第6巻【近世・近代・現代編】- 第6章:くらし
大塚基氏「私の100話」
1 ぶっちゅめ
本当の語源は解りませんが、なんとなくぶって取るとか、ぶって閉じ込めるとかの意味ではないだろうかと推測されるぶっちゅめは、山あいや畑の傍らの陽だまりに仕掛けて、雀やホオジロなどの小鳥を取る罠のことです。
大塚基氏「私の100話」
ばねになる篠棒(主篠)に結わえた2本の糸によって、両端を縛られた篠棒(篠2)を地面に接して横に固定された篠ん棒に絡めて引き上げ、その篠棒を主篠に 結わえたもう一本の糸によって結わえた仕掛け棒に引っ掛け、その仕掛け棒の反対側の先端のところをもう一本の細い篠棒(篠3)を横に設定します。そして小 鳥がやってきて仕掛け棒と篠2との間に小鳥が首を挟まれてしまうという仕組みです。
ぶっちめは、子供たちの冬場の遊び仕事として先輩たちから引き継がれてきました。
子供たちは雀やホオジロなどが集まる陽だまりの所を見つけると、それらの所にぶっちめを仕掛け、それに小鳥が掛かっているかどうかの確認を楽しみの日課としていました。
そして、取った雀やホオジロなどの小鳥は、羽をむしりとり、内臓を取り出して、炭火などであぶったり、肉を煮物などにいれたりして食べました。
私は家の周りの畑だけしかぶっちゅめを仕掛けた記憶がありませんが、先輩達からは、谷津の畑の陽だまりに仕掛けたぶっちめで取ったとかの話はたびたび聞きました。(この頃は谷津の奥の方まで畑は綺麗に耕されていました。)
また、冬場の子供たちに遊びとして、篠や竹などを使って弓を作り、茅の穂下の節のない真直ぐな茎の先に篠で作った矢じりをつけて、家の周りに群れる雀など の小鳥を狙いましたが、なかなか取れませんでした。若い衆には空気銃が流行っていて、空気銃でとってもらって焼いて食べた雀のこりこりとした肉の味は忘れられません。
2 昆虫採集
私の子供の頃の小学生の夏休みの宿題に、夏休みの一研究がありました。
大塚基氏「私の100話」
その一研究の定番が昆虫採集でした。
セミやトンボやバッタやチョウなどの昆虫を取ってきて、すぐに傷まないように注射器で防腐剤(アルコールのようなもの?)を昆虫に注射して保存します。そ して、菓子などの入っていた箱などを利用して、その中に昆虫採集用の針で、昆虫を整然と並べて固定し、名前や採集場所などを書きつけておくものです。
注射器などは、昆虫採集用として、文房具屋に売っていて、子供達はこそこそと貯めた小遣いから捻出して買いました。
ですから子供たちは、夏休みともなると友達と連れ立って出かけたり、一人でこっそり出かけたりして、昆虫採集に夢中になって自然を楽しんでいました。
セミを取るときは、篠竹の先端に篠ん棒を丸めて差込み、それにだんじゅうろう蜘蛛の巣を巻きつけて、そっとセミの止まっている木に近づき、素早く蜘蛛の巣をセミに被せて取ります。網よりもセミに気づかれないでよく取れます。
バッタなど草むらに潜む昆虫は、夏の香りがむんむんとする草むらを、ガサガサと足や棒で揺すると慌てて草むらから飛び出します。そこを網で捕らえるのです。トンボは、どこの棒の先端に止まるのか目安をつけて待っていて捕らえます。
子供ながらも、それぞれに、それらの状況を常に判断しながら、昆虫との知恵比べをしながらでした。そして夏休みが終わる頃になると、用意しておいた箱の中 に整然と並べて整理して、衣類や菓子箱などに使われていた透明なポリエチレンやビニールなどで箱の上を覆って出きあがり、昆虫標本を完成させて学校へ持っ てゆきました。
なんとも、自然の中から作り上げた夏休みの宿題でした。
3 消防小屋の蛾(が)
古里消防団の消防小屋は、今の遊園地の一角の一段下がって駐車場になっている東側あたりの(昔あった愛宕神社の参道の入り口の西側)一段高いところに旧県道に沿ってありました。
