあわせて)を引っ掻き落とす「枯れっこ掻き」を行ない、枯木の伐採と間伐した木を玉詰めして、家に 持ち帰り木小屋の中に積み込んで一年間の燃料としました。
 ですから、冬場となると、学校の帰りが早いときや休みの日には、子供はやましに刈り出 されます。そしてやましに行く時には、牛の引く荷車の上の籠の中に入って乗るか、歩きであったので、行き帰りに時間がかかり大変でした。そこで何時も弁当 もちでのやましでした。やかんで沸かしたような気もしますが、お茶はポットもない時代でしたから、どのように持っていったのか、記憶が定かではありませ ん。しかし、木の枝を折ったり、篠ん棒を使ったりして、家族みんなで食べる食事は格別なものがありました。
 それに正月を過ぎると、お茶休みの時には決まって山で餅を焼きました。燃し灰の中から豆餅、繭玉などを掻きだして食べる、その美味しさは格別、昨日のように思い出されます。
 探検隊のように何事も興味しんしんで、昼休みの時などは、山の周りの少し遠い山までも足を伸ばして周辺の状況を知って楽しみました。この頃の山はどこも綺麗で、山の中を駆け回っても何の不都合がありませんでした。
 やましの仕事の合間には、木登りしたり、くずぎの入っていたかごから飛び降りたり、本当に自然の中で過ごしていたのだなあと思い起こせます。

大塚基氏「私の100話」

16 夜回り

 昭和30年代中頃まで続いたでしょうか。冬の夜になると2人1組での火災予防のための集落内の見廻りがありました。
  初めの見回りは夜の12時頃だったでしょうか。当番になった片方の家に集まり、寒さに耐えられるように厚着をしたりほっかむりなどをして、集落の各家を手 振り用の鐘をチリンチリンと鳴らしながら“ご用心ない、ご用心ない”と声をかけて歩きました。家の中の人は、“ご苦労さんです”と言って声を返します。
  そして一回りすると、囲炉裏端でお茶などを飲みながら四方山話に花を咲かせて、2回目の夜まわりの時間を待ちます。そして2回目の夜まわりは1時頃だった でしょうか。時間になると、また身なりを整えて部落の中を鐘をチリンチリンと鳴らしながら“ご用心ない、ご用心ない”と声をかけてまわりました。
 そして2回目が終わると当番は終わりになって、次の朝に鐘と順番の名簿を次の当番のところに回します。
 その頃は、生活のための竃も囲炉裏もすべて燃し火でした。暖をとるためのコタツやアンカやヒバチは燃し火による炭火でした。
 それに、屋根は麦わら屋根で家の建て方も間取りも、日本の風土に合った通気性のよいものに造られていたので、木枯しの吹く頃になると空気が乾燥して、土壁の周りの隙間も広がり、北風が家の中に吹き込んできました。
  ですから、冬になって空気が乾燥して火を使う機会が増えてくると、人々は余計に残り火に気を使いました。残り火を消壷に入れたり、灰の中に丁寧に包み込ん だり、火元のまわりに水を打って乾燥を防いだり、特に寝る前には火元を見廻るのが家族の習慣になっていました。しかし、そんな戸々の努力にも拘わらず、残 り火が隙間風によって息を吹き返し、勢いづいて大火事に発展することがありました。
 特に昔は麦わら屋根がほとんどで、消防力も弱かったので、火事が始まると集落を総なめにしてしまい集落民みんなが路頭に迷うことも多々ありました。
 ですから、そのような惨事を起こさないためにも「火の用心」の夜回りが各集落で行われておりました。そして、夜回りによって小火が発見されて消し止められたので大火にならずにすんだとの話があっちこっちにありました。
  しかし、日本の経済成長とともに生活様式が変わって、燃料が燃し木から石油やガスへと移っていく中で、いつの間にか、「火の用心」の夜回りもなくなりまし た。中止になったのは昭和30年代になってからと思えますが、確かな年はわかりません。そして、夜まわりで鳴らしたあの鐘は、最後に当番になった家か、当 時の役員の家に保管されたと推測されますが、果たしてどこにあるのかと、懐かしさとともに興味がわきます。
 いずれにしても、自分達で家庭を、集落を守ろうとした夜まわりは、集落の絆を深める年中行事でもありました。
 古里消防団に、昭和48年(1973)8月に従来の牽引式消防ポンプに変わって消防自動車が配置され、私も消防団員となりました。
 今でこそ夜中の火事は珍しくなりましたが、その頃の農家では、まだまだ燃し火が多く使われており、冬になって夜中の2時〜3時頃になると残り火が燃え上がって、出動要請が有線放送電話より流れて、消防自動車が出動することがたびたびありました。
 その頃のことを考えると、人々の命や財産を守ってきた夜まわりが果たした役割が如何に大きかったかを改めて感じます。

