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第6巻【近世・近代・現代編】- 第6章:くらし

第2節:回顧録・作文

権田本市『吾が「人生の想い出」』

第四部 終戦後

キャンデー屋をはじめる

 そんなある日、近所の戸野倉さんから今年の夏はキャンデーが売れると思うからどうかと声掛けてもらった。溺れる者は藁をもつかむ思いに是非と云う事でアドバイスを依頼した。先ず、自転車が必要である。ところが自分には余りいい自転車も無い。早速隣の自転車屋に行き相談した。とにかく三百本入る箱を積んで走る商売である。タイヤが悪かったら仕事にならない。そう思ったから車体は古くともタイヤだけは新品にする事にした。此の代金は金で無く米二斗だったと記憶する。一応準備も出来て出られるようにした。昭和二十四年(1949)三月末頃だったと思う。小川町の奥田屋に案内され、多くの売り子の仲間に入れされてもらった。そして四月早々には売りに出始めたように思う。果して自分のキャンデー買ってくれる人がいるだろうか。そんな思いを胸にひそめながらカネを鳴らしてスタートしたあの時の気持ちも今はただ過去の記憶にすぎないが涙の物語でもある。
 やがて五月六月と田畑が忙しくなり汗も流れる頃となればカネの音を聞いて五本十本と買いに来る人、待っていて買ってくれる人も出るようになった。真夏の頃には味を覚えて客は何処のキャンデーが美味しいとか云うようになった。私の店のキャンデーは割合人気があったのでかなり遠くまで行っても売れた。自分が行商した方面も早めに流して居ったのでキャンデーの味も知ってもらえた事にもある。終戦後の祭りは戦前に戻ってあちこちがにぎわうようになったお蔭でキャンデー売りに行くとよく売れた。心配した借金もどうにか一夏で返済の見込みもつくようになった。やる気になればと思うが終戦時ならではこんなにも色々の事が出来たのかも知れない。
 夏も終って再び行商などに出かけたが明けて二十五年(1950)一月から二月の年取りまで行商しながら年取り用の魚の注文も取った。お蔭で七箱分、数は覚えていないが早朝から配達始め終終ったのが夕刻一番遅く。配達した方は大分心配していたとか。しかし貴方はうそを云う人ではないなんてかなり信用もあった。これはほんと?後で聞いた話だがとても魚が美味しかったという伝言もあった程。幸いでした。

権田本市『吾が「人生の思い出」』 1989年(平成1)8月発行 69頁〜70頁
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