この消防小屋の県道側に裸電球の外灯が点いていました。その周りは一晩中あかるかったので、夏の夜はいろいろな蛾がやってきて電球の周りが賑やかでした。そして、夜が白々と明ける頃になると、一晩中乱舞していた蛾が消防小屋の壁に羽を休めます。
ですから、その頃に消防小屋に行くと、昨晩電球の明かりを求めて集まった大きい蛾、小さい蛾が、消防小屋の外灯のある壁面にびっしりと張り付いていました。見事という言葉以外に言葉が見つからないほどに、壁一面が素晴らしい蛾による絵模様に覆われていました。
でも、不思議と日の昇る頃になると、知らぬ間にみんな姿を消していました。
あれから50数年、いまだに消防小屋に張り付いていた蛾の思い出が頭から離れません。そして今、あの蛾などの子孫はどこへ行ってしまったのだろうかと思います。※注:昭和28年(1953)の春からの天候不順による冷夏により、病害虫が大発生して水稲に著しい被害を与えました。そこで、それに対処するために農薬ホリドールによる水田散布が始まりましたが、その農薬散布の影響で蛾が少なくなったのかとも思われます。
大塚基氏「私の100話」
4 はなどりとしんどり
昭和30年代後半まではどこの農家にも牛(馬も何頭か)がいました。
大塚基氏「私の100話」
牛の鼻にはしんちゅう製の鼻輪がつけられ、牛小屋の入り口には、まあせん棒という囲い棒がはめられておりました。
牛に仕事をして貰う時には、牛小屋に行って鼻輪を捕まえ鼻輪に手綱をつけて、まあせんぼうをはずして牛を牛小屋から引き出します。牛は純朴で温厚な性格をしておりますので、引き出した人に従い農作業に従事してくれます。
ですから農家は、牛を家族のようにとても大事にしていました。牛小屋は母屋の一角に設けられ、生活を一緒にしている農家がほとんどでした。
こんにちわと言って家に入ると、モーと言って牛が返事をしてくれるような感じでした。
そして、牛の仕事は多彩にわたります。
その一番の仕事が、荷車による物の運搬です。米麦の収穫期には米麦のわら束を運びました。繭、米、麦などの農産物の出荷の日には、荷車に積んで農協などの 出荷場所まで運びました。山仕事でも、肥料の運搬でも、今のトラックの役割をすべて牛が牽引する荷車によって行っていたのです。
2番目の仕事が、農地(田畑)の耕起、水田の代掻きです。耕起するための犂、代掻き用の馬鋤を黙々と引いてくれて農地を耕す手伝いをしてくれました。人と協力して今のトラクターの役目をしてくれていたのです。
3番目の仕事が、飼い葉桶に飼い葉切で切った藁を入れて、その上にふすまのほかに農家の残飯まで入れて掻き混ぜて食べさせると、農地の活力源になる堆肥を 作ってくれることです。牛小屋には、稲わら、麦わら、木の葉をいれて牛小屋の敷物にします。牛は、藁などの上に糞尿をして踏み込み、良質の堆肥を生産して くれます。言わば、堆肥の生産機のような役割も担っていたのです。
そして4番目の仕事は牛にとっては悲しいことかもしれませんが、子牛を生み、その子牛を農家が販売することによって農家の生計を潤すことです。そして老齢に達したときには、肉用として自ら身をささげて農家の経営をたすけます。
馬喰(牛、馬などの家畜を売り買いする人)が来て、子牛を売り渡すとき、老牛が肉用牛として販売される時に、自分の定めを感じて流す牛の涙に子供心にもいたたまれない気持ちを感じました。
そして、そんな牛が農作業に携わってくれる時に、牛の鼻輪につけた手綱を持って牛に作業の指図をする仕事をはなどりと言います。牛に鞍をつけて、牛が農地 の耕起や代掻きのために犂や馬鋤を引いてくれる時には、牛の鼻輪に綱ではなく竹の棒をつけて、ついたり引いたり、牛に作業の指図をしやすいようにします が、その犂や馬鋤の操作をする仕事をしんどりと言います。
この耕起や代掻き作業の時には、大変な仕事ですがあまり力を必要としないので、はなどりをさせられるのは女、子供です。特に子供の重要な仕事となっておりました。
