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第6巻【近世・近代・現代編】- 第6章:くらし

第2節:回顧録・作文

権田本市『吾が「人生の想い出」』

第四部 終戦後

左官に転職

 そしてこの期を最後に職を変えて、義弟が駒込で左官をしていたのでそこで働く事にした。重労働だが金が欲しかった。昭和二十五年(1950)二月五日、最も寒い時期から毎朝一番で上京した。あの頃の車中は暖房も余りきいて居らず非常に寒さを感じさせた。今のように着る物も余りない。ただ気が張っていたから風邪も引けなかった。こんな事別かもしれんがね?。二月八日、私が出掛けた後だと思う。現在米寿しに居る君子が誕生。訳あって百日目で米山に嫁ってしまった。可愛そうだったが他人でない姉親の懐に抱かれて大事にしてもらえる事を信じたからである。実は義父の口添えがあっての事。詳細については現在みんな知っている通りである。東京迄通い重労働の割に金にはならなかった。作業する道具にしても移動する時はリヤカーを自転車で引いたが此の自転車とリヤカーと云ったら満足の物は無かったのである。自転車はチェンがはずれたり、リヤカーのホイルは飛行機用で古く重い事此の上なし。思った免許はある。現在のように車があったらアクセル一つで苦労もしなかったろうにと当時の状況であった。しかし私は性質上やる事はやり通したつもりである。然るに生活の方は安定どころが一層不安になり出した。

権田本市『吾が「人生の思い出」』 1989年(平成1)8月発行 70頁〜71頁
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