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第6巻【近世・近代・現代編】- 第6章:くらし

第2節:回顧録・作文

大塚基氏「私の100話」

81 大豆はたき

 大豆の実が熟すと、大豆の木を切り取って畑に立てかけたり、家に持ち帰って庭で乾燥するまで干して乾かしました。そして良く乾くと、庭にむしろを何枚も 広く敷いて広げた中に大豆の木をおいて、先を丸めた竹の棒のその丸みを利用して据え付けたはたき棒の道具で大豆の木をはたきました。それはバランスをとっ て竹の棒に力を入れると、はたき棒がくるりと回って大豆の木をはたいて大豆の実を落とすと言う仕掛けです。
 はたき方によっては、実が遠くの方まで飛んで行ってしまいますので、気をつけて行いました。そして、ある程度はたいたら豆の木を取り除き、下に落ちた大豆の実を寄せて大ゴミを取り除いてから唐箕にかけて細かいゴミまで取り除いてきれいにしました。
 大豆の木に、まだ実が残っているようでしたら再度はたきなおしました。良く落ちているようでしたらいっそうで結わえて木小屋にしまって置いて竃の火付けに使いました。
 大豆の木は、屑木などでつけた火を薪などの堅木へ誘導するための誘導材として、最も適当であった素晴らしい燃木でした。

大塚基氏「私の100話」

82 こんにゃく玉干し

 私の家の隣には、祖父の弟の光一小父さんが営むこんにゃく屋がありました。
 こんにゃく屋の冬場の仕事として、こんにゃく玉を輪切り干しして 保存する仕事がありました。こんにゃく玉を切り干し大根切りのような道具で、5mmぐらいの厚さに輪切りにして、それを細長い棒(篠ん棒だったと思いま す。)に刺して簾のように吊るして天日干しで乾かすのです。
 今は平らに整備されて古里第二区児童遊園地となっていますが、整備される前には此処 が小高い丘になっていて、今の消防車庫の駐車場(旧消防車庫)の東側にあった旧県道から続く参道を登っていくと、今の遊園地の3分の1ぐらいの広さの平ら な愛宕神社と八坂神社の跡地がありました。
 こんにゃく玉の切り干し作業は、この平らな広場となっている神社の跡地で行われました。
 神社跡地の東側部分には、八坂神社の夏祭りのときに使う天王様のお仮屋の材料と、山車の材料が保管されていた西向きのトタン葺きの小屋がありました。
 こんにゃく玉は、この小屋を中心に輪切りにされて棒にさされて、神社跡地の広場に組まれたハンデイ棒を架け棒にして、テレビなどで紹介される素麺干しなどと同じような感じで、輪切りにされたこんにゃく玉がすだれのように吊るされて干されて乾かされました。
 その後、乾かされた蒟蒻玉をどのようにして保存、利用するのだかは知りませんが、玉を輪切りにして棒に刺す仕事をよく手伝ったものです。
 私の弟妹も手伝ったとの事ですが、それぞれに、手伝った頃の思い出があるようです。

大塚基氏「私の100話」

83 おひな様

 寒く厳しい冬の季節を通り越して、日陰の根雪も消え、まだまだ寒さを残すものの小川の水も緩んで生暖かい風が感じられるようになると、野山が一斉に動き出して若葉が溢れ出し色とりどりの花で埋まります。そんな季節の4月3日が桃の節句で雛祭りです。
 私の家も、奥の部屋に裁縫台などを利用して、妹の段飾りを基準に段々を作り、妹のガラス箱に入ったお雛様や古い古い一人雛をいっぱい飾りました。奥の部屋がお雛様でいっぱいになりました。
 そして雛祭りの前には、もち米の紅白の餅と、もち草入りの米粉餅をつくり、お雛様の日には菱形に切ってお膳の上に積み重ねてお供えしました。
 ピンク色にあでやかにきれいに咲いた桃の花も飾りました。
 前の耕地の中を流れる新川から、ガラスうけで捕ってきたタナゴ(しろんぺた、あかんぺた)やどじょうをガラスの金魚鉢に入れて飾りました。
  餅は、平に伸ばした周りの切れ端などを細かく切ってあられにしましたが、お供え用以外は普通の角もちにして食べました。しかし、お正月と違って、雑煮やお 汁粉や砂糖醤油の海苔巻きの食べ方でなく、砂糖をまぶした黄な粉をつけて食べました。一口ごとに思いきり沢山の黄な粉をつけて食べた満足感はなんとも言え ない思いでです。
 そんな昔のお雛様も、娘のお雛様も、仕舞いこんでしまって、我家の雛祭りも途絶えて何十年にもなります。しかし、余裕が出来たらそんな雛祭りを復活させたいものです。
  私の子供の頃は、冬場は木枯しが毎日毎日吹きまくり、30センチほどの大雪が何回かありました。溜池にはスケートが出来るほどの厚い氷が張って、3月末ご ろまで根雪が木蔭などに残っていました。そして4月と言う言葉を聞いたとたんに、手品の如くにぱっと野山が青くなり、花が咲き乱れる春になりました。
 今は温暖化の影響で、本当の冬が無くなってしまったのか、子供の頃の手品のような春がなくなってしまいました。
 あの頃の春の香り、生暖かい風、お雛様に飾られた金魚鉢のしろんぺた、あかんぺた。雛祭りと言う言葉を聞くと懐かしく思い出されます。