私の家でも、もの心ついた頃より田植えの準備の為の水田の耕起、代掻きの時の牛のはなどりは子供である私の仕事でした。しんどりは父の仕事でした。昔は田植え時、稲刈り時に小中学校は農繁休暇もあったので、戦争の話などを聞かされながら手伝いました。
麦刈りをして、田植えの間は水田の耕起と代掻をする毎日でした。特に私の祖父は植える前に他を濁しておくものだとの作業手順に信念を持っていましたので、 植手(田植えを委託した人達)が来る日は、夜中の2時頃に起きて牛を引きだし、父と一緒に水田に行って代掻きをしました。何処も眠る丑三つ時の真っ暗な中 で、水田の中に一歩足を踏みいれた時の足で感じた冷たさ、感触は今でも忘れられません。はなどりをしながら、朝が白々と明けて行く思いも忘れられません。
でも、日頃は温厚でおとなしい牛も、春蚕から麦刈り、田植え作業と、毎日毎日重労働が続くようになると疲れを感じてくるのだと思います。だんだんと鼻輪を取らせたくない仕草をするようになります。
小学5年生頃だったでしょうか。牛小屋に行き、餌で牛をおびき寄せてやっと取った鼻輪に手綱を通し、マーセン棒を外したところが急に牛に角を突きつけられました。あわてて逃げ出し、牛舎の前にあった堆肥場を挟んで牛としばらく睨み合った覚えがあります。
あのときの恐怖は未だに忘れられません。
はなどりで忘れられないことがもう一つあります。私の祖父は血圧が高く脳いっ血の持病を持っていて時々意識を失ってしまうことがありました。
冬場の仕事の主流は山仕事です。学校から帰ると祖父に急変があって、山仕事に行っている父母を迎えに行ったことが2回ぐらいありました。その時は、父母を 先に家に帰して荷車を牛に引かせてはなどりをして帰りましたが、家族の事情を悟りきっているかのようにおとなしくついて来る牛を愛おしく思ったことが思い 出されます。
いずれにしても、牛は農家にとって貴重な労働者であり協力者であり、経済動物でありました。そしてまた、農家の家族の一員でした。
5 天王様と旗持ち
古里の尾根郭の天王様(八坂神社の祭典)は、その昔は旧暦の6月14、15、16日に行われておりましたが、昭和17年(1942)からは、農作業の都合などで7月24、25、26日(新暦で1ヶ月と10日遅れ)に行われるようになりました。
お祭りの段取りは、7月24日の午前中に万灯や山車の花つくり、花飾り、灯籠、4本旗(何か他に言い方があったのでは)作りなどとともに、八坂神社、愛宕神社の跡地(今の古里2区遊園地のところ)に御仮屋を建てて兵執神社内にある八坂神社の社から神輿をお迎えします。
昔は、7月24日が一学期の終業式で、学校も早仕舞いでしたので、昼ごろに学校から家に帰ってくると、いつも神輿が御仮屋に納められていました。参道から隠居の方まで飯島四郎次さんの面白い挿絵が書かれた灯籠が並んでいました。
そして、お祭り2日目の7月25日がお祭りの本番です。風呂に入って、身を清めて晒し襦袢(晒しが各氏子に配られ、各家で縫われたもの)を着た者たちが、午後1時を過ぎる頃からお仮屋のまわりに集まります。
親戚に不幸があった人は、渡御の神事が始まる前に御仮屋保管小屋において神主にぶく避けをしてもらってから神事にのぞみます。
2時頃の集合時間が来ると、みんなで神輿をお仮屋から外に出して渡御の準備をします。そして準備が終わると、神主によるお神輿渡御の祝詞と関係者による玉ぐしの奉納がおこなわれ、神主の乾杯でお神酒をいただくとお神輿の渡御が始まります。
このときの神輿巡行の配列は、先頭に4本の旗(竹竿に紙の旗が吊るしてあってなんと書いてあったか不明)を4人の子供が誇らしげに掲げ、そのあとに万灯を かついだ人が続き、そのあとを若連に担がれた神輿、そのあとをお囃子を奏でる若連の乗った山車を子供たちが引いて続きました。
