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第6巻【近世・近代・現代編】- 第6章:くらし

第2節:回顧録・作文

権田本市『吾が「人生の想い出」』

第四部 終戦後

乳牛を飼う

 キャンプ内の様子は長くなるので中止して、今度は家庭内の様子を思い出して説明する事にする。昭和二十七年(1952)八月一日、有子誕生。三人娘となる。勤務の関係で時間に余裕が出来たので乳牛の子育てを思い付いたのである。当時乳牛ブームで一寸した農家ではほとんど飼っていた。私は農家出身。草刈りでも何でも経験あったので其の方面は困らなかった。そこで小屋も自分で全部作った。場所は家続きである。たまたま早くから実家の畑一反余を耕していた関係で子牛に与える冬場の青物は麦など作って刈り取っては与えた。その刈り取りがかえって良い結果をもたらした思い出がある。なん年だったか記憶はないが四月一日、春の重い大雪で農家の伸びた麦は全部倒れてしまったと云うより折れてしまい、肝心の出穂に悪影響となって皆無の状態であった。ところが私の所では刈り取っては子牛に与えたお蔭で異常なし。普通以上の収穫。農家の人達も驚いた。そんな想い出もあった。勤務明けには午後草刈り、翌朝は四時起床草刈り。尚、私が勤務に出る前鎌二丁程といでおく。妻が草刈り。そうした幾日かのうち妻も自分でといで刈れるようになった。こうして一人前の牛にして他の農家にゆずったが、後で会いに行った思い出もある。娘を他にくれた時と変らない可愛さもあり、乳牛も家族の一員であった。元をと云えばこうした事もどうにかして多分の収入を得んがための試みから生れた考えでもあった。然るに世の中は甘くなかった。乳牛も草だけでは育たなかった。やはり栄養ある物も与えない事には。そこで終りの頃には乳牛用の飼糧も買ってくれた。人間生活の中にもよく云われる。バランス取れた食事等理想はそうであってもなかなか思うように行かないのが普通である。金銭問題又は好ききらい等様々である。此の時得た収入差引一万円だった。細かく計算した結果である。たとえ幾らにせよそれだけ浮いたと云う事は如何に努力が必要かと云う事を知らされた訳である。
 しかし、金銭以外で得た収入もある。作物の出来なかった畑が乳牛の堆肥のお蔭で立派な畑地となり、何を作ってもよく出来るようになったと云う事は莫大な収入ではなかろうか、こんな事を家族で話し合った。
 そして有子が三年生頃になっていたと記憶する。姉妹で私達二人に対し其の一万円で伊香保温泉にでも行ったらと勧められた事も忘れる事の出来ない想い出の一つである。子供達から優しい言葉を初めて親に対して掛けられた其の気持ち。又、私達も決して無駄には出来なかった。たまたまピアノ練習中の有子のためにピアノは買えないがオルガンを買ってやる相談が出来、川越の栗原楽器店で買った。其のオルガンが今もある。有子から育子へ、そして今は有子の子供良子の処へと廻って居り、かなり縁のある品物でもある。三代使えば惜しくもないがね。旅行がオルガンに変ったお話である。

権田本市『吾が「人生の思い出」』 1989年(平成1)8月発行 72頁〜73頁
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