大塚基氏「私の100話」

84 石うす

 私の家には石うすがありました。どんな仕組みになっているのかわかりませんが、土間にしっかりした台を置き、その上に二つで一組の石うすを備え付けて黄な粉や米粉を作りました。
 上の石うすには二つの穴が開いていました。そのうちの片方の穴に竹の棒を差し込み、もう一つの穴に煎り大豆を入れて竹の棒を回すと黄な粉がでてきました。精米したうるち米を入れると米粉になって出てきました。
 石うすを使用したのは、昭和20年代後半までだったでしょうか。分りませんが、あの石うすは何処に行ってしまったのか、使わなくなって本当に久しくなります。
 昭和41年の26号台風で大きな蚕屋が倒壊したときに壊れてしまったので埋めてしまったのか、それとも父が骨董屋にでも売ってしまったのか、物置の土台にでもなってしまったのか。石うすのことを思い出すのも難しいほど過去の話になってしまいました。
 いずれにしても細かなことは思い出せませんが、私の脳裏にかすかに残る、ちっちゃな私が竹の棒を回すのを手伝ったりした石うすの思い出です。
 そして、見つかったならば組み立てて、自分の記憶をたどりながらもういちど使ってみたいと思うことたびたびの石うすです。

※平成23年(2011)6月25日、鉄骨ハウスの中に畳をすいて40畳の柔道場にしたので、物置の広さが狭くなってしまいました。そこで、私が21歳になったときに造り上げた、間口5間、奥行き2間4尺の2階建ての農舎の1階部分を広くしようと思って片付けていました。そうしたら、農具のおいてある ところの奥のほうに薄汚れたビニールがあったので剥いだら石うすが出てきて驚きました。

大塚基氏「私の100話」

85 こたつとあんか

 私の生まれた頃の私の家には囲炉裏(いろり)がありました。
 と言っても、お正月の近くになると囲炉裏の上にあった板をはがして囲炉裏にして、春になると囲炉裏の上に板を敷いて板の間にしてしまう囲炉裏でした。
 その囲炉裏は少し深い囲炉裏で、火を燃やした後の残り火や、炭火をおこして囲炉裏の中に入れて、囲炉裏の上に板格子の蓋をして、こたつ布団をかぶせてこたつにしました。
 そして、まわりから布団の中に足を入れると布団がでこぼこしてしまうので、皆で協力して布団の中央を平らにするようにしてからカルタ取りなどをして遊びました。皆で気を合わせて平らにするのが当たり前の雰囲気の中で、カルタ取りなどをして遊びました。
 しかし、昭和30年代半ばごろだったのでしょうか、何時頃だったか私の記憶にありませんが、コンクリートの炭火式掘りこたつに改修しました。
  私が中学3年生の12月中下旬の頃、この掘りこたつで勉強をしていた私のために祖父が火をおこして、十能で持ってきてくれて掘りこたつの中に入れてくれま した。その時、その十能が私の右足のかかとの上にあたりジューという音がしました。飛び上がるほどの痛さがかかとを起点として体中を駆けめぐりました。
  しかし、祖父が私のことを思ってこたつに火を入れてくれたので、反射的に声も出さずにジーと我慢しました。でも、十能の先が私の足に当たったのでしょう。 あたったところを見ると三日月形に焼きただれ、直ったあとは長さ2cm、巾5mm、高さ3mmぐらいのケロイドとなって残りました。そしてその祖父は、年 を越えると持病の脳いっ血で倒れて、急に帰らぬ人となってしまいました。
 それから、そのケロイドは10数年も私とともにありました。見るたびに祖父を思い出し懐かしさが込み上げてきました。
  そして、何となく祖父の思い出として大事にしていたのですが、アメリカに行って水が変わったからなのでしょうか、手に出来ていたイボとともに、いつの間に かなくなってしまいました。嫌なイボには苦労していましたので、イボがなくなったことは本当に嬉しかったのですが、おじいさんのケロイドは、おじいさんと の絆が断ち切られたような感じがして本当に残念に思いました。
 しかし、今も掘りごたつに入るたびに、祖父の優しさと足に当たったケロイドのことを思い出します。
  そして、こたつのように使われたものにあんかがありました。あんかは黒い土製で上の方が丸みを帯びている30センチぐらいの箱型の格好をしていて、3方に 10センチぐらいの穴があり、一方に炭火の入った丸い植木鉢のような土製の器を中に入れられる入り口がありました。その入り口から炭火の入った器を入れて 上に布団をかけて、その中に足や手を入れて暖める道具でした。
 正月などにいとこ達などがいっぱいやってくると、こたつに入りきれなくなるので、座敷に火の入れたあんかを置いてこたつ布団をかけて、こたつと同じようにみんなでそのこたつ布団の上でトランプなどをして遊びました。