お神輿は、尾根を休むことなく静々と進んで、部落境に行くと高く頭の上で差し(高くささげて回る)て一巡し、最後に岡島屋の前の部落界で差したあと休みます。
ここで、子供たちが掲げて運んできた4本旗は猫の川(県道に沿って岡島屋から新川に続く排水路で、ほ場整備事業でなくなる)に捨てられ、万灯も花飾りを子供たちに取らせて、万灯運びの役目を終えます。
神輿の屋根のてっぺんに乗っていた鳳凰はほうしん玉に取替えられ、ここからは、神輿をいくら揉んでも良いことになります。
そして、ほうしん玉になった神輿は、岡島屋を出発すると同時に、もみ合いの弱い担ぎ手の方から猫の川に突き落とされるのが毎年のお決まりになっていたような感じがします。
砂利置き場(今のごみ集積場のところ)のところには夜店が出て、その店のカーバイドの臭いは何ともいえませんでした。お囃子を奏でる山車のちょうちんが、 時々道路上に垂れた枝に引っかかって揺れて燃え上がる情景も何とも言えないものでした。どこの家でも天皇様の日には、泊まり込みのお客がいっぱい来るの で、夕暮れのころには道路がいっぱいになるほど人が出てきて、祭りの雰囲気は嫌が上にも盛り上がりました。お神輿が休憩してくれと御呼ばれした家で振舞っ ていただくスイカなどのご馳走は、山車を引く子供達にも配られて子供たちの楽しみの一つとなっていました。
その天王様も、最後には御仮屋ではなく兵執神社内の八坂神社の中に納められたのだそうですが、その頃の若衆に聞くと、納める夜の12時頃になると若衆も少なくなり、やっとのことで神社まで持っていったのだそうです。
翌26日は、午前中はゆっくり天王様の疲れを癒して、午後1時頃より氏子がお仮屋のところに集まって手分けをして御仮屋や山車の解体等の整理をおこないま す。そのあとは尾根常会場において天王様の祭典の勘定となります。天王様の会計報告を聞き、慰労会をおこなって3日間のお祭りが終わります。
子供の頃の天王様の思い出として特に思い出すのは、親戚からみんながお客に来て賑やかだったこと、休憩場でご馳走になったこと。そして神輿の前を、旗を持って走ったことが思い出されます。※古里尾根の天王様のお祭りにおいて、昭和38年(1963)から昭和48年(1973)までの11年間はお神輿の渡御が行われず、祭り囃子も御仮屋の保管 小屋に太鼓を設置して大人達がお祭りの日に戯れに敲く程度でした。しかし、昭和49年から祭日が従来の7月24〜26日を含めた前の日曜日を中心に2日間 で実施することで神輿の渡御が再開され、山車もエンジン様のついたトラックとなって、山車の上で祭り囃子が力強く鳴らされるようになりました。
大塚基氏「私の100話」
6 さかなとり
昭和30年代までは、川魚、沼魚は農村の貴重な蛋白源となっていました。
川や沼で魚を捕らえて、串に刺して火で焼いたり、豆などと一緒に煮たりなどして、普通の農村の食事として食卓に乗っていました。
そこで、当時の魚とりの様子を次により振り返ってみますと、1)さかな釣り
昭和30年代前半までの魚釣りの様子は、子供が川や堀で大人が沼を主体としていた傾向があったような気がします。
私の子供の頃の魚釣り場所は、おもに家の前の水田耕地の中を流れる人造堀の新川でした。ちょっと行ってしらんぺたや小鮒などを釣るときは、うどん粉をこね てうどん粉煉餌をつくり、釣り針の先につけて釣ります。水面に叩きつけるようにすると、うどん粉煉餌がとれてしまうので、魚の居そうなところに静かに入れ ます。川の流れが静かで、わりかし水が浅い時などに使います。水が綺麗に澄んでいる時は魚が寄ってくるのが分かります。
川の流れが速かったり、 深かったり、濁っている時などは縞みみずを使うことが多くなります。縞みみずは、牛、豚などの踏肥が積み上げてある肥間(堆肥場)に行って棒でかっぱく (掘る)といっぱい居ます。それをビンや缶などに取って、釣り針に合わせてみみずをちぎって釣り針に刺して釣ります。すると、しらんぺたなどの小魚も釣れ ますが、少し大きめの鮒やどじょうやそして鯉なども釣れることがあります。