大塚基氏「私の100話」

17 てんぐだんご

 てんぐだんごとは、神社の祭典の時にお供えしただんごのことです。
 古里においては、兵執神社(へとりじんじゃ)の祭典、愛宕神社(あたごじんじゃ)の祭典、御嶽様(おんたけさま)の祭典の時にてんぐだんごをお供えして、祭典の神事が終わったあと庭に集まった氏子に投げ与えました。
 祭典が近づくと、用番(用掛り)が各氏子の家を訪問して米一合づつを集めて精米し、製粉場へ持っていって米粉にします。
 神社の祭典は2時頃からですから、その日の午前中に当番郭の用番が集まって用番の家で米粉だんごを作ります。
 そして、飯台にいれて神社に運び、神棚にお供えし、神事が終わると総代と用番が庭に投げました。だんごを拾いに子供ばかりではなく大人もいっぱい集まって神社の庭がいっぱいになるので、だんごを投げる者も気合が入ります。
 てんぐだんごが投げられ始めると、集まった大人も子供も夢中になって団子をひろいました。とりっこになって千切れてしまうだんごもありました。大勢で拾うものですから、踏んづけてしまうだんごもいっぱいありました。
  しかし、千切れても、踏まれて泥だらけのぺったんこになっただんごも、ぱたぱたと手で何回か叩いて大泥を落とすと、泥がついているのに平気でパクリと食べ ました。昭和30年代までは、汚いから食べては駄目だとか、手を洗って食べなさいなんてヒステリックな言い方をする人もいない時代でした。おなかを壊して しまったとの話は聞きませんでした。
 私の妹のてんぐだんご拾いの話は、いまだに語り草になっています。妹が6歳頃のちっちゃい時のことです。2 月の神社の祭典の日の朝までに30センチほどの大雪が降ったので、家の者が行くのを止めました。でも、何が何でも行きたいと言うので、ちっちゃい長靴に雪 が入らないようにしたり、防寒を完璧にした服装をして祖母に連れられて行ったのだそうです。
 その頃の米粉だんごは、お祭りにしか食べられないようなご馳走でした。今のような飽食の時代には考えられないことですが、普段と違った美味しいものが食べられる楽しみは、そんなにちっちゃい子にも浸透していたのです。
  しかし、そんなてんぐだんごも、甘味な美味しい食べ物が安易に手に入るようになると、魅力もなくなり、神社の祭典に集まる子供の数も大人の数も毎年少なく なってゆき、てんぐだんごも投げる習慣から手渡しの方式に変わりました。そして、飯島高司さんが総代であった平成14年にてんぐだんご作りは廃止されて、 業者に頼んでつくられただんごが祭典の時に、神棚にそなえられるようになりました。
 神社の祭典には、遥か昔から五穀豊穣、家内安全を祈り、氏子の協力によっててんぐだんごが作られ供えられてきましたが、時代の趨勢の中で、氏子によるてんぐだんご作りが取りやめとなりました。
 あと数十年すると、てんぐだんごが氏子によって作られたこと、投げ与えられたことなど、完璧に忘れられてしまうのかもしれません。

大塚基氏「私の100話」

18 うさぎ

 昭和25年(1950)に勃発した朝鮮戦争の特殊需要などもあって、日本の経済も生活も著しいほどの向上、発展を遂げてきた昭和30年代に入った頃から、農村の生活も大きく変わり、燃し木を中心とした生活からガスや電気を利用した生活へと移ってゆきました。
 そして、農家のお嫁さんにも土木工事やゴルフ場でのキャディなどの副業仕事にありつける機会が出てきて、それなりに自由に出来る小遣いも出来てきました。
 しかし、それまでの農家のお嫁さんには、財布の紐は舅、姑が握っているので、自由に出来る小遣いはありませんでした。実家の親からもたった小遣いを使うのにも、気を使う状況でした。
  ですから、昭和20年代のお嫁さんの小遣いとしてりんご箱に金網を張ってうさぎ箱を作ったり、専用のうさぎ小屋を作ったりして、その中でうさぎを飼育し、 大きくしたり子うさぎを生ましたりしました。そして、そのうさぎは、うさぎやと言われる仲買人があちらこちらに居て、子ウサギとして、また肉用として大き くなったうさぎを買いに来ました。何の小遣いも得られない若い嫁さんにとっては、とても貴重な小遣いでした。
 そのお金で子供に少しばかりのものを買ってやることが出来ました。と言っても、お嫁さんは家事から農作業までも行なわなければならない立場でした。
  そこで否応無く、うさぎの餌とする草とりは子供たちも手伝うこととなりました。学校から帰るとみかいかごを背負って、道路のあぜや桑畑の中に生えているう さぎの好みそうな草をとって帰りました。そして、うさぎの入った箱の中に入れてやると、美味しそうに食べるうさぎは、何とも愛らしい赤い目をしていまし た。
 うさぎの飼育は、姑さんにも、子供にも広がってゆきました。