大塚基氏「私の100話」

86 お土産のようかん

 私の子供の頃にも、養蚕組合などでの旅行や湯治(とうじ)などがあって、行ってきた人からお土産をいただきました。しかし、その頃のお土産は、旅行先のようかん1本が定番でした。
 そして、近所や親戚から旅行のお土産としてもらった1本のようかんが問題でした。
 今でも私が口癖のように言ってしまうのですが、私の家は12人家族のときが多かったので、一本のようかんを12等分に切ってみんなで平等にして食べました。
  目の前で母が均等に12個に切ってくれるのですが、微妙に大きさが違う気がして何時も大きいようかんに目をつけてしまいます。しかし私は5人兄弟です。我 家ではなんだか年の若い順に取ってゆく決まりが出来ていたので、私の順番は5番目です。私の順番になる頃には、いつも私の意図するようかんはなくなってい ました。
 そしていつの間にかようかんを見るたびに、ようかんを一本丸ごと食べることが夢になりました。
 私は未だに大きいようかんを一本丸ごと食べた記憶はありませんが、今では何時でも何処でもようかんを食べたければ、誰でもが何本でも食べられる裕福な時代となりました。
 ですから私も、好き勝手にようかんを好きなだけ食べて楽しめるようになりました。
 しかしようかんを見るたびに、その頃のことが思い出され、なんとも懐かしくなってついつい昔話が口をついて出てきてしまいます。
 この話は、死ぬまでお付き合いになると思います。
 葬式饅頭も同じ思いでいつも眺めていたのを書き添えます。

大塚基氏「私の100話」

87 焼き餅

 私のおふくろの味に焼き餅がありました。
 私の子供の頃は、自給自足の生活のようなものだったので、食べ物は自分の家で収穫したものがほとんどでした。
 おやつの時間なんて、そんな言葉すら知らないで育ちましたが、農作業のお茶休みの時などに母は時々焼き餅を作りました。小麦粉の中に水など(卵でも入れば最上級)を入れて溶かして煉って俸禄の上などにのせて焼くのです。
  麦ご飯(私の子供の頃は米と麦の混ざったご飯を食べていました。)が食べ残ったときは、麦ご飯に小麦粉をいれて煉って焼き餅を作りました。お皿の上に砂糖 を入れて、醤油でまぶした砂糖醤油を付けて食べました。飛び上がるほどの美味しさとまでは言えないまでも、何もなかった時代の食べ物としては楽しみの食べ 物でした。
 また母は、麦ご飯を小麦粉でまぶして小判のように握り、うでたり蒸かしたりした餡この入っていない蒸かし饅頭のようなものを作りました。何と言ったのかは忘れましたが、焼いたのと煮たのとの違いだけでした。
 お茶休みに茶菓子をお店から買ってきて食べる習慣がなかった時代には、お茶休みなどに出てくる焼き餅は本当に楽しみなものでした。今でも懐かしいお袋の味です。

大塚基氏「私の100話」

88 春蝉(松蝉)