沼に行って鯉やうなぎなどの大物の魚を釣ろうとする時には、おおたろ うみみずを使います。おおたろうみみずを探すときは、縞みみずを探すように肥間へ行くのではなく、どちらかと言うと畑のへりなどに積んである藁や枯れ草な どが腐りかけているような場所をかっばくとにょろにょろ出てきます。
小江川の叔父に連れられて、西古里の峯沼に行ったとき、叔父が大きなうなぎを釣り上げたのを昨日のように覚えています。2)おきばり
おきばりと言うのは、紡績糸に大きな釣り針を結わえて、その釣り針におおたろうみみずとか蚕のさなぎとかをつけて沼の水辺に投げ込んで、紡績糸の一端を水辺にある木などに括り付けておく仕掛けです。
ふつう夕方に設置して、早朝に餌を探しにきた魚がおおたろうみみずなどをパクリと釣り針といっしょに飲み込むと、釣り針が魚の喉に引っかかって取れなくなるので、それを引き上げてとる漁法です。
どこの沼でだれだれが、「このくらいの鯉をつったとか、うなぎを取ったとか」と手を広げて言う人の話をよく聞きました。3)とりかい
鯉を沼に放して行うのか、沼に入れた稚鯉が大きくなったので行うのかわかりませんが、秋になって田んぼに水が必要でなくなった頃になると、水の少なくなったあっちこっちの沼で、水利組合主催による鯉のとりかいが行われました。
とりかいは、水利組合が、沼の管理費用を工面する行為として行われたのだと思われますが、農家の人達にとっては秋の楽しみのひとつでもありました。
決められた入場料を支払い、渡された番号札を帽子などにつけて、開始時間が近づくと沼の水辺の周りに大きな網を持って参加者が集まり、開始の合図を待ちます。家族などはバケツなどの入れ物を持って土手の上で見守ります。
そして合図とともに、やすを背中に差して手には扇子のような扇形をした網をもった井出達で、一斉に水の中に入ってゆきます。
始まるのと同時に、沼の中で鯉が跳ね上がり、沼の内外で喜びの歓声、逃げられた残念の叫び声、沼全体が興奮のるつぼと化します。
網による魚とりが一段落すると、ヤスを手にした参加者達は沼の水辺に立って沼の水面の動きを見守ります。
参加者の網に掛からなかった鯉やうなぎが、さかなとりの参加者によって掻き混ぜられ、泥水化した水面に苦しくて顔を出したところをヤスで刺して取るのです。
私も、中学生の頃だったのか記憶が定かではありませんが、藪谷沼でとりかいに参加しました。網で鯉も取りましたがヤスでうなぎも取ったのを覚えています。4)よぼり
よぼりとは、針金で秤竿に秤皿を吊るしたような格好のものを作り、その皿の部分にひで(枯れ松の根)を燃やして、その明るさで小魚をみつけて針ヤス(篠棒の先端を割って10数本の縫い針を差し込んで作る)でついて取る漁法です。
初夏、春蚕が掃き立てられ、苗代の稲苗がすくすく伸び始めた頃がよぼりの季節です。
私は、山から掘ってきたひでをみかい籠に入れて背負い、少し水を入れたバケツを持って6つ年上の小江川の叔父のあとをついてよぼりに行きました。
よぼりする場所は、苗代や小堀です。そこにいるどじょうや小魚を叔父がとると私がバケツを差し出します。すると叔父はバケツの中に針の部分が入るようにバケツの淵で針ヤスをたたきます。すると捕らえられていた小魚がバケツの中に落ちるのです。
燃し火の燃料のひでがなくなってくると、私の背負っている籠の中からひでを取り出して足して燃やします。
ひでは油分が多いので、戦争後期には、燃料が逼迫してきたのでドラム缶で煮込んで油を取ったといわれるぐらいですから火力もありよく燃えます。
よぼりで北田に行ってなまずを取ったとの話も聞きました。それぞれに工夫をしたのだと思いますが、これが私の家のよぼりのやり方でした。5)かえどり