大塚基氏「私の100話」

19 やぎの世話

 戦後のことだったのでしょうか。
 昭和30年代の初めの頃までは、動物性たんぱく質の多い山羊の乳を得るために多くの家で山羊を飼っていました。
 早春に山羊が出産すると、子山羊の世話とともに、山羊の乳しぼりがはじまります。
 私も学校に行く前に山羊の乳を搾って、飲めるようにするまでの一連の作業を担っていました。手順としては、草などの餌をヤギに与えて餌で山羊の気をそらしておいて、その間に暴れないようにヤギの足を杭に縛って乳を搾りました。
  しかし、忙しかったり厄介になったりすると、餌を与えながら山羊の片足をもって乳を搾ってしまいました。すると、ふいに持っていない方の後ろ足で蹴られた り、乳の入った入れ物をひっくり返されて大慌てすることがありました。特に乳の入った入れ物をひっくり返されて、中の乳がほとんどこぼれてしまった時は がっかりです。
 乳を搾るときは、ヤギの乳頭の上側を親指と人差し指で、乳頭の中に入っている乳が逆流しないようにしっかりと握り、乳を押し出す ように中指、薬指、小指と順番に素早く乳頭をにぎってゆきます。すると、乳が水鉄砲から出てくる感じで、入れ物の中に、ジュージューと音をたてて入りま す。乳の搾り具合の強さによって、それなりの音になるのも興味そのものです。
 そして乳を搾り終わったら、入れ物を持って勝手に行き、すいはくをビンなどの上にのせ、その上にゴミ濾し用の布巾などを乗せて、上から山羊の乳を注ぎます。
 すると、乳はすいはくの出口からビンなどの中に注がれ、山羊の乳の中に混ざってしまった山羊の毛などのごみは取り除かれます。そしてその乳は、沸騰消毒して一連の作業は終わりとなります。
 この一連の朝の仕事が、朝食前の子供の仕事として、私に割り振られていました。

大塚基氏「私の100話」

20 朝草刈り

 昔は、何処の農家でも、農耕用に供するために牛か馬を飼育していました。そして、夏になるどこの農家でも牛や馬の餌にするために、朝の草刈りを日課としていました。
 私も物心ついた頃より朝の草刈りをしていました。と言っても、小さい子供が籠を背負って草刈りということも考えられませんので、小さいときには見よう見真似で草刈りを手伝い、一人前に朝の草刈りを行なったのは、小さくても小学4〜5年生になってからだと思います。
 朝の5時前に起きて、朝草を刈ってから朝飯を食べて学校に行きました。
 そして学校の帰りには、水田の中の畦道をジグザグと通りながら、明日の朝はどこで草を刈ろうかと思い、草が伸びているところを探しながら帰りました。
 そして翌日の朝、竹籠を背負って、目星をつけておいたところへ行くと、近所の人が先に草刈りをしている時にはがっかりしました。
 その頃は、どこの家でも朝草刈りをしていましたので、今のように草がボーボー生えているところはありませんでした。ですから、草丈が15cm伸びていたならば貴重な場所でした。
  朝草を刈ってくると、草の入った籠を牛小屋の前に下ろして、刈ってきた草を牛小屋の中に入れてやると牛は嬉しそうに食べます。草を刈って籠につめ、一番上 を『縦にする』と言いますが、籠の中をいっぱいにして、籠の上のほうを草を縦にして詰めこみ、少しでも籠の容積より多く入れるようにしました。
  しかし、良い草刈り場がなくて帰る時間が迫っているときなどは、籠の中がすかすかでも、上の方を縦にして如何にもいっぱい取ってきたように見せかけます。 でも、そんなことをすると、牛小屋の前で勢いよく背負ってきた籠を下ろすと、下ろした拍子に籠の中がへっこんでしまいました。そこで慌てて牛小屋の中に草 を放り込んで、牛にくれたので籠の中の草が減ってしまったのだと言う顔をしました。その辺のところは親もお見通しであったと思いますが、子供心にもそんな 悪知恵も考えたことのある草刈りでした。
 しかし、その朝草刈りも、30年代中頃からのマメトラの普及により牛馬による荷車による運搬や農地の耕起や代掻き等の管理がマメトラ利用となり、農家から牛馬が消えていくのと同時に必要がなくなり、夏の朝の風物詩が消えてゆきました。
 部落の懇親会などで先輩たちから聞く朝草刈りの話は、朝草刈りに行くふりをして家を出て途中で着替えて遊びに行ったとか。
 夜遊びから帰ったのが朝になってしまったので、そのまま草刈りの用意をして人目のつかないところで寝ていたとか。きりがありません。
 しかし、だんだんとそんな昔ばなしを話してくれる人も少なくなってきました。一抹の寂しさを覚えます。

大塚基氏「私の100話」
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