 春になり、野山を彩った桜の花も散って山々が新緑に包まれて初夏の日差しが目にしみる季節になると、松の木で覆われた山が一体となって一斉に唸り声を発しているかのようなジージーともギャーキュギャーキュとも聞こえる春蝉の鳴声に包まれます。
 嵐山町の総面積は2985haです。そしてその三分の一の1000haほどが山林です。昭和47年(1972)3月調べでは嵐山町の山林のほぼ半分にあたる419haが純粋な松の木の山で、その他の山林もほとんどが松の木の混ざる複層林でした。
 ですから春蝉が鳴き出す頃に一歩松林の中に足を踏み入れると、春蝉の耳を劈くほどの大きな鳴声が聞こえてきました。子供の頃、学校帰りなどでそんな春蝉の鳴声が聞こえてくると、いよいよ夏本番がやってくるんだなあと思ったものです。
  辞書などで調べてみると、春蝉はヒグラシのような透明な翅をもった2〜3cmほどの小さな蝉とのことです。しかし、松の木の高いところに生息しているので 滅多にその正体が気づかれることもなかったので、松の葉を食い荒らす松げんむ(松に居るけんむし)が鳴くのだとの話がもっともらしく語られていました。
  それにしても、子供の頃から初夏の暑い日を一層にあつくさせるジージーギャーキュギャーキュと鳴く春蝉も、嵐山町の嵐山郷で昭和51年(1976)に初め て確認された松くい虫(まだらかみきりによって運ばれるマツノザイセンチュウによって松の細胞を食い荒らす)によって、嵐山町のほとんどの松の木が昭和 60年代までの約15年間程で食い尽くされ、松の木が枯れてしまったために松の木とともに死に絶えてしまったのか、それとも何処かへ逃げて行ってしまった のか、春蝉の鳴声を聞くことができなくなってしまいました。非常に寂しい限りです。
 でももう一度、暑い夏へのステップとして激しく大声で鳴いている春蝉の鳴声をもう一度聞きたいものです。と言うこととともに今の子供たちにも夏への足音として聞かせたいものです。

大塚基氏「私の100話」

89 野山の恵み

 私の子供の頃は、山も畑も田んぼも手入れがされていてとてもきれいでした。
 そのまわりの道端も、土手なども、牛の餌や堆肥にするために農家の人が朝草を刈ったのでとてもきれいでした。
 子供は自由に野山を駆け回って遊ぶことが出来ました。学校の登下校も、誰にも監視されずに自由気ままに帰り道を選ぶことが出来ました。
 勉強は学校で先生が教えてくれるので学習塾に行かなくても良い時代でした。ですから子供たちは自然の恵みに接することができて、生活は自然の恵みの中にありました。
 春になって竹の子が生え始めると、しゃぶる時に口の中がざらざらしないように、竹の子の皮の表面のケバケバをズボンなどに擦り付けたりして取り除き、二つ折りにして革の内側に梅干を挟んでしゃぶりました。
 一生懸命に梅干の入った竹の皮をしゃぶると、だんだんと竹の皮が赤くなってきて、梅の酸っぱい味がしてくるのです。だれが考えついて始めたのか知りませんが、なんとも言えないおしゃぶりでした。
 つつじの花が咲き始めると、つつじの花をつんで花の蜜を吸って甘酸っぱい味を楽しみました。花を摘んでビンなどに入れて棒で突いたりして食べたりもしました。
 麦秋の頃になると、桑畑にどどめ(桑の実)が色づき始めます。道端の大きな桑の木には美味しいどどめがいっぱい生っていて学校の行き帰りには子供が群がりました。
  どどめにも違いがあって、濃い紫色をしているのを簸かえり、薄ピンク色のどどめを米どどめと言ったような気がします。どどめは簸かえりが主流で、米どどめ は古い品種の桑の木に生りました。古い品種だったので桑葉の収量が少なく、だんだん桑葉の収量が多い改良された桑に植え替えてしまったのでしょう。家には 長峰沢の畑のほんの一部にしか植えてありませんでした。
 でもさっぱりとした味で美味しかったので、どどめの取れる頃になると、桑きりの手伝いに行ったときなどには必ず其処の所に行って米どどめを探しました。
 簸かえりどどめでも、桑畑の土手に植えてあった大きな葉で大きな木になる『ろそう』と言う桑の木には、普通のどどめより一回りも大きな実がなったような気がします。
 麦わらで麦籠を編み、どどめをとりに行くこともありました。
 どどめの最盛期を迎える頃になると、山では山グミが真っ赤に熟れ始めます。学校帰りなどに山道に寄り道して楽しみました。
 道端や畑の土手などに生えている真っ赤に熟れた野いちごの実も楽しみの一つでした。
  夏を過ぎる頃には、土手に張り付くように生えているしどめ〔地方によっては、草ボケ、シドミなどとも言う〕の木の実が黄色く色づいてきて食べ頃になってき ます。と言っても、しどめの実は黄色くなっても渋いというか、酸っぱいと言うか、顔をしかめながらの食べ物です。それでもしどめを見つけるとついつい食べ たくなっておもいきりしかめっ面にして食べました。
 10月に入る頃になると、山栗が生り始めます。足でイガを割って実を取り出し、歯で栗の実の皮をむき、渋をとって食べました。
 運動会に茹でて持っていくために、山栗を山にとりに行ったこともありました。
 また山には小さくて丸い山柿もありました。
 春にはちたけ、秋には初茸を中心にいろいろなキノコも山に生えました。
  今では山は荒廃し、農地も畑を中心に荒廃化が始まり、昔はたわわに実っていた野山も恵みも激減したような気がします。そして今の子供たちを見るに付け、登 下校の道草もなくなったようですし、家ではゲームや塾に忙しくて、野山で遊ぶ雰囲気がなくなったような気がします。外で遊ぶ姿もなくなりました。
 でも、私が味わってきた野山の恵みを、今の子供達も必要なのではないかと思います。