大塚基氏「私の100話」
子供たちの遊び仕事の一つにかえどり(かいどり)があります。
かえどりの語源は掻い出して取るから来ていると思われますが、川の上流と下流とを堰きとめ、その間の水を掻き出し(くみ出し)てその間に居た魚を取る漁法を意味します。
水の流れの静かな時に行なう漁法ですが、上流の堰は、魚を取り終るまで水圧で壊れないようにしっかりした堰にしなくてはなりません。そこで、水の流れの多 いところで実施するときには、素早くしっかりとした堰を築き、素早く魚を取ってしまうために多くの人手が必要となります。
そこで、魚の居そうな場所を見つけると、子供たちは声を掛け合い、仲間を集め、時間を決めて、おのおのに堰を造るためのシャベルや水を掻い出すバケツなどの道具を持ち寄ります。
堰の作り方は、全体をいっぺんに作るという方法ではなく、準備の段階は、なるべく水の流れを止めない方法で、両側なり、片側なり、一番水が流れやすいところを残して堰を作って行きます。
そして、準備万端となったところで、一気に水を堰き止め、バケツなどで水を外にかきだします。そして水がなくなり逃げる場所を失った魚を一網打尽にしてしまいます。
でも、水を汲みだしている最中に上流の堰が水圧に耐えられなくなって、壊れてしまったら大変です。水を汲み出した労力はふいになり、水の圧力に耐えられる しっかりした堰を作り直すが、上流の水を下流にパイプなどで流す仕掛けを考えたりして作り直さなければなりません。責任の擦り合いなどしている余裕などあ りませんでした。
7 たなばた
私の家の七夕は8月7日で、小川町の七夕祭りの日と同じでした。
大塚基氏「私の100話」
朝、祖父に頼まれるままに裏の畑に行って里芋の葉にたまっている朝露を深皿などに集めてきて、その朝露を硯に移して墨をすります。
そして祖父が、隣(大塚元一さんの家)から手頃な竹を貰ってくると、祖父が作った短冊に「七夕や佐渡によこたう天の川」「天の川」など、みんなで書きしたため、その竹に吊るして家の玄関のところに飾りました。
一晩飾った翌朝には、竹ごと担いで行って猫の川に捨てて七夕は終わりとなりました。
その竹飾りは、私のうろ覚えでは、夏の間は猫の川に捨ててあったような気がしますが、実際にその竹を誰が片付けたのか、どのように片付けたのか、自然に朽ち果てたのか、残念ながら記憶にありません。
しかし七夕になると、襟を正し、机に正座して書いている明治生まれの祖父の顔が思い出されます。
8 からねこ
からねこの名前の由来は、ネズミ捕り名人のねこが居なくても、小鳥などを取ることが出来る仕組みであることからだと勝手に解釈しています。
大塚基氏「私の100話」
昭和30年代中頃までは、農家はほとんど専業で農業に勤しんでいました。そして冬は今よりも寒かったので、大雪もたびたびあって雪の積もっている期間が長 くありました。ですから、そのような時に小鳥たちは餌を見つけるのが大変でした。その小鳥たちの食べ物の欲求を利用して小鳥を捕獲しようとした仕掛けがか らねこです。
細い竹杭の中心部より下に釘を打ち、竹杭の先端をV字形に切り込み、そこに仕掛けた棒に糸を結び、その糸の先端に一寸ほどの細い篠 棒を結んで釘に糸を引っ掛けて、先端の仕掛け棒に箕などの捕獲用具をかけてから竹杭と細い篠棒との間に細長い篠などを差し込んで奥の撒き餌のところまで伸 ばします。
そしてこの篠を啄ばんだり、触れたりして仕掛けが外れると、捕獲用具が落ちて小鳥などを閉じ込め捕獲できるという仕組みです。小学 4〜5年生の頃、下の道に仕掛けておいたからねこに学校から帰ってくると、綺麗な鳥がかかっていた事がありました。そこで捕まえて、みんなに見せようと 思って母屋の玄関のところまで来て、入り口を開けようとした時に逃げられてしまいました。その時の悔しさは、今も思い出として残っております。
それに、冬になって雪が降ると、農家の仕事は納屋の中でむしろ織り、縄ない、いっそう(10本ぐらいの藁で注連飾りのような感じで半分より上をなった2本の先端を結び、わらなどを束ねるのに使う縄の代用品)作り、俵織りなどでした。
そんな時、納屋のひさしの小鳥が来そうなところに、蚕用の竹籠などの上にむしろなどをかけて蓋をして、その上に重いものをのせて片側を持ち上げ、竹かごな どの大きさに合わせたつっかえ棒(つっかん棒)で支えます。そしてそのつっかえ棒の下のほうに紐を結わえて、紐の先端を子供たちは父母の傍らまで伸ばして 身近に置いておきます。そして、籠などの下に出来た空間に籾殻などで撒き餌をします。
雪で空腹に耐えかねた雀などが飛んできて、仕掛けの中の撒き餌を見つけて夢中になって啄ばみ始めたその瞬間を狙って子供は紐を引いてつっかん棒をはずします。つっかん棒をはずされた仕掛けは、小鳥の上に勢いよく倒れ、小鳥を下敷きにして捕獲するというものです。
この仕掛けは、人間の手が加わっているので違う言い方だったような気もしますが、からねこと言ったような気もします。夢にでも出てきて思い出すことが出来れば判るのですが。
いずれにしても、冬場、雪が降って子供たちが外に出て遊べないときに、餌を求める雀などを取るこんな方法を子供たちは楽しんでいました。
9 じんとり
子供の遊びとしてじんとりというのがありました。
大塚基氏「私の100話」
何人でも出来る遊びで、集まった子供がじゃんけんなどで2組に分かれて、それぞれによい場所を選んで中心となる本陣を設置して、そこを中心に棒などで円をまねいて、これを陣として取りっこをします。
ルールは、それぞれの陣の後から出た方が強いことになり、後から出たほうが先に陣を出た相手側に触ったならば相手の者を、捕らえた(捕虜)ことになり、 触った者の陣の円がまねかれた指定場所に捕虜としてつながれます。何人も捕まえられたら、鎖状にだんだんと長くつないでゆきます。そして鎖状につながれた 者の陣の者が、相手の者にタッチされないようにしながら、つながれている自分の仲間の手にタッチしたら、捕まえた仲間は解放されて元の陣に戻り、また活動 が始められます。ですから、捕虜を持っている陣の者は、捕虜を解放されないように気をつけます。
勝負は、相手の陣の者を全部捕虜にしてしまうか、本陣(石などの置物や棒などで書いてある)を踏むか手でタッチすれば勝ちに成るというゲームです。
でも、あとから陣を出たほうが強いので、相手の陣に近づけば近づくほど弱い立場になるので、相手を引きつける役割の者を作ったりして、駆け引きの多い遊びでもあります。
この遊びは、学校の昼休みに校庭の両側に分かれて、それに子供の夜遊びの15夜、13夜、とうかんやなどで行なっていましたが、どちらが先に陣を出たかわかる距離に陣を構えるのが基本となっているゲームです。
10 けだし
この遊びは、家の庭でいっぱい遊んだ記憶がありますが、ルールはいまいち定かではありません。3mぐらいの幅の両側に40〜50cm×1.8mぐらいの細長い長方形の陣を棒などでまねきます。
大塚基氏「私の100話」
そして、その枠の中から平らな石を投げて、片足でケンケンしてその石を踏んで、踏んだ石を取り出して相対する枠地に投げ、入ったならばケンケンのまま相対 する枠地に入り、そこから出発地の枠の中に石を投返して入ったら、ケンケンで出発した枠地に帰るというものだったような気がしています。
しか し、何歩で行って、何歩で返るとか、だんだん石を遠くに投げて、ケンケンの歩数を増やしていくとかの気がしますが、また、ケンケンで石が踏めなかったと か、陣地の中に正確に入れなかった時には、やり直しのルールがあったような気もしますが、正確なルールが思い出せません。
しかし、そんなルールの遊びでした。
また、この遊びを、けだしではなくケンケンと言ったような気もします。