大塚基氏「私の100話」

90 ガッチャンポンプ

 昭和32年(1957)の父の日記帳が見つかりました。その7月15日のところに、ガッチャンポンプが熊谷の笠原ポンプ屋によって備え付けられたことが記されていました。
 井戸の深さ31尺、井戸のパイプ26尺、道中パイプ120尺、そして最後のところに、工事代金20.400円を支払ったこととともに『水かつぎも時代の流れとともに今日を限り也』と書き加えてありました。よほど嬉しかったのでしょう。
  私の子供の頃の思い出には、学校から帰ると家でおじいさんが待っていて、水桶に天秤棒をさして、私が前、おじいさんが後ろを駕籠屋のような格好で担いで、 裏の井戸だけでなく渇水期には下の井戸(安藤貞良さんの家に養女に行った人{その後大塚皓介さんの祖父に嫁ぐ}が養女に行く時に持参金の代わりに付けて やった畑の中にある井戸ですが、井戸の権利だけは譲らなかったのだそうです。)まで水を汲みに行きました。竹竿の先に付けているバケツをうまく操ってバケ ツに水を汲み、そのバケツのついている竹竿を引き上げてバケツの水を水桶の中に入れました。そんな日課がありました。
 また、勝手の水瓶に水がなくなると手桶で水汲みを頼まれて、裏の井戸、下の井戸に水汲みに行くことも度々でした。
  我が大塚家の家屋が裏の畑の所にあった頃にも、下の井戸からの水汲みがあったのだと思いますが、ガッチャンポンプが入る前までのような水汲みは、明治13 年(だとおもいます)に今のところに家屋を移してからの曾曾曾おじいさんの代から80年ばかり引き継がれてきた、生活を維持するための仕事でした。
 ですから父も、子供の頃から当然のこととして手伝ってきた仕事だったと思います。だから水汲みの仕事がなくなることに対しては、父も感慨無量になったのだと思います。
 そしてこの日記によって、おじいさんとの水桶担ぎの私の思い出が、私が小学5年生であった昭和32年の7月15日の前のことだったことがわかりました。
 そして、ガッチャンポンプが勝手の流しの水桶があった場所に備え付けられた2日後の17日には、ポンプのまわりがコンクリートによって整備されたことも日記に記されています。
 大雨が続くと、井戸の水位のほうがガッチャンポンプよりも高くなるので、ガッチャンポンプから清水のように水が沸き出てきたのも思い出として残っています。
 ガッチャンポンプによって大きく生活が変ったことを感じました。
 しかし、そのガッチャンポンプはモーターポンプの導入によりその勤めを終えました。
 そして、当所は鮮明な緑色に輝いていたガッチャンポンプも、今は私の思い出として、水汲みから解放してくれた感謝感謝の記念品として、家屋敷地の片隅に茶色にさびついたまま黙ってたっています。

大塚基氏「私の100話」
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